もう一匹の獣

 葛城の宣言の通り、倭京みやこは百済救援戦のため、その国家機構ごと筑紫国つくしのくにに遷った。急造させた朝倉宮あさくらのみやという宮殿の完成と共に、天皇、葛城、鎌、猫、芦那を含めた百官がそこに入った。

 この大事業を、葛城は天皇の名において行った。すなわち、それにまつわる不満も全て天皇に向くことになる。天皇は、全てを理解しているらしく、何も言わない。ただ穏やかに目を細め、朝倉宮の最奥の座にあるだけであった。

 この斉明天皇とのちにおくりなされる葛城の母は、その在位中、非常に多くの土木工事を行った。それを後の人が狂気の沙汰と評するほどに、多い。しかし、それは先から描いている通り、全て葛城が天皇の名を借りて行ったことであるから、彼女にしてみればいい迷惑であろう。このとき、六十八歳。

 夜、高齢の天皇と葛城の娘の讃良さららが眠りについた頃、鎌と猫と芦那が、葛城の居室を訪ねてきた。

「おう、来たな」

 まだ新しいひのきの匂いのする居室で、葛城は彼らの来訪を知っていたかのように胡座の姿勢を取り、座していた。

「太子。ほんとうに、のですな」

 鎌が神妙な顔をし、念を押した。

「やはり、お前は話が早くてよい」

 葛城の顔には、どのような色も浮かんでいない。なにかを押し殺しているようでもあるし、そのようなものはとっくに超越しているようでもある。

「あにさま」

 芦那が、心配そうな声を上げた。それに、

「案ずるな」

 とのみ答え、葛城は頷いた。

「猫」

 鎌に名を呼ばれた猫が、僅かに身を竦めた。

「分かって、おるな」

「は。しかし――」

「しかし、何だ。猫」

 葛城が、猫の方を向き直った。

「主上の言い付けとはいえ、いくらなんでも」

「荷が重い、か」

 葛城はため息をひとつつき、芦那の顔色を伺った。いつもならば芦那は葛城の考えが彼をよき方に向けるなら同意し、彼が自らの思考のために苦心することが予見できる場合には上手に考えを改めさせたりするのだが、このときばかりは言葉を発することができないらしく、ただ困ったように眉を下げるのみであった。

「それほどのことか」

 葛城は、自分で言いながら、分かっている。あのとき、紀伊国きのくにの湯で天皇に直接宣言したことの重大さを。すっかり時間ばかりが経っているが、ようやく、が来たのだ。


 これに関しては、誰の意見も求められぬ。葛城のみが願い、そして葛城がはるか昔にけやきの広場で履いたくつでもって歩いてきた道の、その次の一歩であるのだから。

 ゆえに、彼は、自らの意思で、自らの言葉で命じた。

「猫」

 猫が、背筋を伸ばした。

「やれ」

 これで、全てが決まった。

「お前たちに頼みたいのは――」

 葛城が、言葉を継いだ。

「俺のおらぬ間のことだ」

「あにさまが、おられぬ間?」

 芦那は不思議そうな顔をしているが、鎌はなんのことか分かっているらしく、沈痛な面持ちになっている。猫は、もう己の役目を完全に見定めたのか、どの色もない顔をしている。

「俺は一度、倭京あすかに帰るだろう」

 それで、芦那にも葛城が何を言っているのか分かった。

「百済のこと。豊璋ほうしょうのこと。そして、伊賀と讃良のこと。くれぐれも、頼む」

「承りました」

 鎌が平伏し、猫は剣を手に立ち上がった。芦那は、葛城の顔をじっと見た。

 男二人が部屋を去ろうとしても、彼女は葛城の居室に残った。抱かれるためであろう。


 葛城は、目下の大事業である百済救援のことのほかに、多くいる皇子や子女の中のその二人を特に指名し、留守中のことを頼んだ。伊賀は前にも少し触れたが葛城の第一皇子であり、歳は讃良よりも三つ下。讃良はこのときもう十六歳になっているから、伊賀が十三ということになる。

 讃良は、とても美しく成長していた。祖母にあたる天皇にも非常に可愛がられ、頭も非常によく気も丈夫であったから、どこの位の高い者に嫁いでゆくのかということについての噂を誰もが好んでした。

 そのような噂などには全く興味のない猫は、剣を腰に差さずに左手に握り、板敷きの廊下を歩いている。急ごしらえの宮殿であるからか、時々きしきしとそれが音を立てるから、できるだけ静かに闇を踏むように心がけた。

 もう夜更けであるから、灯火は全くない。縁から差し込んでくる月の光を頼りにしようにも、五月のことであるから分厚い雲から泣くようにして雨が地に注いでおり、叶わない。だから、彼は、その名の通り、猫のような目で闇を見透かしながら歩いた。

 もう少しで目的の部屋に至るというところで、彼は足を止めた。

 廊下の角を曲がった先に、雨の音に洗われながら、灯りがひとつ、ぽつんとあった。

 息を殺し、ゆっくりと身を低くして、その持ち主に自らの存在を悟られぬようにした。灯りは動かず、同じ場所でただ揺れている。葛城が漏刻によって作り出した時間によれば、今はおそらく起きて動いている人などおらぬはずの時刻。そんな夜の中で、あの灯りは、どうして揺れているのか。できるだけ雨と闇に自分を溶かしながら、剣をそっと握った。握ったところで、

「猫ですね」

 と声がかかった。

 その声の持ち主を、猫は知っていた。

「讃良さま」

 もう、姿を隠す必要もない。

「芦那さまが、そっと父さまの部屋の方にゆかれるのを、見ました。いやな気持ちになって、起きて、待っていました。そうしたら、あなたが、ここに」

 悟っているのか。猫は、迷った。まさか讃良に危害を加えるわけにはいかぬ。しかし、自分が今この奥殿にいるのを、見られている。

「案ずることはありません」

 讃良の言葉には、ふしぎな圧力のようなものがあった。それに猫は従って気構えを解いてしまいそうになって、慌てて足裏で床をにじった。

「わたしが、あなたを止め立てすることは、ありません。ただ、一言だけ、言わせてほしいのです」

 なにを、という表情を、猫はした。讃良の持つ弱々しい灯火ではその表情は読み取れぬであろうが、構わず彼女は続けた。

「その場に、わたしも居合わせるように。断れば、あなたがここにいたということを、あらゆる人に言いふらします」

「讃良さま。お許しください」

「いいえ」

 猫は、知っている。昔から、あまり口数の多い娘ではなかったが、周囲の大人がびっくりするほどの頭の良さと頑固さを持っていることを。父譲りと言えば聞こえはよいが、とにかく、この娘は、やると言ったら、やる。

「許しません。わたしの、言う通りになさい」

 猫は、讃良に屈服した。猫とはおおよそ指示のないことについての自己判断をせぬ男であるが、このときはじめて、この不測の事態についてのをした。どのみち、讃良がなにごとかを感じ取ってここで待ち伏せをしていた以上、猫にはどうすることもできぬ。言う通りにするしかないのだ。ならば、この計画に彼女をも巻き込み、参加させるしかないではないか。

「承りました」

 そう言って、剣を右手に持ち替えた。抜剣の意思はないという姿勢である。

「よろしい」

 讃良は少し得意げに言い、猫にそばに来るように仕草で促した。

「猫」

 ちょっと、意地悪な響きのある言い方である。ろくなことにならぬ、と猫は直感した。

「あなたは、わたしに従いましたね」

「は。讃良さまは、太子のお子なれば」

「では、呼んでみなさい」

 主上、と。

 そう言って、得意げに笑った。

 猫はその場で片膝をついて剣を右側に置き、胸の前で両手を組んだ。

「これで、ご勘弁を」

「ふふ、いいわ。あなたが主上と呼ぶのは、あとにも先にも、わたしの父さまだけ。そう言いたいんでしょう?」

 猫はひとつ頭を垂れ、また剣を右手に立ち上がった。

「許してあげる。あなたのそういうところ、好きよ」

 どうも、妙な具合になっている。讃良は、ほんとうにこれから猫が何をしようとしているのか感付いているのだろうか。猫もこの娘の心の構造を計りかねているようで、訝しい顔をしながら、また闇を踏みはじめた。


「ここよ」

 猫は、この部屋に入ったことはない。彼は葛城の弟になったのだから、ここを訪ねてもよいのであるが、この部屋の主に個人的な用事はない。だから、控えていた。葛城が命じたから、彼はここにいる。

 そして、その建具のない部屋の奥に向け、讃良が灯りを差し出した。

 夜具がひとつ、闇に浮かび上がった。それに、猫が素早く近付く。

 おそらく、この者は、目覚めたところで声も出さなければ、猫を咎めもせぬだろう。しかし、できれば、眠っている間に。

 少しでも、苦しまぬように。

 そう思い、いちど胸の前で手を組み、夜具をそっとめくった。

「あなたが、来たのですね」

 ぎょっとして、飛び下がった。

「驚くことはありません。いつかいつかと、そればかりを考えていました。そうですか、今宵でありましたか」

 その声は、落ち着いている。

「恨みはありませぬ。しかし、太子の御為、お命、縮め奉りまする」

 板敷きに平伏し、猫はそう言った。

「できれば、太子みずから来てくれることを願っておりましたものを。わたしが斬られたとしても、民は喜ぶばかり。だれも、太子が斬ったことを咎める者はないというのに」

「それは」

 猫が、言葉を探り当てるように、口の中でなにかを矯めた。夜具の主がそれを待つと、やがて、雨の音に消えてしまうほどの声で、言った。

「太子の、お優しさでありましょう」

 夜具の主は、分からぬらしい。

「剣をもってしてお命を縮めれば、お身体は血で汚れ、痛みと苦しみのうちに叫びを上げることとなります。しかし、私であれば、汚すことも、苦しめることもなく、ひとときで」

 夜具の主が、笑った。猫は、ばけものでも見るような心地で、それを見た。今から死ぬのに、どうして笑えるのであろう。

「そうですか――。あの子は、ほんとうに、優しい子」

 穏やかである。猫が今まで見たことのある、誰のどの表情よりも。

「そして、讃良。あなたが、見届けるのですね」

 優しい声が、讃良に向けられた。

「はい、おばあさま」

「あなたは、強い子。男であったら、きっと太子を助け、よい国を作ったでしょうに」

 讃良は、なにも言わない。猫が横目で見ると、涙をこらえていた。やはり、この娘がどういう神経をしているのか分からない。

 分からぬことを分かろうとするよりも、自ら為すことを為す。猫は、そういう男である。

「お許しあれ」

 そうみじかく言い、身を寄せ、崩れる身体を支え、そっと夜具に寝かせた。

「わたしは、ずっと、風に流される葉のようにしか、生きては来れませんでした。しかし、このような女でも、国を創る役に立つことができるのです」

 そう言い、眠った。しかし、いつまで経っても、寝息はなかった。

「お許しあれ、天皇すめらみこと――」

 猫は、眠ったように死んだ葛城の母に向かって、また平伏した。

「猫」

 讃良が、掠れた声で言った。

「やっぱり、悲しいわ。あなたは、どう?」

 どう、と問われ、猫は戸惑った。それに答えるだけのものを、彼は持たぬ。

「父さまは、王にならなければならない人。誰から奪うでもなく、世がそうあるべきだということを認めた上で、立つ王に。今、父さまが立つことで、百済を助けて唐を滅ぼし、この国をにすることができる。すべての人が、父さまに続く。父さまは、それをすべて統べ、進んでゆくのよ。それは、あの人にしか、できぬこと」

 猫は、何も言わない。

「だけど、猫」

 さすがに、猫にも、讃良が次に何を言うのか分かった。だから先回りをして、

「それでも、死は悲しゅうございますな」

 と低く言い、その背に手を当ててやった。そこには自ら横たえた天皇の身体のような死の気配はなく、あたたかく、みずみずしいいのちが躍っていて、それが喉をひくひくと鳴らしていた。

 あまり長く留まっては人に知られるかもしれぬとは思いながら、猫は、しばらくその背をゆっくりと撫でてやっていた。


 自らの母をも殺し、その上に立つ。そうまでして、求めなければならぬものか。

 国とは。天地とは。世とは。

 誰にもできぬことをする。それが葛城。そうであるならば、鎌も猫も、それを助けるのみ。そして、これまでこの国に存在しなかった、本当の国家を創るのだ。それこそが、理不尽な死や苦しみや、生の渇望から人を遠ざけ、導く光となる。

 それと穏やかで心優しく、若い頃から自らの役目にひたむきであった葛城の母の死を秤にかけることなど、できはしない。それゆえ、猫は、讃良が咽び泣く間は、ずっとその背に手を当ててやっているのだ。

 ずっとそういう比喩を用いてきたから、讃良だけが獣ではないと言うことはできぬ。彼女もまた、もう一匹の獣となったのだ。

 彼女はその双眸にこの夜の闇と雨と自らの祖母の死とその理由と意味を焼き付け、進むのだろう。それは、まだ十六の女が背負うには、あまりにも重く、苦しいものである。幾らかでも肩代わりしてやりたいといくら猫が思っても、それはできない。

 これは、彼女が望んだことでもあるのだから。

 讃良とは、やはりどういう心の構造をしているのか分からぬ娘である。

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