2 花ちるゆうべ
〈夜桜〉という言葉が幻想的な響きを持つのに対して、現実にはひどく俗っぽい思い出しかないのは、それがいつも飲み会とセットだからかもしれない。
「あまー」
「う、うんうん。そうだね!」
「あまー」
「えっと、これ食べる?」
「あまー」
新入社員研修以来の真剣さで耳を傾けたけれど歯が立たず、困惑が勝った笑顔を里葎子さんに飛ばした。その様子を見て里葎子さんは大笑いしながら通訳に入ってくれる。
「咲月、あれはニャンニャンじゃなくてワンワンだよ」
「あま?」
「そうそう、ワンワン! 上手ね!」
言葉が通じて満足したらしく、咲月ちゃんは握りしめてボロボロになったおにぎりにかぶりついた。
「全部『あ』と『ま』で表現するけど、本人は一生懸命話してるつもりなの」
「私の修行不足です……」
里葎子さんはもうすぐ2歳になる咲月ちゃんの言葉をほぼ正確に理解する。文字にはできない微妙なニュアンスと状況でわかるらしい。
「あまー(ママ)」
「はい、なあに?」
とか、
「あまー(いただきます)」
「はい、召し上がれ」
のように。それでも他の子の言葉はわからないというから、コミュニケーションとは言葉以外のもので行われているんだなー、と思う。
観桜会は毎年四月の第四週に行われている。日にちが明確でないのは、第四週の天気予報を見て前の週に決められるからだ。だから週末というわけにもいかず、今年なんて月曜日に、市内ではそこそこ大きくて〈さくら祭り〉を開催している公園まで徒歩でやってきた。
「子どもの成長って早いですねー。去年は里葎子さんに抱っこされてミルク飲んでたのに、今年はちゃんとお座りしておにぎり食べてるんだから」
「そうよね。親の私でもそう思うもの。他人の子の成長は尚更早いよね」
「あーあ。私が同じ毎日をぼーんやり過ごしてる間に、咲月ちゃんはどんどん大きくなってるんですね」
「私から見ると美夏ちゃんだって十分成長してるけどね。こっちは成長どころかエネルギー吸われてボロボロよ」
少しだけ荒れた手で里葎子さんはレジャーシートにこぼれたご飯つぶを拾う。桜の花びら同様、ご飯つぶはひっきりなしに降ってきて、結果おにぎりの半分はティッシュに吸収された。
「私の場合、成長というよりただの慣れですから。退化しないように努力します」
缶チューハイを飲むついでに見上げる頭上には、散り始めの桜と、ライトアップ……というにはおこがましい電球がだらしなく揺れている。オードブルにももれなく桜が降り注いでいるので、花びらを箸で摘まんで避けてから、私もミートボールを一口で放り込んだ。「観桜会」と言っても、頭上の花を愛でている人なんておらず、仕事の話をする者、子どもたちと駆け回る者、恋愛やゲームの話で盛り上がる者、それぞれ忙しい。
「今年はあったかくてよかったですね」
桜の見頃より何より、天気と気温が大事。昼間の天気に比べると薄曇りで、三日月より太めの月は寝返りをうつ程度にしか顔を出さない。それでも寒くて涙目になった去年に比べて、今年は花もお酒も楽しむ余裕がある。
「美夏ちゃん、去年は『もう来ない!』って、そればっかり言ってたもんね」
「食べる気力も飲む余裕もあるし、咲月ちゃんの成長も見られたし、今年のお花見は人生最高です」
「そんな大袈裟な」
笑い飛ばす里葎子さんに、私は夜桜を見れば思い出すどんよりとした思い出を語って聞かせた。
「小さい頃は毎年父が友達と集まって花見してて、それに連れて行かれたんですけどね、酒癖の悪いおじさんには絡まれるし、親の見てないところでお菓子をカツアゲされるし、いいことなしでした。夜桜と聞いてイメージする言葉は『忍耐』です」
咲月ちゃんにビスケットを渡しながら、里葎子さんは苦笑いする。私が入社する前年には、予報外の雨に降られたと聞くから、一概には否定してこない。
「じゃあ夜じゃなくて、昼間の桜でイメージする言葉は?」
圧倒的な華やかさに加え、散り際の儚さ、潔さを併せ持つ桜だ。そうそうマイナスイメージは持たないだろうと、ロマンチックを期待する空気は感じていた。が、思い付いたのはもっと即物的な答えだった。
「うーん? ……『美味』ですね」
「『ビミ』?」
『忍耐』という言葉を聞いたとき以上に、里葎子さんは眉をひそめる。
「花の根元のところだったかな?そこを開いて舐めると甘いんですよ。小学生のとき同級生の女の子が教えてくれたんです」
あのころよく遊んだかなちゃんと、柵に登って校庭の端にあった桜から、一心に花をむしって舐めた。ほんのり甘い蜜は、お腹が満たされるわけでもなかったけれど、植物の青臭さと花の香りが特別なごちそうのように感じて忘れられない。
「おいしかったなー」
「『花よりだんご』の上を行く所業ね……」
さすがに公園の桜をむしるわけにはいかないので証明することもできず、可憐な花をぽーっと見つめる。その食欲を打ち消すように、里葎子さんがパンッと手を叩いた。
「同級生っていえば! 声かけた人いたんだけど、残業らしくって来られるかわからないって言ってたの。ごめんね」
「全然構いませんよ、私は」
誰か呼ぼうか? という申し出は断ったはずだけど、里葎子さんには伝わっていなかったのか。お腹も満たされ、早く帰って寝たいだけの私に、これからお見合いに臨むような気力はない。
「もっと残念がってくれてもよかったのに」
「正直なところ、面倒臭いです。もう寝たい」
里葎子さんの膝の上でとろとろまどろむ咲月ちゃんを見ていると、こちらのまぶたも重くなってきた。本来ならこの観桜会こそ出会いの場であるはずなのに、恋の予感も春の宵には眠気優先。
「美夏ちゃんって恋愛はお休み中?」
「恋はしたいですけど、『彼氏が欲しい』っていうのとはちょっと違うんですよね」
誰かを紹介してもらって、その人と連絡を取り合って会う。そんな業務と変わらないやり取りの中に、私の求める〈恋〉があるようには思えない。そんな疲れる関係を抱えるならば、退屈な毎日でものんびり過ごす今のままがいい。恋はしたい。ドキドキときめくような。だけど、それがどんなものだったのか、思い出せなくなっている。
「紹介されたからって必ず付き合わなきゃいけないわけじゃないし、ひとつの出会いの形だと思うんだけど」
自身も先輩の紹介で旦那さまと知り合った里葎子さんからしたら、私なんて尻込みしてるようにしか見えないのだろう。だけど紹介とは言え、旦那さまの方が友人に頼み込んで、太陽のたまごパフェを三回奢る約束で里葎子さんを紹介してもらったというのだから、今の私とでは状況が違う。
「特に美夏ちゃんは見る目なさそうだから心配」
「……そうですね」
浮気症の元カレに振り回された日々を蒸し返されたくなくて、新しい瓶を片手に立ち上がる。折よく課長の日本酒が少なくなっていた。気を取られることばかりで見上げる桜には、やはり『忍耐』の二文字がよく似合う。
二次会に流れる集団から離れ、目指したのは大きな通りとは反対方向である公園の西口。後片付けは幹事と新入社員がしてくれるので、里葎子さん一家と別れてしまえばひとりだった。
解放感で観る夜桜は、さっきよりは生き生きして見えるけれど、園内に充満する喧騒の中ではやはり落ち着かない。桜から視線を逸らして歩く私の足元で、通常より砂の多いアスファルトがざりざりと鳴っていた。
裏通りに続く西口に桜の木はなく、重苦しい松が連なっている。ざわざわという針葉樹の葉擦れの音は、感じていない不安な気持ちさえ呼び覚ますようだった。梢を抜けてくる風も、さっきより冷たい。
「やっぱり寒いな」
街灯の少ない西口にあって、自動販売機は唯一の灯火のように強い光を放っていた。あたたかいミルクティーを見つめながら、お財布から500円玉を投入すると、からんと空虚な音がする。
「あれ?」
500円玉は機械に入らず、そのままつり銭口に落ちていた。取り出して見てみても、特別おかしなところはない普通の500円玉だ。けれど、もう一度投入してみても、結果は同じ。
「えー! 一万円しかない……」
お財布を掻き回したけど、小銭は足りないし、自動販売機で一万円は使えない。はあああああーーーっと、怒りと悲しみの塊が口から出た。額を自動販売機に預けると、そこからさらに冷たさが全身に広がる。やっぱりいいことないな、観桜会。
カシャンとさっきとは違う音がして顔を上げたのと同時に、目の前が一段と明るくなった。見るとすべてのボタンが赤く点灯している。驚いて飛び退いたすぐ隣に、若い男の人が立っていた。
「あ、すみません」
邪魔になっていたかと場所を空けると、笑顔で首を横に振る。その左側にだけ、えくぼがあった。
「よかったら、500円玉交換しますよ。代わりにこっち、もらいますね」
と、つり銭口にそのまま残っていた500円玉を自分のお財布に入れた。
「え……いいんですか?」
「別に俺は損してませんから」
「すみません。ありがとうございます!」
ミルクティーのボタンを押すと、しっかりあたたかいボトルが落ちてきた。それを見届けて、彼もホッとした笑顔を見せる。
「では」
と帰ろうとするので、急いであたたかいお茶のボタンを押す。
「あの!」
数歩離れた彼が振り返る。その距離を小走りで詰めた。
「本当にありがとうございました! よかったら、どうぞ」
お茶を差し出すと、恐縮しきってざりざり後ずさられる。
「そんな! 本当に俺は何も損してないし、そこまでしてもらうわけには……」
「もう買っちゃったし、お礼の気持ちです。緑茶は嫌いでしたか?」
困ったように眉を下げてみせると、わかりやすくおろおろしてから、ようやくボトルを受け取ってくれた。
「いえ、好きです。すみません、いただきます!」
証明するようにその場で一口飲むので、私もミルクティーのキャップを開けて飲んだ。
「あー、おいしい」
素で言葉がこぼれた。
「おいしいですね」
ただのお茶なのに、彼もしみじみと言う。
「お花見ですか?」
ちょっと気詰まりな気がして問いかけたら、彼は一度携帯に視線を落としてから、ふっと笑った。
「そのつもりだったんですけど、もう終わってしまったみたいです」
「あらら、残念でしたね」
「いえ、夜桜は見られましたから」
彼が向ける視線の先には大きな広場があり、そのさらに向こうに桜並木が見える。間近で見るとそれなりにきれいなのに、遠目だと若芽の緑が目立ってしまい、色合いは濁った印象になる。しかも電球や『桜まつり』と書かれた灯籠に照らされた桜は、それだけでどことなく俗っぽい。けれど私は、さっきより穏やかな気持ちでそのくすんだ桜を眺めていた。
「あんまりきれいじゃないですけどね」
なぜか心とは反対に不満を口にすると、彼はえくぼを深めて楽しそうに笑う。
「でも、夜桜なんて久しぶりだし、明日職場で『女の子と夜桜観た』って自慢できます」
「こんなので自慢できますか?」
「おいしいお茶までもらって最高です」
「じゃあ、ぜひお役に立ててください」
また一口飲んだミルクティーは、一層ぬるくなっていて、冷えた身体をあたためる力は持っていない。それでも喉を通って胃に落ちて、指先にまで染みていくのがわかるようだった。
「市立体育館の駐車場に」
おもむろに、彼は話し出す。
「大きめの排水溝があるんです。正方形で格子の蓋がのってる」
「はい?」
「桜の花びらがいっぱいにたまってて、すごくきれいなんですよ。雨が降ったら大変だと思いますけど」
「あ、体育館なら、うちのすぐ近くです!」
笑顔で彼に伝えると、くつくつと含むように笑って、じゃあ、ぜひ。おすすめしますと笑ったまま言った。
一層大きく松が騒いで、一拍遅れて強い風が届く。砂が入らないようにキャップを締め、その流れで彼に改めて頭を下げた。
「では、失礼します。本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
公園を出て少し歩くと、ローヒールのパンプスに桜の花びらが落ちてきた。見上げると民家の庭に一本だけ桜の木がある。日当たりが悪いのか、少し遅めの桜はちょうど見頃で、りんりんと鳴るように花が揺れていた。
「こっちに誘えばよかったな」
この桜を見たら、きっと彼はまた笑うだろう。ああ、さっき見たわたあめも買えばよかった。ひとりだと多いから諦めたけど、ふたりでなら食べられたのに。残念残念と軽く弾むパンプスに、花びらがくっついていたことに家の玄関で気づいた。
翌朝20分早起きをして、私はいつもより遠回りでバス停に向かった。体育館の排水溝には、ピンクのふわんふわんの花びらがたっぷりと積もっていて、まるで春を箱詰めしたようだった。深く息を吸い込むと、朝の湿気と桜の香りが身体の中に満ちていく。通勤の喧騒が届く中、しばらくぼんやりと春に包まれていた。ずっとそうしていたかったけれどバスの時刻が迫っていたので、携帯で一枚だけ写真を撮って、名残惜しくも離れた。
その夜天気は崩れてしまい、桜はあっという間に姿を変えてしまった。恐らく民家の桜も、体育館の排水溝も。桜の季節の終わりは、どうしてもさみしい。だけど春はまためぐってくる。きっと、また。
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