大海人

倭京あすかに、俺は帰る」

 白雉四年の秋が深くなりつつある頃、葛城は、天皇のおらぬ群臣たちのみでの評定の場において、皆がぽかんと口を開けているのを見回し、言った。

「いや、都ごと、倭京に戻すのだ」

 皆、葛城が何を言っているのか分からない。この時代の都というのはたとえば平城京、平安京などという頃に比べれば流動的なものであったし、わりあいしょっ中遷都は行われた。それにしても、葛城のこの宣言は、あまりに唐突であった。なにしろ、つい何年か前、ようやくこの難波宮が完成したばかりであるし、天皇もひどくこれを気に入っていることは、誰でも知っていることだからだ。

「海の守り」

 と、葛城はその理由を述べた。

「これなるは、我が弟——」

 また登殿させられ、傍らに控えさせられている猫を省みた。

「この弟は、海をよく知る。唐の国は、いま神羅しらぎと手を結び、百済くだらに眼をつけている」

 それが、どうしたというのか。まず、猫が長く葛城の従者として仕えていたことを、誰でも知っている。それを、今になって弟であると言うのが分からない。それを、ある者が問うた。

「弟とは、俺の血を分けた者のことだ」

 分かりきった嘘である。だが、群臣は、葛城が何事かを考え、行動に移そうとしていることを理解した。

「太子にそのような弟など、聞いたこともない。それに、海に詳しいとは、どういうわけでありましょう」

 臣の一人が、葛城に、重ねて問うた。この者は安倍内麻呂の縁者で、葛城や鎌に対し、やや否定的な立場をいつも取っている。葛城はその者に鋭い眼を向けた。

「俺が弟と言えば、弟なのだ。この者は、渡来人の子でな」

 誰もが、葛城の言うことを、息を飲んで聞いている。

「名を、大海人オオアマトという」

 取って付けたような名である。海を越えやってきた者の子であるから、オオアマト。いかにも葛城らしい名付け方である。葛城が当たり前のような顔をしてそう言うから、群臣はなんだかこの床に平伏したままの若者が、様々な知識をもって、海を越えてやってきた先駆者であるように思えてきた。

 当時の渡来人とは、そういうものである。われわれの国土には、古くから、外国への強い憧れと独立の気概が共存している。現代において、アメリカの言いなりにならずにノーと言える日本人であれと叫ぶ人がおり、同時にアメリカやヨーロッパの文化や民族に対し激しいまでの憧れや劣等感を抱く対象が、この時代においては朝鮮半島や隋や唐など大陸の大国であった。すなわち、一方では大陸に使いをやり、その皇帝と日本の天皇が同格であるという意味を醸す親書を持たせる反面、蘇我氏のように日本の未成熟なことを知り、朝鮮半島や大陸から積極的に先進的な技術や制度を導入しようと渡来人を厚遇するような向きがあり、葛城は猫が渡来人の子であると宣言し、そして渡来人であるから海のことに詳しいというよく分からぬ理屈をかざすことで、今から言うことに箔を付けようとしている。

「この難波は、危ない」

 と葛城は言う。その続きを、すらりと進み出た鎌が引き受けた。また、例によって、事前に打ち合わせをしていたものかどうかは分からぬ。

「唐は、百済を伺っている」

 鎌は、一座を見回した。唐と言えば強国で、積極的に膨張しようとしていることは、この時代の朝廷にある者や豪族程度の者ならば誰でも知っている。しかし、鎌にそう問われて、その答えを持つ者はなかった。皆押し黙ってしまい、隣の者の顔色を伺ったりしている。

「太子の仰ることは、こうだ」

 と、鎌は葛城の代弁者になってやった。葛城が、満足そうに胡坐こざの姿勢を取り、緋色のほうの両袖に手をしまい、腕組みをした。

「この難波は、海に面している」

 わかりきったことである。そして、鎌はそれだけで言葉を切り、猫を見下ろした。猫が視線に気付き、伏せていた顔を上げる。鎌が、静かに頷く。葛城の代弁者であることを、鎌はいきなりやめてしまったのだ。

 猫は当惑した。なぜ、自分を見るのか。海に詳しい弟であると、葛城は人の前で宣言してしまった。これにより、猫は葛城の弟であらざるを得ず、海に詳しくなくてはならなくなった。そして、猫は考えた。難波が海に面しているから、どうだと言うのか。葛城は、なぜ都を飛鳥に移すと言い出したのか。その目的は。そして、それを実行するための、は。

 渡来人として、父は海を越え、やってきた。蘇我に召し抱えられ、朝廷の倉の出納すいとうを管理する役目のうちの一人に任じられた。文字や数字、計算に明るかったのだ。その子として生まれ、そして蘇我は滅び、父も亡くし、あらたな生と名を、葛城によって与えられた。その前と後で、夜がいきなり朝になるような、冬がいきなり夏になるような具合に、何もかもが変わった。今、葛城は、猫を弟と呼んでいる。

 夏が秋に、秋が冬に、冬が春になるように、猫の思考は廻る。

 今の自分の、得難き生は、葛城に与えられた。しかし、葛城に認められた自分の血は、遥か海を越え、この地にやってきたのだ。

 父は、どのようにしてこの地に至ったのか。その道筋を、かつて幼い頃父に聴いた話を思い出しながら、想像した。

 遼東りゃおとんというところから岸を伝い、船はゆく。沿岸の街ごとに、水や食糧を補給しながら。それなくしては、海を渡ることは出来ないのだ。

 国を出、朝鮮に至ると、情勢がやや不安定で、寄れる街と寄ることの出来ぬ街がある。そういうときは、食糧も切り詰めなければならず、水も満足に飲めない。そして、船の中で病になる者があらわれても、それを降ろすことが出来ない。放っておけば、他の者まで病に冒されるかもしれない。父が、そんな話をしていたことがある。

 そこから、猫の思考は発展する。

 では、それが、何万もの軍を載せた船ならば。この頃の船は必ず岸に沿って航行するが、朝鮮半島から、この時代はおろかもっと遥か昔より大陸と日本列島を繋ぐ中継点であった対馬まで至るまでの朝鮮半島での寄港地が無い、あるいは情勢不安で大船団が着けられないとなれば、そもそも軍を発して海を越えることが出来ない。

「何故、唐が朝鮮を制しようとしているのか。そのことを、まずお考えあれ」

 ぱっと眼を開けたとき、そこには影のようにして無表情に佇む猫の顔はなかった。代わりに、臣の中でも情勢に疎い者のために、海のことをこれから説こうとするの顔があった。

「安倍殿。何故と思われる」

 先程葛城に向かって、猫が葛城の弟であるとする荒唐無稽な話に否定的な意見を投げかけた者に問うた。

「そ、それは、唐のかねてからの野心——」

「お分かりでないのですね」

 葛城は、例によってくっきりとした目元を眠ったようにしてただ聴いているが、鎌はおや、と思った。いつもおとなしい猫が、これほど鋭い舌を持っているとは思っていなかったのだ。大海人の顔になった猫が、更に続ける。

「唐は今、朝鮮を制することを目当てにしています。しかし、それは、唐の目当てにあらず」

 と、大海人は言う。皆、口をぽかんと開けて聞いている。察しのいい者や、もともと情勢に詳しい者は聞くまでもないことだが、中にはてんで世の中のことを知らぬまま官に任ぜられている者もいる。

「唐の目当ては、日本やまと

 猫自身、自分に別の何かが憑いたような、あるいは自分の中に眠っていた何かが目覚めたような驚きを感じている。

「その目当てのために、唐は朝鮮を平らげようとしているのです」

 ほんとうかどうかは、分からない。このとき猫が考えていたのは、いかにして葛城が飛鳥に帰ると言い出したのを正当化するかということのみである。葛城のためならば猫は非道な殺しを行う者にも、大海人にもなれた。

「ゆえに、ここは危ない。飛鳥ならば山に囲まれており、唐が攻めて来ても守り抜けます」

 どん、と強く床板を鳴らし、一歩前に進み出た。一体、その一歩がどこに向かってゆくのかは、分からない。高揚して熱くなった顔を冷ますかのように、晩秋の風がこの太極殿に吹き込んだ。吉野の木でもって敷いた板から、僅かに匂いが立った。

 鎌が、再び立ち上がる。

「太子は、要らぬことに人や蓄えを使うのを嫌われる」

 と、葛城が、豪族や大王が生前に作る大きな墓の造営を無駄だとして廃止した——これにより古墳時代と考古学で呼ばれる時代は終わった——ことを例に引き、この難波の宮を作ったように、また何年もかけて新たな都を作るのではなく、既にある飛鳥に戻るということの合理性を説いた。

「この大海人どのが仰せになったこと。そして、あらたに都を作るより、移すほうがよいということ。お分かり頂けましたかな」

 鎌が、仕上げに入る。

「それほど、は迫っているのです」

 これで、決まりである。


 驚いたのは、そのことをあとで聞いた天皇である。

「ば、ばかな」

 せっかく新しい都に移り、落ち着いたところである。天皇にしてみれば、蘇我の時代を覆して新しい世が拓けたことを世に示すため作った都から、旧代を偲ばせる倭京に戻るなどということが呑めるはずがない。蘇我の頃を良く思う者があれば、そういう場所にいることでまたどういう悪巧みをするか分かったものではない。

 無論、葛城と鎌は、天皇が反対するであろうことははじめから分かっている。むしろ、分かっているからこそ、あえて呑めるはずのない無理難題を持ち出したのだとも言える。

 そして、この試みはまた別の収穫をももたらした。

 猫が、大海人となったことである。長く葛城や鎌の策謀に最も近いところにあったからか、よく頭が回り、相手の肺腑を突くようなことも平気で言う胆力もある。

 鎌の思考は、旋回する。

 葛城は、鎌が思っている以上に、猫を可愛がり、信頼しているらしい。しかし、葛城には、子がある。いずれこの先、葛城が天皇となったあと、それを継ぐはずの子が。今はまだ幼いが、それが長じたとき、猫のことをどう思うだろうか。


 今は、まずは都のこと。

 先のことを遠く遠く見透かしつつ、目の前のことを、一つずつ。

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