きらり、きらり、
木下瞳子
1 春のおとない
いつだって、予感なんてない。
恋は嘘みたいな奇跡をはらんで、日常のそこかしこにひそんでいる。
*
この季節の天気は雪の名残で雨が多い。雨、雨、晴れ、晴れのち曇り、雨、晴れ、雨。冬物のコートをクリーニングに出して油断していると、時折強烈に冷える日があって、雨が雪に変わることもある。春はいつだっておだやかさとは無縁で、それゆえに心まで沸き立つ忙しない季節だ。
四月二日月曜日。晴れ。いまだ葉のないイチョウの向こうに見える空は、灰いろがかった青で、器用に晴れになりすました曇り空にしか見えない。本部の入ったビルごとぼんやり空なんか見て歩いていたら、冷たい強風に背中を押された。とんとんとんと階段を上って自動ドアを抜ける私の横を、コンビニのビニール袋がものすごい勢いで飛んでいく。
「おはようございまーす」
惰性の笑顔を添えて同じ課の先輩である伊東さんに挨拶すると、
「あー、おはよーございまあぁぁ」
返って来た挨拶は、半分あくびへと変わった。
「伊東さん、転勤なくてよかったですね」
「あったら困る。ここに骨を埋めるつもりで生きてるから」
地元採用の私と違って、伊東さんは一応東北全域どこの事業所でも転勤の可能性がある。けれど、基本的に最初に配属された事業所内に収まることが多い会社だ。伊東さんも奥さんの実家をリフォームして、ここに根をおろしている。
「誰も異動ないんだから、歓迎会なんてしなくていいと思いませんか?」
新年度の始まりと言っても、結局はただの月曜日。どこかにいる新入社員のフレッシュ感はここまで届いて来ない。歓迎する相手がいなくても年度始めの飲み会はしっかりある上に、事業所全体での観桜会も立て続けにある。
「懇親会費集めてるから、やらないと予算余るの」
「だったら観桜会を豪華にホテルでやりましょうよ!」
「肝心の桜は?」
「心の目で観ます!」
小さなビルなのでエレベーターは二基しかないけれど、さほど混んでいない。狭いエレベーター内では会話は丸聞こえだとわかっていても、一応マナーなので声はひそめる。
「外で飲むのが楽しいんじゃない」
「だって寒いですもん」
「飲めばあったかくなるって」
「寒い中、冷たいビールなんて口にする気にもなりませんよ」
大きく揺れてエレベーターが四階に着くと、真っ直ぐ自席に向かう伊東さんと別れてロッカーへ行く。里葎子さんがちょうど支度を終えたところでロッカーの鍵を締めながらふり返った。
「里葎子さん、おはようございまーす。今年度もよろしくお願いします!」
私より二歳年上の里葎子さんは、すでにご結婚されてお子さんもいる。少し疲れた顔はしていても、プライドを込めたようにいつもキレイに手入れされたネイルが、ネズミいろのオフィスではまぶしい。
「おはよう、美夏ちゃん。こちらこそよろしく……髪、すごいよ?」
その美しいネイルが、私の後頭部に向けられた。寝癖なんてないはずですよ? と疑い半分で示された場所を鏡で確認すると、後れ毛というには無理のある毛束がバサッと落ちていた。
「あ、本当だ」
一度ゴムをはずして、すっぴんの手でまとめ直す。
「嘘つくはずないでしょ。エイプリルフールは昨日だし」
「エイプリルフールにしては嘘が地味だと思いました」
「地味……『ツチノコ』は派手なの?」
里葎子さんが私の鼻先に突きつけてきた携帯画面には『今日の夕食はツチノコでーす!』というメッセージと写真が踊っている。送信者は私。
「わかりやすいじゃないですか」
「ツチノコねぇ」
「おいしいツチノコでした」
「なんでアジの開きなの?」
「アジの開きってツチノコに似てませんか?」
里葎子さんは拡大した写真を、近づけたり遠ざけたりしながらまじまじと見つめる。老眼の人みたいだなって思ったけれど、絶対怒るから言わなかった。
「言われてみれば見えなくもない、かな」
言葉とは裏腹にまったく共感していない様子で、携帯の画面をオフにする。
「今時『ツチノコ』なんて言ってるの、美夏ちゃんくらいじゃない? なんでそれを選ぶかな?」
「『私、会社辞めました』って言ったらびっくりしますよね?」
「すぐ確認の電話する」
「リアリティーのある嘘だと、迷惑かかるじゃないですか。嘘だとすぐにわかる嘘、っていうのが私のこだわりなんです」
「……やめたらいいのに」
私にとって、エイプリルフールの嘘は年中行事。友チョコを配る感覚で、里葎子さんにもどうでもいい嘘を送っている。必要のないやり取りこそコミュニケーションだと思っているのだ。簡単に嘘とわかる嘘は意外と難しく、ツチノコは重宝しているのだけど、私自身よく知らない。あれってヘビなの? トカゲなの? とうろ覚えの知識を確認することなく、イメージだけでアジの干物を利用した。
「春にはやっぱりわくわく感が欲しいじゃないですか」
「ツチノコじゃわくわくしないな」
「じゃあ、何ならわくわくしますか? 座敷わらしとか? カッパ?」
「……ドラゴンかな」
「ドラゴン! ……いつだったか冷凍のワニ肉なら見たことあります。それでもいいかなー」
「エイプリルフールって食べる行事じゃない気がするんだけど?」
仕事も変わらず前年度の続きで、席の配置も変わらない。本当にいつもと同じ月曜日なのに、心のどこかで何かを期待する気持ちが疼く。変化がないのは穏やかで嬉しいけれど、一年後、また同じ気持ちで同じ景色を見ているのかと思うと、新年度には似つかわしくないくたびれた心境になった。
パソコンが立ち上がるまでの数秒、頬杖をついて窓の外に目を向ける。風の届かない室内から見る空は、春のうららかさと舞い上がる埃を湛えて微笑んでいた。
里葎子さんの彩り豊かなお弁当は、女子にとってむき身のナイフと同等の殺傷能力があるに違いない。コンビニのサンドイッチを噛みしめながら私は殺気を感じていた。
「里葎子さん、完璧過ぎます。お願いだから『掃除は苦手』って言ってください」
きちんと整理されたデスクの持ち主に無理難題を押し付ける。私のデスクもそこそこ片付いているのだけど、処理を待つファイルや伝票が常にパラパラと残っていて、すっきりしたためしがない。
「いや……これは作ったけど、こっちは冷凍食品、こっちは昨日の残り物だから……」
「やったー! 里葎子さん、大好き!」
冷凍食品を詰めるのすら面倒臭いと思ったことは、コーヒーと一緒に流し込んだ。
「ただの節約。旦那と私、ふたり分の弁当代って結構かさむから。ひとり分作るのは面倒だけど、ふたりならそうでもないしね」
「いやいや、愛ですって! 愛! 自分のためには頑張れなくても、好きな人のためなら頑張れるものですから」
「『好きな人』……。旦那って、もうそんな感じしないんだけど。そういえば美夏ちゃんはどうなの?」
「昨日『彼氏できましたー!』って送ればよかったですね。すぐわかる嘘だから」
乾いた笑いとともに吐き出しつつ、来年のエイプリルフールはそれにしようと心の中で決めた。“彼氏”はハイスペックに高級すき焼き肉とかにして、ひとりぼっちですき焼きしてる写真を送りつけてやろう。
異動がないのは楽でいいけれど、つまりは新しい出会いもない。昨年度なかった出会いが今年度あるとも思えない。
「観桜会に誰か呼ぼうか?」
観桜会や納涼祭といった仕事に関係しない飲み会には、家族や友人を誘ってもいいことになっている。里葎子さんも同じ事業所で働く旦那さまとお子さん連れで参加するし、仕事で繋がりのある他社の人にも声をかけていた。
「いや……いいです、別に」
たまごサンドを取り出しながら答えた声は、里葎子さんの携帯のバイブ音で掻き消された。何気なく携帯を見た里葎子さんは、しばらく首をかしげている。
「え? え? あれ? ああーーっ!」
青い顔で携帯を操作していた彼女が額に手を当ててうなだれた。
「どうしたんですか?」
問いかける声に対して、里葎子さんは箸を置いて本格的に頭を抱え直した。
「昨日美夏ちゃんからきたエイプリルフールのメッセージ、娘が勝手に他の人に転送してた」
「……は?」
「ごめん」
小さな子が携帯をいじってしまうことはよくあるらしく、私にも何度か友人から無言電話のようなものがかかってきたことがある。「ごめん! 子どもがかけただけ!」と謝罪の連絡があったりもした。どうやら私のアホなメッセージが、無関係な他人に流出したらしい。
「いや、別に私はいいですよ。どうせくだらない内容だし。相手は誰なんですか?」
個人情報というほどのものでもないから構わないけれど、興味はある。くだらないと自覚していても、もしバカにされたらちょっと悲しい。
「中学校のときの同級生。去年の同窓会のときみんなで連絡先交換したの。それっきり連絡なんてしたことないのに」
「あははははは! そんな人にいきなり『ツチノコ』!」
「もう、恥ずかしい!!」
自分だったら嫌だけど、他人事だと笑い話。いきなりあんなメッセージを受け取ったら、人間って一体どんな反応するものだろう?
「それでね、『ツチノコ見たい!』って言ってるんだけど、例のアジの写真も転送していい?」
「どうぞ、どうぞ」
私自身の写真でもないし、お皿とテーブルくらいしか写ってないから見られたって平気だった。
「もうヤダ。さすがに警察や救急にかけられたことはないけど、今回は最悪」
ササッと操作を終えて、チーズを詰めたちくわを悩ましげに咀嚼している。
「……というわけで、メッセージの大元が後輩だってことも、娘の誤操作だってことも、全部伝えさせてもらった。本当にごめんなさい」
「私は平気ですから、もう気にしないでください」
再び携帯のバイブ音がして、里葎子さんがメッセージを読み上げる。
「『俺も今夜はツチノコにします。楽しいメッセージをありがとう』」
「『喜んでもらえて光栄です』とお伝えください」
エイプリルフールはやっぱり春の行事だな、とあたたかくなった胸の内で思う。
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