6 なごり花火

 三枚目のあぶらとり紙が透き通る。吸い取っているのはあぶらなのか汗なのか。もうあぶらとり紙だろうがコピー用紙だろうが、効果に大差がないような気がして、私はあぶらの上にファンデーションを塗り込めた。


「おはよう、美夏ちゃん。今日も暑いねー」


 トイレに入って来るなり、里葎子さんは手際よく腕や首を汗拭きシートで拭い、ささっとあぶらを押さえてからメイク直しに取りかかる。


「里葎子さん、汗なんてかかなそうですよね」

「代謝落ちてるって言いたいの?」

「いつも爽やかで羨ましいって言ってるんです」


 実際、里葎子さんからは汗の匂いなんてせず、フワッとなんだかいい香りがする。


「旦那さんが里葎子さんのうなじに吸いつきたくなる気持ち、ちょっとわかるなー」


 すり寄るように身を寄せ深呼吸すると、毛虫でも見たように距離をとられた。


「変態!」

「褒め言葉ですよ?」

「うれしくない」


 私のセクハラまがいの視線から守るべく、うなじを手で隠した里葎子さんは 、その拍子に何か思い付いたようで、あっさり話題を変えた。


「あ! ねえねえ!」


 うきうきしながらポーチを閉めるものだから、ファスナーがシュッと悲鳴をあげた。


「うなじで思い出したけど、花火見に行かない?」

「うなじ関係あります?」

「花火と言ったら浴衣じゃない。金曜の夜は暇?」

「暇です」


 スケジュール帳を開くことなく即答。わずかな予定は暗記できるレベルでスカスカの手帳など、確認するだけ時間の無駄だ。

 近所で開催される花火大会は、毎年8月10日と決まっていて今年は金曜日にあたる。今週は土日まで晴れる予定だから、延期になることもないだろう。


「うちの旦那と咲月と一緒に行くんだけど、美夏ちゃんもどうかなって」

「え……家族水入らずにお邪魔していいんですか?」

「水入らずじゃないの。旦那の友達とか、隣に住む女の子も一緒。だから行かない?」


 さっき近づいた距離を、ふたたびしっかりと空ける。


「……男性の紹介ならいらないですよ」

「ちがう、ちがう! 立石さんは奥さん連れだし、初音ちゃんは彼氏持ちだから」

「なーんだ。じゃあ行きます! 花火、久しぶりだなー」


 学生時代は友達と行ったけど、就職してからは一度もない。そして花火は、さすがにひとりで見に行くのは躊躇われた。


「美夏ちゃんは浴衣持ってる?」

「実家に置きっぱなしなんです。普通の服でもいいですか? 自分じゃ着られないし」


 母に何度教わっても、めったに着ないから忘れてしまう。ひとり暮らしの狭いクローゼットでは管理も難しく、結局実家に眠らせてあった。


「じゃあ、私の貸してあげる。着付けもしてあげるから。それで一緒に行こう」

「それだと遅くなりませんか?」

「もちろん、早退するのよ」



 カレンダーの関係で今週の土日からそのままお盆休みに入る。だから夏休みの有給を半日使って、定時より二時間早く帰ることにした。

 職場を出ると、すでにチラホラ浴衣姿の女の子たちが通りを歩いていた。自分もあの中に加わるのかと思うと、高揚感が爪先を踊らせる。

 嬉しい日には嬉しいことが重なるのか、バスを降りて少し歩くと、歩道の少し前に郵便バイクが停まっていた。まとめて持った郵便物を2~3軒のポストに入れ、走って戻ってから少しだけバイクを前に進める。また郵便物を持ってバイクを離れたので、バイクの隣で帰りを待った。


「こんにちは」


 やはり走って戻ってきた彼は、私を見て笑顔を浮かべた。


「あ、ミナツさん!」


 前に会ったときより腕も顔も黒く日焼けしている。こめかみを流れる汗を、取り出したタオルでぐいっと拭った。


「今日は仕事終わるの早いんですね」

「花火見に行く約束してて、ちょっとだけ早めの夏休みです」

「花火かー、いいなー」

「…………行きます? 一緒に」


 瞬間的に、ものすごく勇気を出して、あくまでさりげなさを装って言った。さりげなさを装った手前、動揺や緊張を悟られるわけにいかず、必死で視線を逸らさずに返事を待つ。


「ありがとうございます。行きたい気持ちはありますけど、残業があって」


 平静を装ったままの内側で、うれしく膨らんでいた気持ちが一瞬でしぼみ、ずしっと胃の底に溜まる。だけどそれだって気づかれるわけにいかないので、作った笑顔が崩れないように、顔に力を入れ続けた。


「お忙しいのに気軽に誘ってすみませんでした」

「いえ! こちらこそすみません。せっかく誘ってもらったのに。早く終わったら、ちょっと覗いてみようかな。約束はできませんけど」

「無理しないでください」

「無理なんてしてません」


 つい拗ねた声が出た私に、彼も少し強い口調で返す。けれどすぐに空気をふわっと緩ませた。


「ミナツさんはゆっくり楽しんできてくださいね」


 バイクが、絡み付くような熱を撒き散らして去っていく。本当に残業かもしれないし、断る口実かもしれない。真実を知るすべはなく、彼の残した「ちょっと覗いてみようかな」という言葉に含まれた希望を、消し去れなかった。



「里葎子さん、変じゃないですか? 髪ほつれてないですか?」

「ちゃんと着付けられたと思うけど。そんなに私って信用ない?」

「里葎子さんの着付けは信用してます! でも……着崩れてないか心配で」

「美夏ちゃん、10分ごとに鏡見るつもり?」


 旦那さまとその友人の立石さん夫妻が場所を取っていてくれたので、私と里葎子さん、咲月ちゃん、お隣に住む初音さんの四人は後から合流することになっていた。夕食は軽く済ませて、下駄をからころ言わせながらのんびり歩く。普段どこにこんなに人がいるのか、というほどたくさんの人が会場である海岸沿いに集まって行く。日が落ちて多少気温は落ち着いたけれど、人いきれで肌がベタついていた。


「わー! やっぱり浴衣いいなー。来年は着れるかなー」


 立石さんの奥さんは妊娠中で、ふわっとしたワンピースを着ていた。だから一見するとよくわからないのだけど、撫でたお腹は確かにぽっこりと大きい。


「来年はどうかなー?子どもできると動きにくい格好は難しいから。母乳だと授乳しやすさが第一だし」


 答える里葎子さんもデニムにカットソー。ここに来るまでにも咲月ちゃんを抱っこしたり追いかけたりしていたから、確かに浴衣は難しいかもしれない。


「そういうものなんだねー。おふたりは今のうちに浴衣楽しんで!」


 私より少し若い初音さんは白地に赤い金魚と水の波紋がかわいらしく、咲月ちゃんもピンクの花柄の甚平がよく似合っている。里葎子さんに借りた薄紫色に朝顔とうちわの絵柄の浴衣はとても素敵だけど、やはりこれは里葎子さんのもの。私には似合っていなかった。

 花火大会は夜7時から2時間ほど続く。ニュースになるような大きな花火大会とは違って、数発打ち上げては少し休む、を繰り返しながらゆっくりゆっくり進む。ひとつひとつを噛み締めるように見るのだ。

 里葎子さんの旦那様と立石さんが、焼きそばとフランクフルトを、また初音さんがかき氷買ってきてくれて、狭いレジャーシートに並べられた。私も買ったビールや缶チューハイ、ジュースを配る。


「咲月ちゃん、平気そうですね」


 ドーン!ドーン!という大きな音や火薬の匂いを気にする様子もなく色鮮やかな夜空を見上げ、合間にせっせとかき氷を口に運んでは落としている。


「ね! 私もびっくり。もっと泣いて騒ぐかと思った」


 咲月ちゃんの膝やビニールシートに落ちるかき氷をその都度拭き取りながら、里葎子さんも上がった花火に目を細めた。うっとりと眺めつつも口にはフランクフルトを突っ込むあたり、母はたくましい。

 花火はもちろんきれいだけど、ひとつ上がるたびに時間が過ぎていくのだと思うと心が軋んだ。そんな私をよそに、またひとつドーンと花火があがる。


「うーん、まあまあかな」


 さっきから携帯で花火を撮っていた初音さんが、視線の合った私に画面を見せる。


「花火って、携帯くらいじゃうまく撮れないですね」


 小さな画面にあったのは、平坦な黒い背景にぼやっとした火の粉が散らばっているだけのもの。花火を撮ったことはわかるけれど、お世辞にもきれいだとは言えない。


「本格的なカメラと技術が必要みたいですね」

「でもいいの。私が楽しんでること伝えたいだけだから」

「もしかして、彼氏さんですか?」


 角砂糖がほろほろと崩れるような笑顔で、初音さんはうなずいた。


「仕事で来られないから、嫌味ったらしく送っちゃうんです」


 きゅっと携帯を握りしめて笑う初音さんは、彼氏でなくても抱き締めたいほどにかわいらしかった。


「よかったら撮りますよ」


 手を差し出すと、


「じゃあお願いします!」


 と、かき氷を持って笑顔になった。白地の浴衣にかき氷のいちごシロップがよく映え、ぼやっと写った花火よりも彼女の方が輝いて撮れた。


「わあ! ありがとうございます!」


 残業でも、初音さんは彼氏さんと電話でつながっている。気持ちがつながっているのだ。幸せそうに携帯を操作する初音さんの笑顔を、花火の明かりがぱっと照らす。それがまぶしく感じられて、私は目を細めた。


「浴衣、せっかくだから彼氏さんに見せてあげたかったですね」

「ああ、それは……」


 うふふ、と初音さんは手で顔を覆った。


「……そっか、一晩中残業するわけじゃないですもんね」

「ええ、まあ」


 暗がりでわかりにくいけど、恐らく頬を染めているであろう彼女に笑顔を返して、音のしない空を見上げる。地上の賑わいのせいか、いつもより明るい紺藍の空がやけに切ない。


「中道さん、 こっちもどうぞ」


 立石さんの奥さんが、ポテトチップスを勧めてくれた。


「すみません。ありがとうございます。でもお腹いっぱいで」

「わあ、いいなー。私なんてつわりおさまったら止まらない」


 言葉通りポテトチップスを頬張る夫人を、立石さんが「そのへんにしたら?」と、ビールを空けながら形ばかり止める。聞き流す立石夫人のペースに引きずられて数枚食べたけれど、身体のどこに入っているのかわからないくらい落ち着かなかった。


「美夏ちゃん、大丈夫?」


 里葎子さんにも心配されるほど、空ではなくいつの間にか溢れる人ばかりを見ていた。


「大丈夫ですよ。ちょっと久しぶりの人混みにびっくりしちゃって」

「疲れたなら帰る? タクシーまで送るけど」


 里葎子さんの旦那さまが腰を浮かせるので、慌てて立ち上がってそれを制した。


「本当に大丈夫です! あ、カフェインレスのお茶が足りませんね。私、買い足して来ます」


 ドーン! ドーン! という花火の音を背に人の間をすり抜けていく。もうあと30分もすれば終わるので、少し早めに帰る人の流れがすでにできつつあった。たくさんの人がひしめき合う中を早歩きしながら、たったひとりの姿を探す。けれど、仕事の制服で来るわけもないし、ほとんどシルエットの中から探し出せる気がしなかった。わずかな希望にすがったけれど、「約束はできません」とも確かに言われたのだ。どこかで見て、もう帰ってしまったかもしれない。そもそも来ていないかもしれない。……別の誰かと見ているかもしれない。

 早歩きだった足が、とぼとぼとスピードを落とした。混み合うコンビニに入る元気もなく、少し離れた自動販売機に向かう。両親と小学生くらいの男の子ふたりの家族が、それぞれの飲み物を買っている間、その場からぼんやり空を見上げた。人の熱気の届かないそこは、風がよく抜け、まとめ髪で晒された首筋をぬるい風がかすめて去っていく。

 花火が上がる。音は立派だし、風に乗って火薬の匂いもするけれど、通りの脇に植えられたプラタナスに遮られて花火は欠けて見えた。どうりでここには人が少ない。


「ミナツさんは、よく自動販売機の前にいるんですか?」


 突然現れた待ち人は、最初から隣にいたかのように自然な態度で空を見上げていた。


「……たまたま、です」


 見つめ過ぎたらいけないと思って俯くと、首筋にくすぐったさを感じた。手をやると指先にほつれた髪の毛が触れる。あんなに気にした浴衣も着崩れしているに違いない。ちらりと隣をうかがうと、彼は期待するように空ばかり見ていたので、落ちた髪はそのままに私も空を見上げた。


「明かりの中にいたから、すぐミナツさんだってわかりました」


 ドーン! と欠けた花火に、「おおー!」と彼が歓声を上げた。


「やっぱり近くで見ると迫力ありますね」

「花火も久しぶりなんですか?」

「最近は遠くで音を聞く程度でした」


 続けてパンパンパンと弾けるような花火が上がった。それが消える直前に、またドーン! と上がる。今度は柳のようにスルスルと流れるような花火だった。


「きれい……」


 今初めて花火を見たような気持ちで、自然と口からこぼれていた。ゆっくり空に溶けていく火の粉を、最後まで追いかける。


「きれいですね。ちょっと欠けてるのが残念ですけど」


 彼の言葉に思わず吹き出す。


「夜桜も花火も中途半端ですね」

「見られただけで十分です。誘われなかったら来ませんでした」

「また自慢に利用してください。一応『女の子と花火見た』ので」


 冗談めかしてそう言ったけれど、彼は笑ってくれず、空ばかり見ていた。


「言いません」


 明るい紺色の空には、余韻の煙が漂うばかりで、彼が見つめる先はわからない。


「……どうして?」

「どうしても」


 ドーン! と花火が上がり、今度はたてつづけにドーン! ドーン! といくつも花開く。プラタナスと人で見えない地上近くでは、吹き上げるような花火も上がっているらしい。


「そろそろ終わりですね」


 彼が言ったのは、花火のことだった。だけど私にとっては『この時間が終わり』という意味と同じ。


「花火大会が終わると、もう夏も終わりって気分になりますね。まだ暑いけど」


 ほつれた髪の毛を揺らす風に、季節の終わりを感じて私は答えた。夏なんて好きではない。ジリジリ肌を焼く太陽なんて、早く沈んでくれ、と思って毎日を過ごしている。それなのに、急に夏が愛しくなった。「行かないで」って声に出してしまいたいくらいに。


「ミナツさんは誰かと一緒ですよね?」

「職場の先輩と、その家族とかお知り合いとか」

「じゃあ、早く戻らないと」

「…………はい」


 そう言うのに、お互い動く気配も見せず、夜空に花火の名残を探して、いつまでも眺めていた。


「近くまで送ります」


 ようやく彼が一歩歩き出すから、仕方なく後に続いた。からんころん、という下駄の音が余計に寂しさを掻き立てる。帰る人の流れに逆らうには一列にならなければならず、私はずっと彼の背中ばかりを見ていた。髪の毛についたヘルメットの型が、仕事の疲れのようにも見える。紺色のTシャツにデニムの彼は、すぐ夜に紛れてしまいそうで、必死に後を追った。

 やがて、後片付けを始めている里葎子さんたちの姿が遠目に見えた。


「あの」


 ガヤガヤという人混みに声は紛れて、すぐ目の前の彼にさえ届かない。


「すみません!」


 少し声を大きくしても気づいてもらえず、その背中は人混みを掻き分ける。


「待って!」


 Tシャツの裾をきゅっと握って、ようやく振り返った彼に、少し大きな声を向ける。


「もう、すぐそこなので!」


 里葎子さんたちの場所を視線で示すと、彼は笑顔で一歩下がって道を開けた。


「そうですか。じゃあ、帰りは気をつけて」


 促されても、離れる気にはなれなかった。裾を握ったまま離そうとしない私に、彼は少し意外そうな表情になる。その顔を見ながらTシャツを引っ張るようにして、もう一歩近づいた。暗くて、見知らぬ人とでさえ触れ合う人混みの中では、許されるような気がして。声が届くように口元に手を添えて背伸びをしたら、意図を察して耳を寄せてくれる。湿ったような体温と首筋の匂いを、直接感じた。


「名前、なんて言うんですか?」


 すぐ近くで見合わせた顔には少しの驚きが浮かんでいた。「ああ、そうか」とつぶやき、彼はさらに深く屈み込んで、触れるほど近くで答えてくれた。


「『オガワセイタ』です」


 心臓に直接届けるような声だった。


「『オガワセイタ』さん?」

「普通の『小川』に『晴れる』『太い』」


『小川晴太』

 心の中で噛み締めたら、青空が広がるように世界が明るくなった。


「すっごく晴れ男っぽい名前ですね」

「あれだけ毎日外にいれば、晴れ男も雨男も関係ないけどね」


 人の波が強くなり、立ち止まっているだけで邪魔になっていた。名残惜しさを理性が押さえつけ、握っていた手をゆっくりゆっくりほどく。


「危ないから、もう行って」


 小川さんに背中を押されて、振り返り振り返り戻るけれど、三度目に振り返ったときには、もうその姿が見えなくなっていた。


「美夏ちゃん! よかったー。何回も電話したんだよ!」


 言われた通り、携帯には里葎子さんの名前が連なっていた。


「人混みに巻き込まれちゃって。本当にすみません」

「お茶買いに行ったんじゃなかったっけ?」

「あ……すみません。買いそびれました」

「美夏ちゃんってときどきボロッと抜けるよねー」

「しっかりしてそうに見えるけどなー」

「段差は大丈夫なのに、何にもないところで躓くタイプなの」


 やさしい人たちに甘えて、私はすべてを笑って聞き流した。会話が全然頭に入ってこない。見ているものさえ理解できない。私の内側はすべて、青空に支配されていた





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