3 風かおる

 冬の間しょんぼりしていたベンジャミンを、ようやくベランダに出してあげられた。私の部屋は二階建てアパートの二階にあるため、日当たりはなかなかいい。けれども東南アジア原産のこの観葉植物は、やはり北国には向かないのか、葉の艶がよろしくない。高くなってきた気温に反してまだ冷たい風が頬を打つので、手すり壁の陰に移してあげると、葉の音だけはさわさわと軽やかに鳴った。同じ風にのって市営球場からの歓声も届く。

 とても贅沢に時間を無駄遣いしています。ちょっと遅くまで本を読んだり、映画を観たりして。夜更かしするって決めてるから、遅い時間にバニラアイスなんて食べたりして。しかもゴールデンウィークだから! って黒蜜ときな粉をプラスして、かけすぎたきな粉でむせたりして。それで目覚ましかけないで寝て、さらに二度寝したりして。

 今年は最大9連休だというゴールデンウィークに、世の中のどのくらいの人が海外旅行に行っているのか知らないけれど、私はこうして何もしない時間がとても好きだ。旅行はしなくても平気だけど、ぼんやりする時間がないと生きていけない。半分ほど空を埋めている雲がハイスピードで流れて行くのだって、ずーっと見ていられる。なかば本気でそれを実行に移そうとした私を止めたのは、無粋極まりない電話の着信音だった。


「はーーーい」


 通話ボタンをタップする時点で母だとわかったから、面倒臭さを隠さず出た。


『あんた、ゴールデンウィークは帰って来るんじゃなかったの?』


 もしもしという言葉さえなく、小言はいつも突然始まる。


「私、明日と明後日は普通に仕事だもん。3日に帰るよ。遥と会う約束してるし」

『え? 遥ちゃんと会うのっていつ?』

「えー、まだ決めてない」


 時間を無駄遣いするのは好きだけど、母の小言に取られる時間はもったいない。有効活用として、食パンをトースターに放り込み、スティックタイプのミルクティーをカップに入れて、食事の時間にしてしまう。


『伯父さんの一周忌法要出なかったんだから、あんたも樹もご挨拶は行かないといけないのよ? 早く日にち決めて連絡しないと』

「……お兄ちゃんも帰って来るの?」


 面倒臭いなという不満を、朝ごはんとも昼ごはんともつかないパンで押し込むと、いつもよりなんだか乳臭い味がした。あ、コンビニでちょっとお高いマーガリン買ったんだっけ。いつものスーパーの、安っぽいプライベートブランドの味が恋しい。


『友達と飲み会があるんだって』

「彼女と世界3000周旅行でも行ってればいいのに」

『彼女なんてできるわけないでしょ。あのデリカシーのなさで』

「だよねー」

『孫なんてもうとっくに諦めてるよ』

「私をお兄ちゃんと一緒にしないで」


 電話からはまだ母が仏壇に供えるお菓子のことだとか、お隣さんからいただいたお肉のことだとか、お寿司を頼む時間のことなんかを長々と語っているけれど、観るともなくテレビに視線を移して聞き流した。普段観ることのない平日の情報番組では、私の知らないタレントさんが生き生きと話題のグルメを紹介している。ゴールデンウィークでも、私が知らなくても、こうして働いている人はたくさんいるのだ。

 贅沢だな、と思う。こんなにストレスフリーな生活しておいて、一抹のさみしさを感じるなんて贅沢だなって。思えば、去年もこうして家にいた。引っ越す予定も転職する予定もないから、来年も再来年も、こうしてここにいて、実家に帰ったり友達と会ったりするのだろう。私は恵まれている方だと自覚している。嫌いな上司は隣の課だし、生活はしていけてるし、とりあえず健康。満足しているはずなのに、幸せか? と聞かれたら、幸せですと即答できる自信がない。このままいつか死ぬとして、そのとき私の人生ってなんだったと思うんだろう? 別に歴史に名前を残したいわけでも、誰かに感謝されたいわけでもないけれど、ひとりくらい泣いてくれる人が欲しい。あの兄が結婚できるとは思えないから、順当にいったら、私は最期ひとりきり……

 うんうん、と生返事を繰り返しながら寝転がったカーペットの上には、今食べたパンの屑が落ちている。きっとこれがマイナス思考の原因に違いないと、にっくきパン屑を摘まみ上げて空のお皿に落とした。

 聞き流し過ぎて母が何の話をしているのかわからなくなった、ちょうどそのタイミングで、ピーンポーン、と玄関チャイムが鳴った。


「あ! 誰か来た! ごめん、切るねー」


 嬉々として通話を切り、その妙にホッとしたテンションのまま、軽快にドアを開けた。


「はいはいはーい!」


 白いヘルメットに青色ユニフォームを着込んだ救世主は、郵便配達員さんだった。無意味な笑顔で迎えられた彼は、さらなる朗らかさで、


「こんにちは。書留です。ハンコかサインお願いします」


 と、封筒とシールみたいな伝票を差し出す。書留なんてあまり縁がないので少し不審に思ったけれど、差出人はクレジットカード会社。更新された新しいカードが送られてきたらしい。玄関脇の小さな引き出しからシャチハタ印を取り出し、カシャンと押して渡した。


「ありがとうございました」

「はーい。お疲れさまでした」


 配達員さんが立ち去るのを待って笑顔のまま動きを止めたけど、目の前に立ったままポケットをごそごそ探っていてなかなか帰らない。ドアを閉めてしまおうか。それもなんだか情がない。もしかして、他に何か手続きが必要なのかな? ほんの数秒程度の時間を持て余していると、


「あと、これ。忘れ物です」


 と、ポケットから240円を取り出して差し出された。


「……………はい?」

「この前、忘れましたよね?」

「………………?」


 名前が書かれているわけでもないお金を見つめて固まる私に、配達員さんは吹き出した。


「やっぱり覚えてませんよね」


 ヘルメットを取って、ペタッとなった髪をクシャクシャと掻き回す。


「夜桜のときは、ごちそうさまでした」


 少しいたずらめいた笑いで、再び240円を差し出す。その左頬にはえくぼができていた。


「あのとき、自動販売機からお釣り取って行かなかったでしょう?」

「あーーーーーーっ!!!!」


 お釣りがどうだったかなんて覚えていないけど、目の前の彼は確かにあのときの男性……のような気がする。暗い中少し見ただけの顔をはっきり覚えていないものの、話した印象や、背の高さ、何よりそのえくぼに確かに覚えがあった。


「今度渡そうと思って、預かっておきました」


 と、つられて差し出した私の手にお金を乗せた。


「あのとき、もしかして私のこと知ってました?」


 「預かっておいた」ということは、返す宛を知っていたということになる。


「わかりますよ。ここの地区担当になって長いから何度も顔合わせてますし。配達員って記憶力が結構重要なんです」


 ああ、だから! 知っていて、体育館の排水溝を教えてくれたのだ。それが私の家の近くだなんて、彼にしてみれば至極当然のこと。

 ふと視線を下げるとだいぶ薄汚れて、ゴミ捨て用にしているミュールが目に入った。さっきまでの生活を考えると当然ながら、着ているものだって伸びきったTシャツワンピースにパンツもジャージ素材。郵便物を受け取るときなんてたいていこんな格好だ。きっとパジャマだったこともある。目の前の彼がそれを気にした様子はないけれど、記憶力が重要というのだから覚えているに違いない。私の方は配達員さんの顔さえ覚えてなかったのに。人間扱いして来なかったなんて、失礼なことをしてしまった。


「言ってくれればよかったのに……」


 不満が滲むのは八つ当たり。恥ずかしさより申し訳なさが勝って、転じて腹立たしくなった。彼はちゃんと覚えていて親切にしてくれたのに、私が覚えてないことさえ当然だという態度が気にくわない。


「だって中道さんは俺のこと覚えてないのに、いきなり話しかけられたら怖いでしょう」

「……名前も知ってるんですね」

「当然です。『ナカミチミカ』さんでしょう?」

「残念! 『ナカミチミナツ』です」


 『美夏』は特別な読み方をするわけではないけれど、なかなか一発では読んでもらえない。彼も字を思い出す間少しだけ止まってから、深々と頭を下げた。


「失礼しました。郵便物で読み方まではわからないので」

「いえ、よくあることですから。それより、配達先の人の名前、全員覚えてるんですか?」

「そうですね。住所と名前と家族構成と生活サイクル。地区内なら把握できる範囲のことはだいたい」

「……すごい」

「仕事ですから。覚えてると誤配を防ぐことに繋がるので」


 彼はふわっと目を細める。


「でも、ずっと『ミカ』さんだと思ってました。『ミナツ』さんかー」


 ミナツさん、ミナツさん、と言い遊ぶみたいに何度も繰り返す。読み方なんて、配達には必要ないのに。必要のない情報を共有するということは、とても親近感が湧くものらしく、目の前の彼はもうただの「郵便物を持ってきてくれる人」には思えなくなっていた。


「今日もお仕事なんですね」

「書留とか速達とか、急ぎの郵便だけですけどね」

「それだと旅行なんて行けないですね」

「そんなことないですよ。休みがズレるだけですから。ミナツさんはこれからですか?」

「……いえ。たいした予定のない虚しい連休です」

「虚しくなんてないでしょう。お休みは休むものですから」


 気を使った風でもなく、いたって真面目な顔で答えた。


「そう思います?」

「思います。それに、俺にとっては幸運でした」

「あ、そうですよね。再配達って面倒だし」


 彼はどことなく曖昧に笑って、さりげなく時計を見た。普通に話し込んでいたけれど、彼が仕事中だったことを思い出した。


「わざわざありがとうございました」

「いえ、ではこれで。ありがとうございました」


 配達員さんの態度に戻ってペコリと頭を下げ、ヘルメットをかぶりながら急ぎ足で帰って行く。部屋に戻ってからなんとなく窓の外を見ると、彼はお腹に付けたバッグに何かをしまっていた。思い出してベランダに飛び出し、走り出そうとする彼に大きな声をかけた。


「排水溝ー! きれいでした! ありがとうございましたー!」


 彼は止まって笑顔で手を振ってから、慣れた様子で重そうなバイクを回転させて走り去っていった。モグラ避けに植えられた水仙が、その風に薄黄色の花を揺らす。

 祝日に仕事している人がたくさんいるという、当たり前の事実に、今初めて気づいたような気がしていた。そういう人がいないと困る。毎日当たり前のように受け取っていた郵便物だって、誰かが運んでくれている。

 いつの間にか、空の半分を覆っていた雲がはるか遠くに流されて、家々の窓ガラスにお日さまの光がきらり、きらり、と反射していた。風はやはり冷たいけれど、さっきよりやさしくカーテンと髪の毛とベンジャミンの葉を撫でる。部屋の中の澱んだ空気がどんどん浄化されていくよう。


「うーーーん! いい気持ち!」


 雪解け直後は埃で汚れていたこの街でも、五月は新芽の萌え出る季節。暑くもなく寒くもなく。嫌いな上司は隣の課だし、生活はしていけてるし、とりあえず健康。祝日には誰に気兼ねすることなく、ゆっくり休んでいられる。今もし、幸せか? って聞かれたら、幸せですって言えるかもしれない。







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