戦端、開く

 唐側にしてみれば、今回の豊璋の行動は、願ってもないことであった。なにせ、王位にありながら自らに力の集まらぬことに腹を立てた豊璋が、軍事の頂点に位置する福信を斬ってしまったのだから。それで軍の力が豊璋に集まるはずもなく、人の心は離れ、百済軍は瓦解することであろう。

 あまりにも、軽率。せっかく海を渡って故国の王位に就いたにも関わらず、あまりにも。いや、豊璋を弁護するようなことを言うならば、せっかく海を渡って故国の王位に就いたからこそであるのかもしれぬが、とにかく、一触即発のこの状況において、この出来事がよいことであるはずがない。

 直接的に豊璋が福信を斬った理由は、倭国からの援軍のことにある。豊璋は自らに縁の深い倭国からの援軍は己の指揮のもとに入るものと思っており、その力を背景に王としての発言力を高めたがっていた。しかし、福信にしてみれば長年火のついたようになっているこの半島の軍事のことを切り盛りしていた自分をさておき、のどかで穏やかな倭国で三十年あまりも安閑と過ごしていた――実際はどうであったかはさておき――豊璋などに実権を握らせれば、それこそ国の滅びの元になりかねぬという危惧があり、それを許すわけにはいかず、対立を深め、挙句斬られてしまったということである。


 案の定、唐は高句麗に抑えの兵だけを残して戦線を維持し、大軍を反転させて即座に攻め寄せてきた。機を見るに今、と言わんばかりのこの行動は、さすが当時世界的水準にあった大国だけある。

 まず、この大陸にあった国のうちで唯一、自ら進んで唐の傘下に入った新羅軍が攻め寄せてきた。半島南部中央の国境線を侵して陸から寄せてくる部隊と、半島を回り込むようにして西岸から寄せてくる水軍とを同時に相手にせねばならず、非常に慌しい戦況になった。しかし蝦夷相手とはいえ、戦いに慣れていた阿倍比羅夫あべのひらふ率いる倭国軍が奮戦し、まず陸路からの侵攻を食い止めた。豊璋は西岸諸城へ赴いてその一層の奮起を促し、海路からの攻撃に備える。

 戦況についてのそういう報せが、筑紫朝倉宮にもたらされた。

「やはり、苦しゅうございますな」

 この戦いにおいて唐を撃滅し、晴れてこの国に登場するはじめての王となるはずであった葛城に、鎌が苦い顔をして言った。

「どうにかならぬか」

 葛城は、さすがに昔のようにうろたえた声は出さぬが、明らかに焦っていた。

「後詰めを発します。それで、海の新羅を挟み撃ちにし、退けまする」

「そうせよ、そうせよ」

 葛城は膝をぴしぴしと叩き、鎌の言うことを容れた。

 負けるわけにはゆかぬのだ。負ければ、葛城がこれまで積み上げてきた全てが無になる。全く消えて無くなるようなことはないにせよ、外敵に怯えることなく、ほんとうに人が人として暮らしてゆける国というものが遠のく。そういう国を作り、その王となり、あとに続く道をも敷く。それこそが、葛城の目的であり、唯一の存在理由なのだ。

「父さま。どうなってしまうの」

 讃良などは、顔を蒼白にしてしまっている。それには答えず、葛城は鎌に、

「勝つのだ。かならず、勝て」

 と重ねて言った。べつに鎌が直接剣を携えて戦うわけではないのだから、鎌に言っても仕方がないことである。いかに少しでも情報伝達がし易いようにとこの筑紫に遷ってきても、やはり現地に命令を伝えるのには時間差が生じる。だから、結局、現地頼みということになる。阿倍比羅夫は軍のことに長けた男であるから、不利な戦局を武でも知でも巧みに交わすであろうし、その配下となった蝦夷どもは阿倍比羅夫その人に惚れ込んで倭国に参画してきたようなところがあるから、戦って死ねと言われれば一も二もなくそうするであろう。だが、いかに阿倍比羅夫が奮戦しようとも、十数万にも上る唐軍相手に、何ができると言うのか。

 対抗しうる唯一の手段が、百済領内に唐を引き入れて各城に分散させ、各個撃破することであった。しかし、それは豊璋の軽挙のために、望まぬ形での侵攻を招くこととなり、津波でも押し寄せるような猛攻に曝されては、各個撃破どころではなくなってしまう。

「唐は、この倭国やまとにまで来るのですか」

 讃良は、隣でむっつりと黙っている猫に向かって言った。そういえば、猫は幾つになったのであろうか。筆者もまた彼らの過ごしていた時間の感覚の中に自らを置くうち、年齢というものに対して非常におおらかになってしまっている。しかし、彼らが時間の概念を共有した今、その正確な年齢のことについて述べざるを得まい。

 猫が葛城と出会ったのは、葛城が蘇我を倒したあの年であったから、葛城が十九歳のとき。猫はそのときの正確な年齢がはっきりしないが、おそらく、十歳くらいであったのではないか。そうであるなら、今、二十代の後半ということになる。もともと渡来人の子らしく凹凸の少ない彼であるから、ぱっと見そうだと言われればそのように見えるし、もっと若いと言われればそうも見える。

 その白い肌を讃良に向け、猫は端的に答えた。

「来るかもしれませぬ」

「まあ」

 讃良は、怯えているらしい。それに対してあまり興味が湧かぬのか、猫は別のことを言った。

「兎を取ること、ご存知か」

「何のことです」

 芦那が口を開く。芦那も三十を超えているはずであるが、昔と変わらず娘のようにその唇はみずみずしい。かつて猫は芦那に懸想していたものであるが、今は、どうか。芦那から眼を逸らすようにして身体だけを向けて答える姿勢を取ったから、もしかするとその想いは変わらぬのかもしれぬ。

「兎とは、野を跳ね回るものを追うのは、ひどく骨が折れるもの」

 たしかに、兎とは警戒心が強く、すばしっこい。だから罠などを仕掛け、捕らえることが多い。それがどうした、という具合に、芦那が訝しい顔をした。

「兎を捕らえるのに最も骨が折れるのは、目に見えているそれを追い、殺すこと。かんたんなすべは、罠を仕掛け、捕らえること。しかし、それよりももっと簡単で、道具も要らず、たくさんの兎を得る方法がございます」

 大陸の者のようなことを言う、と葛城は目を丸くした。いや、実際、猫は大陸の者の子である。

 鎌には、分かった。猫はおそらく、誰にも知られぬ間に、軍学を修めているのだろう。だから、今から猫が言うことも、その口から出る前に言い当てることができる。しかし、猫がはじめてと言ってよいくらい、自らの頭で考えた策を披露する場である。今は、年老いた自分などとは違って若く、まだ先も長い猫の成長に驚くことにしよう、と思い、何も言わないことにした。

 猫は、周囲に遠慮がちな視線を配り、全員が自分を見つめていることが恥ずかしいのか、わずかに眼を伏せ、板敷きの木目をなぞるようにして這わせながら言った。

「兎とは、必ず、巣があるもの。一見、家から遠く見える森でも、わざわざそこに出向き、巣を見つけることで、穴にいる兎を全て得ることができます」

 じつに大陸的な、曲線的思考である。現代の我々日本人というのは直線的思考を持つと言われることがあり、目的のための手段について、多角的な視点から捉えて比較、検証し、遠回りに見えても実際は最も効果的に成果を得られるというような方法を取ることが苦手であるとされている。

 だが、彼らの時代には、大陸の優れた思想家や軍略家の編み出した思考法がなお濃く存在し、人はわりあい平明にものを見ることができたのではないかと思う。ごく最近になってそういう古の思考法を見直すような向きが俄かに強まっており、書店でもふつうに孫子や韓非子かんびし六韜りくとうなどの軍書や、あるいは老子や荘子などの思想書を分かりやすく訳したものが並んでいる。


 それは余談として、猫のもたらしたこの曲線的思考は、非常に有効であると思われる。要するに、海のことは西岸とばかりに敵の目が釘付けになっているところ、後詰めを出してそれを東岸の新羅本国に差し向け、攻撃させようということである。森にまで足を向けて兎の穴を突くという例えの通りならば、拠点攻撃に対しての備えの薄いであろう新羅を打ち破ることができるかもしれぬ。

「陸の者にも、いったん退くように伝えろ。逃げると見せかけ、後詰めに合流するのだ。そして大回りに回り、東から攻める」

 葛城も、大いに賛同した。鎌が広げてあった絹に描かれた半島の地図を睨み、新羅の本拠攻撃のための上陸地点を指し示した。

 そこには、

「白村江」

 と書かれている。全員の目が、そこに注がれた。


 夜。風が生ぬるいことから、雨の季節なのだろう。その風に、よく知った匂いが混じって運ばれてきたから、芦那は身を起こした。

「あにさま」

 葛城である。その表情を見て、芦那は、ぎょっとした。

 憔悴しきっている。まるで、この世の終わりを見たように。

「どうなさったのです。そのようなお顔を――」

 芦那の声の色は、昔と変わらず、優しい。それに埋もれるようにして、葛城は突っ伏した。腿の柔らかな感触に包まれると、おもむろに肩を震わせはじめた。

「まあ、あにさま。あにさま。一体、どうなさったのです」

 そうは言うが、芦那には分かる。葛城がなぜ泣くのかが。

「この戦いは、負けるかもしれぬ」

 まず、葛城はそう断じた。

「まさか。鎌どのがおられます。猫も。必勝の策をもってして新羅を倒し、唐を滅ぼすのでしょう?」

 と、宥めるように背を叩きながら言ってやった。

「しかし、豊璋のことは、予め知ることができなかった」

「それは豊璋どのが――」

「――ちがう」

 なにが違うのか。葛城の垂らしているはなが、芦那の麻衣に染みている。

「たとえば古人のときも、内麻呂のときも、石川麻呂のときも、有間のときも、俺は、全てを予め知ることができた。起こりうる全てのことを鎌と共に考え、知り、天がこちらを向くように己が身体を使うことができた。しかし、此度のことは、予め知ることができなかった」

 それが、理由。ばかばかしいようだが、葛城にとっては重要なことである。彼は、自らがこの国の王になるべき者としてはじめから存在していると確信している。根拠はない。たとえばけやきの広場でアマカシの丘を見上げていた頃からそう思っており、それゆえ自らがそうでないことに対して怒っていた。

 王になる。純粋にそのことを目的として、そのためにだけ走ってきた十数年間であった。そして、彼はさいごに、自らの母をも殺した。

 王になるのが目の前にまで迫っている今、彼は、自らが立つ最後の段を築くべく、今回の外征を企画した。その先にあるものを、見据えながら。

 しかし、豊璋のことは予見できなかった。いかに葛城と鎌が昔のように膝を詰めて話し合っても、豊璋の心が権力というものの前に揺れるかもしれぬということまでは、読めなかった。それゆえ、今回のことが起きた。

 葛城とは、ずいぶん変わった男である。しかし、とても頭のよい男である。だから、彼には分かるのだ。人が見ぬものを見、人が立たぬところに立つ彼だからこそ、分かるのだ。

 どう考えても、無理であると。十数万にも上る軍を相手に、こちらから攻めかけて大規模な戦いを仕掛け、勝ち目があるはずなどないと。なるほど、新羅の本拠をまず攻撃すれば、一縷いちるの望みは得られるかもしれぬ。しかし、それは僥倖ぎょうこうであり、これまで彼が歩んできたような、天地の全てを、自分が王になるために改変してきたような必然とは明らかに異なるものなのである。

 成るべくして成る。成すべくして成す。そうでなければ、成らぬ。葛城とは、そういう思考を信じている。

 だから、今回のことは、彼にとって初めての経験であるのだ。

 負ける可能性が高い。

 負ければ、どうなるのか。

 鎌や猫などの前では落ち着いて振る舞っていても、それが、彼を昔のようなすぐ笑い、すぐ泣く少年のような男にしている。


「だいじょうぶ」

 ――自分の前だから、このひとはこんなにも惨めな姿になることができるのだ。

 芦那はそう思い、葛城をとても愛おしく感じた。まるで子をあやすように、一定の拍動でもって、葛城の背を叩いてやりながら、背を折り曲げてその耳元に口を近付け、諭した。

「だいじょうぶ。あにさまは、勝ちます。負けても、どうということはないのです」

「お前は、ことの大きさを、分かっておらぬのだ」

「ええ、芦那には、わかりませぬ」

 葛城が少し落ち着きを取り戻しはじめていることが、芦那には分かった。

「芦那に分かるのは、あにさまが、優しく、頼もしいあにさまであること。人の前に立ち、人が王と崇め、仰ぎ見る光。どんなに暗い夜でも、かわらずそこにある太一たいいつ(北極星)。だから、戦いのことなど」

 と言って言葉を切り、くすくすと笑った。

「俺が、太一」

 葛城は、その例えを斬新だと感じているようで、きょとんとして顔を上げた。それがおかしくて、芦那は吹き出してしまった。

「だから、あにさま。忘れないで。世がどう動き、月がどこから昇り、ほかの星がどのように巡り、その下で生きる人がどう生き、どう死んでも、あにさまは、いつもそこに変わらずある」

 葛城が天皇の後継者となってから、二人のときには変わらずあにさまと呼んでも、言葉遣いは少し丁寧になっていた。しかし、この夜は、なんだか昔のような言葉遣いになっている。それが葛城には嬉しくて、芦那の胸に顔を埋めることでそれを表現した。

「なにを嘆くこともない。何を失おうとも、何を得ようとも。星とは、かならず巡るものなのだから。ほかの星と違って、いつも必ずそこにあるたったひとつのあにさまだけれど、寂しがることはないのです」

 だって、すべての人が、あにさまのことを知っているから。あにさまは一人ではなく、すべての人と、共に生きているから。

 そう芦那は言い、慈しみと愛に満ちた笑顔を与えた。


 葛城はよほど安心したのか、芦那を抱きもせずそのまま眠り、明け方、自室へ戻っていった。

 その気配を聴きながら、芦那は、思った。

 ――あにさまが言ってほしいことを言う。それは、わたしがいちばん好きなこと。ときに、あにさまが言ってほしくないことも言ってきた。それは、あにさまが、とても優しく、透き通った心を持っているから。だけど、やっぱり、今夜も言い出せなかった。

 葛城が立ち去ったあと、夜を通して吹き続けていた生ぬるい風は強くなり、雨になった。雨が、遠くで雷を呼んだ。芦那は、寝床から身体を起こし、それをぼんやりと見ていた。

 その背が、わずかに震えた。葛城が言われたくないこと、知りたくないことというものがこの世にはある。誰よりもそのことを知る芦那は、ひとり、思案の中にいた。

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