風を呼ぶ雷雲
葛城が
滅亡した百済などには興味のない唐が足を高句麗へと向けた途端、遺臣たちが立ち上がって百済の復興運動を始めた。日本においても蘇我の頃から隋、その体制を受け継いだ唐の動向には非常に注意を払っており、その侵略を警戒していたから、当然、朝廷でもそのことが話題に上ることが多い。
そういえば、
日本地図を逆さにして見てみればよく分かるが、朝鮮半島から北陸、あるいは東北地方や北海道というのはわりあい近い。実際、有史以前から互いに人が行き来していた形跡があるほどに、交流はさかんであった。
ゆえに、北方を抑えておかねば、唐軍がいざ半島を発した際に、そこから上陸される恐れがある。そうなれば、太古からの暮らしを素朴に守っている蝦夷の人々にそれを拒むことなどできるはずもなく、瞬く間に侵略を許すだろう。朝廷としては、そのようなことを許すわけにはいかない。だから、完全な支配が行き届かぬ無理を押してでも、蝦夷を
参加させて、唐が上陸できぬように。そして、諸国からの税でもって、軍事を強化するために。おそらく、防衛軍としての軍費の維持が目的ではあるまい。朝廷は、いや、葛城は外征を目論んでいたのだと思う。
長距離に渡る税の輸送などは諸国にとって大変な不満となっており、そのしこりはあるにせよ、それを押してでも彼らは団結をせざるを得ない情勢になっていた。葛城にしてみれば、これらの事業は全て天皇の名のもとに行ったものであり、それにまつわる諸国の不満は全て天皇に向いているわけであるから、あまり気にしていないようであるが。
話は変わるが、
豊璋とは大陸の人のような名であるが、その通り、彼は大陸の生まれである。父は、
細かいことを語りだすと、それだけを題材に一作書かねばならぬほどの文量になるために省くが、百済は早くから倭国と通商をしており、同時に百済国内で政争もあり、豊璋はそのために人質という
その兄弟が、葛城と鎌のいる大極殿にやってきた。天皇のところではなくこの二人のところにやってきたあたり、彼らがこの国の構造についてよく理解していたということが伺える。
兄の豊璋は少年の頃に連れて来られたから祖国の言葉も理解するが、弟の禅広は倭国に来たのがまた幼少の頃であったため、祖国の言葉よりもむしろ倭言葉の方を話し、祖国の言葉はほとんど知らぬ。その彼らは、完全なる
「太子におかれましては――」
「百済のことであろう」
葛城は、面倒を好まぬ。一段高くなった板敷きの上で胡座の姿勢を取り、上体を大きく前に傾けながら頬杖をついて核心に触れた。
「は。我が故地では、
福信というのは、豊璋の従兄である。それが筆頭になって兵を募り、高句麗に向けて軍を発して百済に背中を向けた格好になっている唐に戦いを挑んだのである。まずは百済に残された唐軍一万ほどに対して牙を剥き、それに呼応して決起する城は二十あまりになっているという。
「それは、聞いている」
鎌の目が、静かに続きを促した。
「我が故地の兵は決死の覚悟でもって武器を執り、大国唐に立ち向かっております。福信もまた――」
「お前に、戻って来い、と?」
葛城が薄い唇をわずかに動かした。
「同時に、援兵も寄越せ、と申すか」
鎌が、なかなか本題を切り出せぬ豊璋に助け舟を出した。彼は大陸の軍書を若い頃から修めているから、軍事のことには明るい。だが、実戦を指揮したことはない。戦場の軍師というよりは、幕の中で王を
「は。私は、もともと
「分かっているなら、話は早い」
葛城が、おもむろに立ち上がった。傍らに控えている猫が、斬るのか、と思い、剣の柄に手をかけた。だが、葛城の言うことは、猫がとっさに想像したものとは違うものであった。
「それを分かっていながら、なお言う。百済で誰がどう戦っていようが、そのことは関わりがないのだろう。お前が帰り、彼らと共に戦いたいのだ。違うか」
と言って、唇の端を僅かに笑ませた。
「法興寺から見る、あたりの山と野――」
豊璋は、少し遠い目をした。
「それが、我が故地の山河を、どうしても思い起こさせるのです」
彼は長年に渡ってそれを見るたび、ひそかに望郷の念に駆られていたのかもしれない。いや、長くこの国で暮らすうち、故地のことなど記憶の片隅におぼろげに残る程度になっているに違いない。だが、彼は、その景色を見ることで、どうにか忘れまいとしていたのだろう。それが、葛城という感情の量の多い男の琴線に、わずかに触れた。それが自らの思うところにも合致したから、彼はあっさりと結論を述べた。
「行け。行って、戦え」
太い眉が、力強い線を描いている。
「太子」
弟の禅広が、口を開いた。
「兄は、百済に赴き、戦いたいと願っております。しかしながら、私はもはや百済を故地とは思っておらず、この国で産まれ、育ったも同然。ですが、私の身体にもまた兄と同じ血が流れているのもまた事実。ゆえに、私は、我々と百済の友誼がなお続くことの証として、ここに残りたく存じます」
「そうであるなら、何も問題はない」
鎌も納得したらしい。百済という国などとうに滅んで亡いが、それは言わぬつもりなのであろう。あとは、援兵のことをどうするか、ということである。
「どうするのがよい、鎌」
葛城が、意見を求めた。鎌はわずかに思案したのち、自らの考えを述べた。
「まず、五千。それに、船が百七十。これは、すぐに出せましょう」
鎌は、もう葛城が援兵を差し向けることに決していることを汲み、動員可能兵力についてそう示した。
「五千――」
それほどの援助が得られるとは豊璋は思っていなかったらしく、目を丸くした。
「いや、一万だ。それを
阿曇比羅夫とは、葛城の父が天皇であった頃に使者として百済に派遣され滞在していた者で、このとき既に結構な歳になっているが大陸の言語も理解し、事情にも精通している男で、なおかつ百済での滞在中に大陸式の軍組織やその運用方法なども修めた有力者である。それほどの者に軍指揮を任せ、派遣すると葛城は言う。
「なんと――」
豊璋は、言葉も出ないらしい。百済救援に関する葛城の英断に感じ入り、それが涙となって頬を伝った。だが、これで驚いていたのでは、葛城が頭の中で描いている構想の全てを聞けば腰を抜かしてしまうことであろう。
「さらに、四万」
葛城は、そう言って左手の指を全て開いた。総勢で五万ということである。当時の倭国の朝廷が保有する兵力がどれほどであったのかは分からぬが、五万の軍ともなれば中央朝廷やその直轄地からはもちろん、諸国の豪族が従える者までも多く駆り出すことになるだろう。
「お待ちください」
さすがに、それは、と鎌が制止したが、葛城はむしろ不思議そうにして、
「
と言った。先に出た阿曇比羅夫と名が似ていて非常にややこしいが、別人である。阿倍の方は先ごろからの蝦夷征討で活躍した知勇ともに優れた将軍で、現在の東北から北海道に渡り、一説によるとなんと樺太まで渡って各地の蝦夷どもを従えたと言う。
「あの蛮人どもを駆り出せば、それくらいの兵はすぐに発せられる」
蛮人ども、と葛城は言ったが、先に述べたように阿倍比羅夫は武力のみならず、蝦夷を懐柔するような方策をもってして従えており、彼らからの人気が非常にあった。倭国の蝦夷平定の事業がわずか数年で成ったのは、ひとえに蝦夷の間での阿倍比羅夫の人気によるものであると言ってもよい。
「阿倍比羅夫が行くと言えば、彼らは自ら進んでそれに従い、かの地で屍を曝すことも厭わずに奮戦するだろう」
実際、その通りである。
「太子。それでは、まさか――」
鎌は、葛城との付き合いが長いとはいえ、やはり恐ろしいものを見るような思いで自らの主君を見た。
「なんだ、お前ともあろう者が。気付いておらなんだか」
「いや、この鎌、唐の侵略を許さぬため、蝦夷を従えたものとばかり。まさか、こちらから攻めるためであるとは」
鎌の好きな大陸の軍書にもある。敵を我が領地に引き込んで戦うより、むしろこちらから攻める方がよい、と。だが、その軍書には、大前提としての但し書きがある。
「しかし、自ら兵を発するほどの大事でなければ」
その通りである。戦いは、生産行為ではない。その理屈は既に紀元前の大陸において完成されており、この当時の倭国でも当然のことであった。鎌の思い起こした軍書の内容は、自ら起こす戦いなどあってはならない。戦いなど、せぬ方がよいに決まっている。それでも戦わねばならぬとき、こちらの領地ではなく、向こうの領地に出向いて戦うべきだ、というものである。
「それが、今だ」
葛城は立ち上がったまま、続けた。その目には炎が燃えている。
「豊璋には悪いがな」
と断り、
「俺は、百済のことを、唐を討ち滅ぼすための機とさせてもらうつもりだ」
と言い、頭を垂れ続ける兄弟を見下ろした。
「猫」
視線を彼らに落としたまま、鋭く猫に声をかけた。猫が、弾かれたように眼を上げる。
「見ておれ。これが、国を作るということだ。そして、作らんとするものを、守るということだ」
そのために、限界を超えるほどの兵を投入し、百済の戦いに介入する。そして一気に唐を打ち破り、膨張政策を取る脅威の大国を潰す。そのための蝦夷征討であり、国力増強。猫は、自らの頭ではとても思いつかぬような葛城の遠大で激烈な策に目の眩む思いであったが、見上げるその横顔を嫌でも深く心に焼き付け、同時になぜ今葛城が自分にそれを言うのかという意味を考えた。
「無論、五万の兵を全て一息に発するというわけにはゆかぬ。まずは阿雲比羅夫の一万。それ以外は、阿倍の方が戻り次第、発することとする」
阿倍比羅夫は蝦夷征討の事業に区切りがついたとして、今まさに帰国の途についている最中であるため、本軍の軍編成はその到着を待ってからということになるが、豊璋は、ただただ感謝を涙と共に述べ、板敷きに額を擦り付けた。
「その一万も、少し待て」
擦り付けた頭が、少し上がった。
「俺にも、思うところはあるのだ」
「それは、一体」
「なに。ここからでは、向こうのことを知るのに、時間がかかりすぎる。俺たちも、天皇もすべて、
首都機能ごと、大陸にほど近い筑紫に遷す。それほどまでに、葛城の征唐の思いは強いらしい。
猫は、ふと不思議になった。唐がまだ隋であった頃から、この国では大陸のことは非常な脅威として捉えられ、それがために百済と友誼を結んだり、ときに大国に朝貢したりして自らの立ち位置を確保しつつ、
自らもまた、渡来人の子。父は蘇我の代でこの国にやって来て、そして自分が産まれた。その蘇我は葛城によって滅ぼされ、そしてその葛城に拾われた自分が、今またこうして葛城が継ぎ、高めた蘇我の事業を目の当たりにしている。
東アジア情勢などという概念は猫にはないが、しかし、この国が求めなければならぬものが開放――当時の言葉で何というのか、筆者は知らぬ。おそらく、それを示す言葉はなく、漠然とした概念だけがあったのだろう――であるということは分かる。
やはり、不思議である。ただの渡来人の子である自分が、葛城の弟として
不思議だと思ううち、あることに気付いた。はっとして鎌の方を見ると、鎌もまた同じ顔をしていた。二人の目線が一度合わさり、そして葛城の方に向く。
「いろいろ、せねばならぬことがあるのだ。俺には」
葛城は、そう言って衣を翻して引っ込んでいった。その言葉の意味など知る由もない豊璋は、ただ感涙に咽んでいる。だが、葛城は、ここで、自らの事業を完成させるつもりであるらしい。
彼が、ほんとうの王になる。唐を滅ぼすことは、そのために必要な一点。そして、猫と鎌が察した、葛城のしなければならぬことというものも、また。
ふと、外を見た。
北の
また、遠雷。
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