5 星にはねがわない

 レタスを手に取ってたっぷり10秒は見つめてから、そっと元に戻す。食材の買い物が嫌いだ。安いからって安易に買うと余らせてしまうし、余らないように買うにはちゃんと献立を考えなければならない。ちなみに「冷蔵庫のありもので……」なんていう芸当はできない。必要なものを必要分買うには、マメにスーパーに行かなければならず、それもまた面倒臭い。色々考えた結果、パンに牛乳、ウーロン茶、少しの豚肉とキャベツ、ホッケひと切れ、冷凍された鮭の切り身などなど最低限必要なものをカゴに入れた。そしてミント味のチョコレートも、メープル味のスナックも、フルーツもりだくさんのヨーグルトも。これだから嫌なんだ、食材の買い物は。余計なものを買い込んでしまう。

 袋詰めをするカウンターのすぐ隣に、ビニール紐で情緒のカケラもなくくくりつけられた笹が飾られていて、自動ドアの開閉に合わせてさらさら揺れている。カウンターの端には、長方形に切り揃えられた折り紙とペンもあった。七夕か……。短冊を書いたのはいつが最後だったか。特別何かするイベントでもないだけに、毎年なんとなく過ぎてしまう。当日になって「今年も天の川は見えないな」と、窓から夜空を見上げるだけ。チラホラ揺れている短冊には、「志望校に合格しますように」という切実なものも、「世界平和!」という本気度がわからないものもある。

 叶って欲しい願い事は、考えればたくさんある。ボーナスアップとか、髪の毛の癖を取りたいとか、食べても太らない体質になりたいとか。だけど、「叶えたい」と強く思う願い事は思い付かない。

 ちらりとよぎった願い事は本当にささいで、叶えたいと思ったら星を頼らずとも自分の力で叶えられる。だけど、それをしてしまったら、きっと何かが大きく変わってしまうから、私はずっと考えないようにしていた。ほんの少しでも前に進んだら認めなければならなくなる。だから願わない。叶わなくていい。そう思って、わざわざこの時間に買い物に出たのだから。

 両手に袋を提げて自動ドアを抜けると、湿った強い風にあおられた。雨を呼ぶ風だ。見上げる空も濁った薄い青で、それさえ鈍色の雲に侵食されていっている。今年も七夕には雨が降る。星が見えなければ願い事は叶わなくて済むのだろうか。

 もう少し猶予があるかと思っていたのに、帰り道からすでに雨粒がフロントガラスに落ち始めた。ゆるめにワイパーをかけながら、黒く塗り替えられていく道路を走る。アパートの駐車場に着いてからも、少しだけ降りるのを躊躇った。この短時間に空はすっかり見えなくなり、糸のように細い雨が行く手を遮っている。


「うわー……」


 私の溜息で雨雲はさらに厚みを増したように止む気配はなく、諦めるしかなさそうだった。しぶしぶビニール袋を両手に提げて走り出すも、牛乳とウーロン茶の重さでスピードが上がらない。けれど、数メートル走ったところでアパートの入り口に郵便バイクが停まっているのが見えた。とたんに、走れなかったはずの脚がスピードを上げてエントランスに飛び込む。


「あ、ミナツさん。こんにちは」


 カシャンカシャンとリズミカルに配達していた彼が、その手を止めて笑顔で振り返った。


「こんにちは。お疲れ様です」


 いろいろな感情を押し殺し平静を装ったつもりだったけど、完全に声がうわずった。まとわりついた雨でぐちゃぐちゃな身なりが気になっても、両手が塞がっていて直すこともできない。それに気づいて、慌ててさっと下を向く。


「車なかったから、いないのかなって思ってました。あ、持ちますよ」


 私の態度なんて気にした様子もなく、彼は牛乳とウーロン茶の入った重い方の袋を、迷いなく持ち去った。


「いえ! 大丈夫です! 自分で持てますよ!」


 慌てた隙にもうひとつも。


「ついでですから」


 どこか楽しげに、本人より先に部屋に向かう歩みは早く、私は小走りして追い付き鍵を開けなければならなかった。ドアを押さえて待っていると、彼は室内に足を踏み入れないように慎重に、袋だけを玄関に置く。


「ありがとうございました」

「では、これで」


 仕事の一環だったかのように変わらない笑顔で帰ろうとするから、つい引き留める。


「あ! ちょっと待って!」


 と言っても用事なんてないので、とっさに無駄に買い込んだお菓子の中からミント味のチョコレートの小箱を取り出して突きつけた。


「これ、よかったら」

「え?」


 荷物を持ってくれたお礼、という理由は弱いだろうか。いつも何かをもらうばかりではなくて、この人に私からも何か渡したい、と思った。本当はもっと別のものを渡したいけれどそれは無理だから、今の私にはミントチョコレートが精一杯。


「たくさんお世話になったから、……お中元、です」


 ラッピングもされておらず熨しも付いていない、明らかにたった今スーパーで買ってきたチョコレート。驚いてそれを見ていた彼は、吹き出すように笑った。


「ありがとうございます。お中元もらったの、初めて」


 彼の指がグリーンの小箱をしっかり掴み、するっと引き抜いた。そのあとで気づく。


「あ、チョコレートだと、溶けちゃう」


 雨とは言っても気温は高い。ずっと外にいる彼が持ち歩いたら溶けてしまうかもしれない。それから、ミント味は「歯みがき粉の味がする」と嫌う人も多いのだと聞いたこともあった。「やっぱりいいです」と取り返そうとする私の手を、彼はすり抜けて届かない高い位置に持って行ってしまう。


「大丈夫。溶けないうちに食べますし、溶けてもまた冷やして食べますから、心配しないでください」

「すみません。考えが足りなくて」

「なんで? うれしいですよ」


 雨の音がする。雨の音しかしない。何かもっと話したいのに、サアサアという雨音に言葉を奪われる。


「……すみませんが仕事に戻りますね」


 しばらく待ってくれた彼は、一瞬時計に目を落として、申し訳なさそうにそう告げた。


「あ、はい。すみません。ありがとうございました」


 一軒あたりどのくらい時間がかかるかわからないけれど、また余計な時間を使わせてしまった。

 遠ざかっていく足音の響きに気持ちを残しつつ、部屋を突っ切ってベランダから外を覗くと、雨は本降りになって窓ガラスを濡らしていた。伝う雨滴の向こうの彼は、それでも私に向かって手を上げて、雨の中を仕事に戻って行った。


「やだな。叶わなくてよかったのに」


 会いたくなくて、配達時間を見計らって買い物に出たくせに、バイクを見た瞬間には走り出していた。

『あの人に会いたい』

 叶ってしまった願い事は、予想通り認めたくない気持ちをしっかりつないでくれた。バレンタインならともかく、お中元で気持ちは伝わらない。

 一体どうしてくれるのだと、空に恨みを飛ばしても、ここぞとばかりに雲に吸収されて、星には届きそうもなかった。



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