心のうち

 芦那は、天皇のもとへ嫁に行った。そのあと、葛城がどう過ごしていたのか、分からない。あれやこれやと改新についての政務を、鎌や阿部内麻呂、蘇我石川麻呂らと共にこなしている間に時は過ぎ、概ね、あらたな国家の仕組みは整った。


 葛城には、不満がある。

「芦那に、会いたい」

 とさかんに言うのだ。はじめの頃こそ我慢をして鬱屈していたが、それを政務に励むことで晴らそうとする時期があった。そして、その時期が過ぎると、何も言わなくなった。政務は引き続き滞りなく行うが、鎌や内麻呂、石川麻呂などが通常の話題として皇后――すなわち芦那――のことを持ち出すと、葛城は、妙にばつが悪そうな顔をし、話に乗って来なくなった。

 葛城ほど分かり易い男も珍しかろう。鎌らは、

「太子は、皇后と、未だ通じなさっているのではあるまいか」

 という認識を共にした。

 それを調べようと、夜影、葛城の屋敷の周りに人を放っておいた。

 翌朝、それらが、宮殿への道のそこここで、斬られた死体となって見つかった。

「――猫か」

 鎌は、葛城の側でいつも影のように控えている、渡来人の俊敏な少年のことを思い出した。もっとも、この頃になると、猫は立派な体躯の青年に成長していたが。

 この年は既に大化五年であった。葛城にしては、耐えた方である。

 それが、政務が落ち着いたと同時に、寄り掛かるものが無くなったのか、また俄かに、芦那に会いたい会いたいと騒ぎ出したのである。

 鎌らが大いに焦ったのは、

「もういい。俺は、天皇から芦那を取り返すぞ」

 と席を立ったときである。

「お考え直しを。それだけは、なりませぬ」

 と三人がかりで葛城の裾に縋り、そのときは事なきを得たが、葛城の不満はそれくらい切迫していた。



 二月のある夜、葛城は、鎌と二人、濁った酒を飲んでいた。

 まだ寒い。鎌は身体が震えるのを我慢していたが、葛城は気温のことなど全く眼中に無い様子で、鎌に言った。

「鎌よ。俺は、どうすればよかったのだ」

「どうなさったのです、太子」

「お前の勧めと、俺の思いが交わり、入鹿を討った。討って、あらたな世を作った。そしてそれは、このあと、俺たちの作った世に生きる人が、上手く保ってゆくだろう。そういう仕組みを、俺たちは作ったのだ」

「いかにも。太子あっての、新たな世でございます」

 猫が、影の中から滲み出て、鎌の空になった土器かわらけに酒を注いだ。身体は大きくなったが、気配の消し方は昔よりも更に上手い。

「だが、芦那がおらぬ」

「おりまする」

「どこに」

「天皇の、御側に」

 葛城は、思わず吹き出した。この才子は、本気でそれを言っているのか、とからかいたい気持ちであった。それを堪え、

「鎌。おらぬのだ」

 と、もう一度、確かめるように言った。

「太子。滅多なことを仰ってはなりませぬ」

「いや、言う。全て言う。俺は、お前を恐れたのだ、鎌。お前が、俺を恐れるのではないかということを、恐れたのだ。芦那は、それゆえ、天皇が要らぬことを考えぬよう、お前がそれを担いで俺に矛を向けぬよう、嫁いだのだ」

 何の隠し立てもなく、あの数年前の夜に芦那と話したことを、鎌に打ち明けてしまった。猫などは、耳から魂が飛び出たかと思うほどに驚いた。それを言ってしまって、どうする。それを警戒するからこそ、芦那も葛城も断腸の思いで別離を選んだのではなかったか。それを、鎌に打ち明けてしまっては、元も子もないではないか。だが、葛城とは、そういう男だった。

「太子。酒が、過ぎるようですぞ」

 鎌はそう言うが、鎌もまた、葛城が酒に酔ったことなどないことくらい知っている。この場において悪役を作るとしたら、酒くらいしかないのだ。

「鎌。俺は、心のうちを、お前に何でも打ち明けたいのだ。分かってくれ」


 これが、鎌の知る葛城だった。途方もない器と、突拍子もない行動力。そして少し世の道理から外れたところで世を見る。それがゆえ、入鹿も殺せたし、それに連なる自らの兄も殺せた。自分が天皇と未だならず、皇太子として政治を執り行い、これまでのこの国に無かった新たな仕組みと価値観をもたらし、不安定な大陸諸国の情勢に対抗し得る「日本」を、蘇我の地盤をそのまま引き継いだとは言え数年で整えることが出来た。そして、それがこれから更なるまとまりを見せ、花開いてゆくことは間違いない。



 すべて、あのけやきの広場から始まった。

「俺を、見下ろすな」

 葛城の、あの怒りから。

 鎌は、知っていた。葛城は、感情が多すぎるのだ。言い換えれば、誰よりも人間であった。取り繕うことなく、自らの知と才と情熱と豊かすぎる感情を推進力に、葛城はここまで進んできた。無論、内麻呂や石川麻呂ら政権の中心にいる者どもがことごとく有能であることも大きい。しかし、その有能さとは、あくまで実行者としての有能さで、葛城のような創造者クリエイターでは無かった。


 横文字ついでに言う。葛城とは、言ってしまえば、天才なのだ。そして、そういう者の型としてしばしばあるように、葛城は、子供のように純真で、開けっ広げで、その存在そのもので物事にぶつかってゆく。鎌が感じた器というのは、葛城のその部分であった。

 それを、鎌は、このとき、もう一度見た。

 こうなると、鎌は弱い。



「太子」

 と、声の色を急に変え、向き合って平伏した。

「なんだ、鎌。どうしたのだ」

「お許し下さい。この鎌、恥ずかしながら、はじめの心を、慌ただしさの中に置き去りにしておりました」

「なんだ。何のことだ」

「鎌は、間違っておりました。鎌にとって、太子こそが国。太子こそが、世。それに綱をかけ、引き回そうとするなど、私ごときに出来るはずもないし、すべきでもありませんでした」

 まるで、俺を犬か何かのように言う、と葛城は思ったが、不満ではない。むしろ、おかしがった。

「鎌。俺は、獣か?」

 それに、鎌は大真面目に答えた。

「はい」

 鎌は、ざらざらとした土器と、とろりとした酒の心地が混じりながら唇に触るのを一瞬感じ、手元の酒を一息に飲み干した。

「太子は、獣。それも、この地で誰も見たことのない。身体の毛は雷電を纏い、その牙はふるきを喰らい、そして破る」

「それでは、鎌」

 葛城は、鎌がほとんど泣きそうになりながら感傷的なことを言うのを見て、芦那を取り戻すことに賛同してくれるものと期待した。その葛城の考えは、例によって鎌にはお見通しであるらしく、鎌は、

「なりませぬ」

 と変わらぬ意見を提示した。葛城は、怒らず、しゅんと小さくなった。鎌が駄目だと言うならば、駄目ではないか。

「まず、そのようなこと、口に走らせませぬよう」

 鎌は念を押した。

「内麻呂、石川麻呂も、大いに気にしております」

 更に、葛城がそれを出来ぬの一端を見せた。

「太子がここで皇后を、いや、芦那様をお取り返しになれば、それこそ、太子が天皇を飾り物にし、自らが国を欲しいままにしていると人に見られまする」

 と、軽挙を行ったのちにどうなるのかという未来をも見せた。

「太子のお心、察して余りありまする。それゆえ、くれぐれも。くれぐれも、お心の内のこととして」

 と諭し、鎌は寒い風の吹きつける席を立った。

 葛城が、館の入り口まで、捨てられた犬のような顔をして付いてきた。

「では」

 鎌は、それをのみ言い、胸の前で手を組んで礼をした。

 立ち去りかけて、足を止める。

「――猫」

 珍しく鎌に呼びかけられて、猫が闇から姿を現した。

「酔った。私の館まで、送ってはくれぬか」

 猫が戸惑ったように、葛城の方を見た。

 葛城は、頷いた。それで猫は鎌の前に付き、月明りの下を歩き始めた。

 葛城もまた、鎌が酔ったところなど、見たこともない。

 鎌は、葛城の話を聞き、何かをしようとしているのだ。

 鎌が葛城の心を見透かすように、葛城もまた鎌の心の内が分かる。そういう仲なのだ。


 利用するのとは、少し違う。鎌が今からしようとしていることは、鎌の利のためであり、それが葛城の願いを叶える後押しになることなのだ。

 葛城は、一瞬だけ表情を鎌らの消えた闇に向けて曇らせたが、すぐにもとの顔に戻り、夜具を引き被っていびきをかき始めた。

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