葛城の弟

「俺は、我慢がならん」

 が済んだあと、葛城は奥の殿と呼ばれる、天皇の居館の裏の影に潜みながら、今しがたまで立ったまま絡んでいた芦那の身体から自らのそれを離し、吐き捨てるように言った。もう蚊が出る心配は全くない秋だから、心置きなくことを済ませられた。仮にも、芦那は皇后である。この二人がこうして未だ通じているのは、ひとつにはこの時代の朝廷というのは後代のそれほど完成されておらず、従って天皇というものが人々から切り離される度合いも比較的小さかったことがあり、もう一つには天皇の妃となったとしても芦那は芦那、俺の女だ、と当たり前のように考えることの出来る葛城の頭の構造のことがあるだろう。

「なにに、そんなにお腹立ちなのです」

 芦那は、子をあやすように微笑を向け、葛城に訊いてやった。

「なにに、ではない。全てにだ」

 それを聞いた芦那は、くすくすと笑い出した。

「なにが、おかしい」

「だって、あにさまは、いつも何かに怒っていらっしゃるんだもの」

「悪いか」

「ううん」

 とかぶりを振って、

「ちっとも」

 葛城の黒い瞳が月を吸い込んで宿しているのを見ながら、芦那は言葉を与えてやった。

「ねえ、あにさま」

 剥き出しの白い腕が、葛城の首に再び巻き付いた。

「飛鳥に、帰りたい」


 蘇我が拓いたと言えば語弊があるが、蘇我が栄華を誇った飛鳥の都。そこに、芦那は帰りたいと言う。葛城にとって飛鳥の都といえば、やはりあのけやきの広場が思い出される。いつも、あそこから、蘇我の館を見上げていたものだ。

「見下ろすな。俺を」

 と怒りに身を焼きながら。

「あのころのあにさまが、懐かしい」

 これは、葛城にとっては聞き捨てならないことである。

「あのころと今の俺は、違うと言うのか」

「おなじです」

 葛城には、芦那の言うことが分からない。それを察して芦那はまた一つ笑みをこぼした。それは、二人を見下ろす月の光が芦那の顔で一度弾み、落ちるようで、葛城は思わず手で受け止めてやりたいような気になった。

「おなじだけれど、違います」

「どう違うのだ」

「あのころ、あにさまは、一人であろうとしておられました。他の誰でもない、ただのあにさま。だけれど、今は、あにさまという姿をした、天皇の臣。毎日、せっせと天皇の世がより良くなるよう、働いていらっしゃるわ」

 葛城は、首から背骨に槍を挿し込まれたような衝撃を覚えた。

「そ、それでは」

 地で鳴く虫の声に自らのそれが消されぬよう、喉を無理矢理開いて抵抗した。

「おれは、その辺の臣と変わらぬということではないか」

「いいえ、あにさまは、とっても能がある」

 葛城は、ついに言葉を失ってしまった。それを待っていたかのように、虫の声が大きくなった。


 葛城は、この世で唯一であろうとしてきた。そのために鎌と手を組み、蘇我を滅ぼし、自らの身内をも攻め殺し、創業以来の重臣を罠にかけて殺してきた。全て、それは葛城のある目的のためであったはずなのに。その目的というのを、芦那が言葉に置き換えてやった。

「——あにさま」

 葛城の目が、また月を宿した。

「——天皇に、なるのではなかったの」

 葛城は、あっと思った。鎌と葛城による様々な改新は、ほとんど天皇の名において行ってきた。鎌が用意した皇太子という立場は、その意味においてはとても役に立った。しかし、葛城は、肝心なことを見落としていた。


 少し前に、鎌が芦那に無言の協力を取り付けたそれが、今芦那の言葉という種になり、葛城に植え付けられようとしている。

 この夜のこれまでのやり取りは、葛城というよく肥えた土を、芦那が耕すようなものであった。十分に耕した後は、種を植えればよい。しかも、この種は、この時期に蒔けば冬には実がなるようなものであった。

「——あにさま」

 川底を啄む鯉のように動いていた葛城の目が、芦那に向いた。

「——飛鳥に、帰りたい」

 種は、植え付けられた。

「帰って、また、あにさまと——」

 土の奥深くに。

 再び上がった葛城の眼には、先程までの月でなく、雷光が宿っていた。


 虫の声が、止まった。

 にわかに立った葛城の足音に、驚いたのだろう。葛城はそのまま芦那を省みることなく、その場から立ち去った。大門と彼等が呼ぶ、太極殿の入り口の門にまで至ったとき、猫がその脇の暗がりからあらわれ、葛城のそばに付いた。ここに来るときは、猫はこの門に差し掛かるとき、いつの間にか消えていた。

 猫は、葛城の様子が尋常ではないことを察してか、もともとの無口な性格からか、何も言わない。そのまま、何千、何万という人を用いて敷いた砂利を僅かに鳴らし、葛城のあとに続いた。


 月。

 それが長く伸ばす葛城の影が、止まった。猫はそれを踏まぬよう、足を止めた。足音が止まると、虫の声は大きくなるものらしい。

「猫」

 葛城は、月を見上げたままである。

「鎌を呼べ」

「明日の朝、いちばんに」

 葛城は、答えない。その背を見て、猫は言葉を続けた。

「いまから、でございますか?」

「呼べといったら、呼べ」

「鎌どのは、すでにおやすみのことかと」

「知ったことか。会いたいと言い、起こしてこい」

「しかし」

 葛城は、意外そうな顔をし、はじめて猫の方を振り向いた。

「なんだ、猫。珍しいではないか」

 葛城の意のままに動かぬのが、である。猫は、砂利の上に膝をついた。

「主上。今宵は、お寝みになるのがよろしいことと思います」

「なんだと」

あした。朝まで、お寝みになることです。芦那様の仰ったことを、よくお考えになるのです」

「聞いておったのか」

「いいえ、ずっと大門におりました」

「そうか。では、お前は、俺と芦那が話し、俺の心持ちにがあったものと思うのだな」

「そして、それが、とても大きなことであると。それゆえ、猫はそのお心のまま、鎌どのに会われるのをお止めしたのです」

「猫」

「はっ」

「おまえは、俺の弟だ」

 猫は、膝をついた姿勢をやめ、平伏の姿勢を慌てて取った。猫の周りに、砂利の枯れた臭いが立ち上る。月は出ているが、雨が降り出したらしいことを、それで知った。

「おやめ下さい。もったいのうござりまする」

かしこまるな」

 猫の額が、砂利にめり込みそうな音を立てた。

「お前は、猫であり、俺の弟だ」

 猫の鼻に、砂利が濡れてゆく臭いとは別の臭いが入り込んできた。おそらく、猫は砂利に額を擦り付けるあまり、血を流しているのだろう。

「畏るな。俺は、お前を、鎌や芦那とおなじく、ふたつ無きものだと思っているのだ」

 あくまで、猫は葛城の従者である。主人がこれほどまでに下僕しもべに親愛を示すなどということは、ふつうではあり得ぬことであるが、葛城だからこそあり得た。

「主上」

 雲に月が隠されてゆく。次第に広がる闇に蝕まれながら、猫は地に額を擦り付けたまま言った。

「ひとつだけ、お聞かせ下さい」

 葛城の難しい顔は、もういつも通りの眠ったような顔に戻っている。それが、うむ、と頷いた。闇と雨の中を伝うその気配を聴き、猫は続けた。

「なぜ、あのとき、私はこの門をくぐり、有間様のお目に通ったのでしょうか」

「それは、お前に——」

「もし、この猫を弟とおぼし召すなら、ほんとうのことをお聞かせ下さいませ」

 葛城は、黙った。確かに、あのとき猫を登殿させたのは、有間皇子の冠のためでも、芦那の顔を久し振りに拝ませてやるためでもない。

 猫は、言葉を待っている。待っている以上、それを弟と呼ぶなら、葛城には答える義務がある。どうやら、猫は、葛城の想像を遥かに超える頭の回転を持っているらしい。

「わかった」

 葛城は、話し始めた。

「鎌が、初めに、有間を俺に見せたがった。皇子である有間が長じたので、その人となりを見、俺たちにいずれ刃を向けてくるか否かを確かめようと言ったのだ。しかし、その実、そのそばに立つ芦那を見せ、俺が芦那のところに通っていることについて突っつこうと思っているというように見せかけた」

 俺は、しかし、馬鹿ではない。と葛城は雨に声を溶かした。

「鎌は、見せたかったのだ。俺は、前に話した通り、俺のあとをお前が継いでもいいと思っているし、お前をふつうに登殿できるようにさせたい。しかし、あの日の鎌の目的は、お前だったのだ」

 猫はいつも、葛城の話が終わるまで口を挟むことはない。ただ黙って聴いている。

「お前に、有間の顔を覚えさせることが、目的だった。ここまで言えば、分かるな」

「それは、つまり——」

 有間を殺せ、ということである。

「いずれ、な」

 葛城は、また歩き出した。

「俺には、その前に、しなければならぬことがある。どうやら鎌のやつ、芦那にまで手を伸ばし、俺を操ろうとしているらしい。芦那も、を望んでいるらしい」


 それが何なのか、猫は聞かなかった。聞かずとも、葛城と鎌の間でうねりを立てる流れは、その向く方に向く。自分が葛城の弟であるならば、その流れをよく見、たすけるのみである、と思った。


 遠雷。

 近付いてくるのだろう。

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