4 長雨をはらして

 泣いてはいない……と思う。今日は本当に最低最悪の日で、大小さまざまに嫌なことがあった。私に非のあること、非のないこと、いろいろ。

 仕事でのミスは全面的に私が悪い。一口も食べていないヨーグルトを床に落としてしまったことも、私に責任があると言っていい。だけど、訪ねてきたお客様に「場所がわかりにくい」って怒鳴られたり、不安定に積んであった段ボール箱が上から落ちてきたのは、私のせいではないと思う。それから、予定より早く毎月のアレがやってきて下着ごと買いに走ったのも、パソコンの調子が悪くなったのも、ひとつひとつはちょっとした不幸だ。だけどそれが全部一度に降りかかってみると、イスから立ち上がれないほど辛かった。

 極めつけは、今、雨に打たれながら歩いていること。梅雨は短い地域だけど、グズグズした天気は続くから傘を忘れたりなんかしていない。会社を出たときは水玉模様のビニール傘をしっかり手に持ち、傘越しに降る雨を見て、「涙雨……」ってつぶやいたくらいだ。バスに乗ってぐったりシートに座ったとき、少し邪魔な位置に傘を置いてしまったことだけは、私にも責任はあったかもしれないけれど。

 私は毎日バス通勤だ。車は持っているけど、職場には従業員が停めるスペースはなく、近くに借りるとかなり料金がかかるから。バスに乗ってから20分。降りる予定の停留所の3つ前で、一番うしろに座っていたおじさんが停車ボタンを押した。走るバスの中を、カバンの中から定期を出そうとしながらふらふらと歩いてくる。そしてバスが停車。荒い運転ではなくてもそれなりにバスは揺れた。おじさんはよろけて、必死に脚を踏ん張った。バキッ!踏ん張った先は、私の傘の上……。


「あ」


 驚いてそれしか声が出せず、おじさんを見つめた。おじさんも「まずい!」って顔で私と傘を交互に見下ろす。呆然として動きを止めた私に対して、呆然としたままおじさんは再び歩き出した。申し訳なさそうにバスを降り、窓越しに悲しげな視線を送ってくる。バスは走り出し、おじさんの姿は見えなくなった。残ったのは、くの字に折れ曲がった水玉模様のビニール傘。


「えーーーーー」


 ようやく出た声も、一応車内なのでごく控えめ。状況は理解しているつもりでも、あまりのことに頭も心も追い付いていなかった。それでも怒りは次第に湧いてくる。折ったこと自体は事故だったとしても、謝罪の言葉ひとつなかった。バスを降りられてしまえば、もうヤツは見つからない。もしかしたら、同じバスに乗り合わせるかもしれないけれど、普通の普通の特徴のないおじさんだったから、もう顔も覚えてない。確かに安いビニール傘だけど、ドットの大きさや色が気に入ってたし、何より外は雨なのにもうこの傘は使えない。あのおじさんは、自分の傘を差していたのに!

 私の降りる停留所に着いた。ふたり降りたのを見て、ようやく席を立つ。


「すみません。この傘、さっき車内で折られてしまって」

「……は、はい?」


 不機嫌に話し掛けられた運転手さんも不幸だったけど、このまま惨めに傘を持ち歩きたくなかった。


「これ、処分してもらうわけにいきませんか?」

「それは、構いませんけど……大丈夫ですか?」


 フロントガラスを打つ雨を運転手さんは視線で示す。大丈夫なわけないでしょ!!という胸中の悪態を、心優しい運転手さんにぶつけるわけにはいかない。顔を取り繕う余裕はなかったものの、社会人として最低限の常識で頭を下げた。


「大丈夫です。すみませんが、お願いします」


 思ったより、雨は強くなかった。一瞬でずぶ濡れになるほどでもない。だけど、家まで10分歩けばぐちゃぐちゃだろう。救いは、バッグが合皮で雨に強いことと、大事な書類や本が入っていないこと。家に帰るだけだから、すぐにシャワーも浴びれること。


「最後の最後にこれかー」


 今日の締めにふさわしいとも言える不幸だった。いろいろ重なって疲れてしまい、事実貧血でめまいもするから、少しだけ早退したのだけど、それすら裏目に出た形だった。結果論だけど、いつものバスならこんな目に遭わなかった。おじさんにはもちろん腹が立つけれど、今日一日の自分の不幸に腹が立つ。

 こんな惨めな時間は早く終わらせたいのに、走る元気も出て来ない。とぼとぼと進んだ横断歩道の先、歩道との境目には大きな水溜まりができていて、迂回しようと一度方向を変えかけたけれど、そのままバシャバシャと水溜まりの中を突っ切った。靴は当然中までぐっしょり濡れた。

 広い世の中で、こんなことはよくあること。もっと不幸な人だってたくさんいるし、家に帰ってシャワーを浴びて、ご飯を食べて寝てしまえば、明日の朝には元気になれる。「ちょっと里葎子さん!聞いてください!」って、ちょうどいい話題にできる。わかっているのに、胸の中の涙は嵩を増すばかりで、目のすぐ際にまでそれは迫っていた。鼻の奥がつーんと痛い。大丈夫、大丈夫。ホルモンバランスが崩れて情緒不安定なだけ。家に着いたらちょっとだけ泣こう。そうしたら少しは楽になるはずだから。家まで我慢。家まで我慢。あと少し。どすどすと降る雨に頭を押さえつけられるように、私は地面ばかりを見て歩いていた。


「ミナツさーん」


 大きなバイク音と雨音の向こうから、私を呼ぶ声が聞こえた気がして足を止める。


「ミナツさーん」


 どんどん大きくなるバイク音と声。そして真横に真っ赤な箱をつけたバイクが停まった。水が跳ねないように、そろそろとやさしく。


「ミナツさん、傘忘れたんですか?」


 突然現れたずぶ濡れの配達員さんは、滴に濡れた顔で私を心配そうに覗き込んだ。


「あ、えーっと。こんにちは」


 これまでの惨事は一言では話せず、つい口ごもる。ところが返事なんて待つつもりはなかったようで、彼はもどかしそうに焦りながら箱の隅からモスグリーンのタオルを取り出した。


「これ、使ってください」

「え……でも……」


 あなたは?という言葉はふわりとかぶされたタオルに吸い込まれた。タオルはまったく濡れておらず、降る雨から私を守ってくれる。


「俺は慣れてますから。濡れるのも仕事みたいなものなので」


 確かに雨対策はしっかりなされた服装だったけれど、それでもえくぼまで濡れていた。


「本当なら送ってあげたいところだけど、すみません。そのタオル、使ってないから汚くはないです、多分」


 タオルからはほのかな柔軟剤の香りと、男の人の匂いと、多分箱とか紙とか、いろんな物の混ざった匂いがした。彼にまつわる雑多なそれは、新品のものよりどこか私を安心させる。


「使い終わったらポストに引っかけておいてくれればいいので。今度回収しますから。ほら、早く帰らないと風邪引きますよ」


 言うだけ言って、彼はバイクをくるりと回転させた。仕事のルートからはずれて、わざわざ来てくれたらしい。


「ありがとうございましたー!!」


 走り出した背中に叫ぶと、少し振り返って会釈してくれた。遮る雨で見えなかったけど、彼ならきっと笑顔だっただろう。

 前髪からぽたり、ぽたり、と滴が落ちていく。それがきらっと輝いた気がして頭上を見上げると、雨雲にしては規格外に空は明るかった。雲の隙間から太陽の欠片が漏れ出すように、雨粒はかがやきながら降りてくる。

 そこから歩いて5分。親切心はありがたくても、タオル一枚で防げる雨ではなく、結局ずぶ濡れだった。だけど、今にもこぼれそうだった涙は、不思議とどこかへ消えていた。


「さすがに、何かお礼しないと」


 当たり前だけど、何が好きとか苦手とか、何も知らない。彼は私の家も名前も知ってるというのに。


「あ、名前も知らないや」


 バイクの箱にも番号しか見えなかった。郵便局に問い合わせればわかるのかもしれないけれど、さすがにやり過ぎだろう。何が好きなんだろう?何なら迷惑にならないかな?泣くはずだった時間はわくわくとした気持ちで埋め尽くされた。


 日曜日は急ぎの郵便だけの配達だけど、土曜日は全種類の郵便が配達されているらしい。そんなことも、今まで意識して来なかった。いくら「ポストにかけておいて」と言われても、できるだけ直接返したいと思って、私はそわそわしながら土曜日を過ごした。タオルは丁寧に手洗いして、それからちょっと高めのドリップコーヒーも用意した。季節限定のものと、人気のものと、好みがわからないから数種類詰め合わせて。迷惑にならないようにいろいろ考えたのだけど、こうして並べてみるとまるで香典返しのように見える。タオル、ちゃんと洗えたかな。コーヒー苦手だったら嫌だな。差し出された厚意の半分も返せそうになくて、自分のセンスのなさが呪わしい。

 ブオオオオオ、という音がしたので、慌てて窓に駆け寄ると、案の定、郵便バイクの音だった。紙袋を抱えて部屋を飛び出し、エントランスに出ると、ちょうど各部屋のポストに郵便物を入れているところだった。しかしその背中は、期待したものより線が細い。あれ……?今日はあの人じゃない。バタバタという足音で、私の存在には気づいているだろうに、華奢なその人は存在ごと無視して仕事を続けている。突っ立っているのも恥ずかしくなり、「お疲れさまです」と声を掛けて、自分のポストから郵便物を受け取った。見知らぬ配達員さんは、無表情のまま会釈だけして、小走りでバイクへと戻って行く。

 郵便配達は毎日ある。だから担当がひとりだけのはずはなかった。そのうち必ず彼は来るのだから、言われた通りにポストに掛けておけばいい。それなのに、どうしようもなく気持ちが落ち込んで、行こうと思っていたカフェにも行かずにダラダラとした週末を過ごしてしまった。


『気を使わせてしまい、申し訳ありませんでした。

コーヒーはおいしくいただきました。

ありがとうございました。』


 月曜日に置いておいた紙袋はなくなっていて、翌火曜日にそんなメモがポストに入っていた。少し子どもっぽいけれど、おおらかでやわらかい文字が、ポスト型の付箋メモいっぱいに踊っている。本心とも社交辞令とも取れる文面から悪い印象は感じなかった。

 なんとなく捨てられず、冷蔵庫に貼って眺めていたら、背後のテレビから天気情報を伝える声が聞こえてきた。関東地方で梅雨明けが宣言されたらしい。テレビに映るビル街は濃い青空と太陽光に彩られている。その映像に、メモに添えられていたであろう笑顔が重なって見えた。

 まもなく、梅雨が明ける。



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