第三章 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
帰るところ
改新は、進む。それを、新たに遷った難波宮で、葛城は妻らに自慢気に話している。この頃になると、流石に猫も男女のことが分かってきたらしく、葛城と女の吼え声が閨から漏れ出てくるときは気配を消し、どこかに行くようになった。
葛城は、特に芦那を愛していた。妻達は、必要にかられて持っているただの女という程度にしか見ていないが、芦那は特別である。二人は、同母兄妹でありながら、今で言うところの恋人であった。
恋人ならば、好きな相手のために自己を犠牲にすることが出来る。ただそこに置いてあるだけの男女という風にしか互いを見ていなければ、こんなことはなかったろう。
そういう話である。
「しかしな、
「その話、何度も聞きました」
芦那は、自らの柔らかく白い
「それにな、芦那」
「なあに、あにさま」
「あれは、鎌が据え置いた者なのだ。我が母の、そして俺の代わりに」
「あにさま」
葛城の頭を撫でていた芦那の手が、ふと止まった。
「鎌が、怖い?」
葛城は、少しの間、黙った。
「ちがうな」
考えていたらしい。自分が、鎌をどう思っているかを。
「あれは、とても良い男だ。あの日、
だがな、と葛城は寂しそうに言う。
「あいつの方が、俺を恐れているのだ。まるで、獣でも見るように」
ぷっと芦那が吹き出した。
「何を笑うのだ」
「だって」
「何だ、芦那」
「それじゃあ、鎌が正しいわ。だって、あにさまは、そのまんま、獣のようですもの」
「言ったな。ただでは置かぬ」
概ね、このようにして、二人のじゃれ合い始まる。その空気を察した瞬間、庭の影の中に小さく控えていた猫はまた気配を消した。
ひとしきりじゃれ合った後、二人はまた話をする。ひょっとすると、芦那は、鎌以上に葛城のことを理解し、彼の行動や思考に対する助言をしている人間であるかもしれない。しかし、この時は、単なる助言に留まらなかった。
「わたしが、天皇と
と言い出した。葛城は、くっきりとした線の顔を獣の油の灯火に浮かび上がらせながら、きょとんとした。
「どうせ、あにさまとは夫婦にはなれないのですもの」
葛城は、芦那のことが誰よりもよく分かる。何せ、彼女が生まれたときからの付き合いなのだ。その葛城が、こいつ、本気だ、と青くなった。
「天皇は、あにさまを貶めて、自らの支配がほんとうになるようにと願い、そうしている」
芦那の状況整理が始まった。こうなったとき、葛城は、最終的に自らが、
――うん。
と従ってしまうことを知っている。やめろ、と内心思った。だが、続きをどうしても聞いてしまう。
「その天皇を据え置いたのは、鎌。鎌もまた、あにさまを怖がっている」
すっかり女のものとなった芦那の指が、とん、と葛城の胸を突いた。
「そうすれば、もしかしたら、天皇と鎌が手を組み、あにさまを太子で無くしてしまうことも、あるやもしれません」
「俺を、太子で無くし、どうする」
「あにさまなら、どうするのです?」
決まっている。吉野に隠れ、世を捨てて暮らしていた兄を、葛城は殺した。それと同じ仕打ちを受けても文句は言えぬのである。
「そうすると、俺は一体なんのために――」
葛城の声が、高くなった。
「――生まれてきたのだ」
ただ蘇我を滅ぼし、それで終わりか。確かに、はじめ、蘇我を滅ぼすことのみを考えていた。しかし、滅ぼしてみると、やらなければならないことが山のように出てきた。良い国を作り、良い王になりたいと思うようになった。この国を良い国にするには、今まで誰もしたことのないことをし、誰も成ったことのない者にならなければならない。自分なら、それが出来ると葛城は確信している。天が、世を壊し、創るために自らをこの地に遣わしたのだと疑ってやまないのだ。
「正直なところ、鎌では、無理だ」
ほとんど泣き声のようにして、葛城は鎌のために憐れんだ。
「天皇では、もっと無理だ」
こんどは、その悲しみに、怒りが混じった。
「芦那、決めた」
葛城が最も好きな名を持ち、葛城が最も好きな魂を宿し、葛城が最も好きな肌を持つ女を、ぐいと抱き寄せた。
「あれらを、殺す」
「だめ」
芦那は、即座にそれを止めた。
「それでは、あにさまは、良き王とはなれない」
葛城にも、それくらいは分かる。いや、葛城だからこそ、分かる。世の人は、自らの権力のために改革の同志である鎌を滅し、天皇を殺した悪人として葛城を指さし、かつての
「だから、わたしが」
天皇と夫婦になる、と言うのである。
「天皇が、わたしの兄たるあにさまに、要らぬことをせぬよう。鎌が、天皇と必要以上に近付かぬよう。鎌は、わたしとあにさまのことを知っている。そのわたしが天皇の傍にいるとなれば、迂闊なことは出来ないでしょう」
だって、と芦那は笑う。
わたしとあにさまは、どうせ、わたしが天皇と夫婦になっても、しょっちゅうこんなことをし続けるのですもの。と。
やっぱり、葛城は、結局、
「うん」
と言ってしまった。この実の妹にしてみれば、雷を纏った獣も、犬か何かにしかならぬらしい。
正直、大好きな――ここであえてそのような表現をする――芦那をほかの男にやるなど、自分の
――天皇の妻となっても、俺の芦那であることに変わりはないのだから、まあ、いいか。
と思ってしまったのである。このことも、あとあと葛城の心に微妙な影を落とすこととなるのであるが、それはまた追って描く。
気配を消していた猫のことを、今は描いておきたい。
「おやめくださいませ」
と、いきなり闇が声を発した。
「猫。このようなときは、どこかに――」
芦那がいつも猫に言い聞かせていることをもう一度言いながら、素早く衣服を手元に引き寄せる。それにも構わず、闇の中から猫は姿を現し、二人の閨に上がり込み、平服した。
「
葛城には、猫の気持ちが、痛いほど分かった。芦那には、分からないらしい。
「猫。差し出たことを」
と、鋭くたしなめた。
「いいえ、芦那様。この猫が犬になっても――」
この時代でも、猫は奔放、犬は従順という価値観はあったと思う。
「――芦那様が、主上のほかの男のところに行ってしまわれるなど、耐えられません」
この時代、通い婚も普通に行われていたし、芦那は葛城とはまた別の屋敷に居るのだが、天皇の妻となると別である。天皇が暮らす宮殿に囲われることになる。
「猫」
芦那の声が、優しくなった。
「お前は、あにさまを守る。そのことのみを考えていればよいのです。わたしも、おまえの大好きな主上のことを守りたい。その一心で、このことを言っているのです」
「ですが――」
猫は、泣き出してしまった。
「猫。なにを泣くことがあるのです」
見かねた葛城が、猫のために芦那の言葉を遮り、言ってやった。
「芦那。分かってやれ。猫は――」
猫の頭が、ぱっと上がった。その先は、知られてはならぬことである。
「――お前のことが、好きなのだ」
芦那の眼が、まん丸になった。
「こいつは、お前のことが、とても好きなのだ。お前と共にあるのが俺だからこそ、こいつは、平気でいられる。もし、お前が別の男に抱かれるようなことがあれば、こいつは、その男を殺すかもしれぬ」
また、芦那は吹き出した。
「猫、おやめなさい。そんな馬鹿なことは」
「夫婦になると言っても、ただ天皇の男のものが、わたしの女の中に入ってくるだけのこと」
この時代の人は、こういう話題に対して現代人の我々よりも多分に露骨である。これより少し後に編まれた万葉集の歌の、民間人が詠んだと思われる歌にも、
「わたしのこれとあなたのそれはぴったりだから、結婚しましょう」
という恋の歌があるくらいであるから、芦那がこういう露骨な物言いをしても不思議ではない。
「しかし、子が」
猫は、何とか理由を探したいところであろう。
「子など」
芦那には、通用しない。
「出来れば、ただ産まれるだけのこと。産まれれば、勝手に人になってゆきます」
ここまで聞いて、葛城は、ああ、もう取り返しがつかない、と思った。芦那は、本気である。となれば、明日、葛城は早速鎌にこのことについての相談を持ち掛けなければならない。
葛城は、鎌が自分を怖がっている、と言ったが、鎌は、きっと喜ぶであろう。鎌にとっても天皇が自我を持っていることは不都合でしかなく、天皇をキャンバスにしたのでは鎌は画家にはなれない。鎌という芸術家を満足させることが出来る器は、葛城だけなのだ。鎌が自分を怖がっているから、自分の才能が開花する前に潰しに来るやもしれぬという不安と同時に、そういう妙な信頼もある。その半分の面の意味で、鎌も喜んでこの話を進めるであろうと思ったのだ。それに、鎌は葛城が人目も憚らず実の妹を愛し、抱き散らかしていることを快く思っていない。天皇のところに行くことで、葛城がそういう不道徳をせぬようになれば、葛城は更に良き王に近づける、と思うことであろう。
翌日、おずおずと鎌にそのことを持ち掛けた。果たして、葛城の思った通りになった。婚礼の儀式はどんどん進み、すぐに芦那は天皇のところに行ってしまった。
芦那のところに通うはずであった日は、葛城は、難波の都の中の誰もいなくなったその屋敷を訪れ、閨に夜通し座っていたという。
――いまごろ、芦那は、あの醜い、小太りの新しい天皇の体重を受け、声を上げているのだ。その肌に、ぬめぬめとした手が這って、俺しか知らぬところに触れられているのだ。
芦那。
芦那。
芦那。
芦那が嫁いでから、まだ僅かな時間しか経っていない。
薄暗い閨の中、獣の油を燃やす灯火が、葛城の影を黒く滲ませている。
「猫」
葛城は、闇に声をかけた。
「主上」
闇が、猫になった。
「帰るぞ」
言って、どこへ、と思った。
葛城が帰る場所は、ただ、ここのみであったものを。
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