終章 暗黒騎士、花と馳せる

最終話 暗黒騎士とリーゼロッテ

 前略 取り急ぎ、用件のみを申し上げます。それは、私の現在と未来についてのお話です。




◆ ◆ ◆ ◆




 しばらくぶりに訪れた暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードの住居、魔城ヴァルガラールことコーポみらい二〇三号室は、相変わらず物が少ない閑散とした部屋だった。そして、広くもない室内にはリーゼロッテと月乃ふたりが座り込み、暗黒騎士が飲み物を運んでくるのを待っている。


「わー、もう喉カラカラ」


 月乃はよく冷えた麦茶を受け取って、ごくごくと嬉しそうに飲む。リーゼロッテは三人で買ってきた菓子の袋を開け、ローテーブルの上をちょっとばかりゴージャスに見せようと試みていた。


「……で、今日はなんで……」


「なんにもないよ。かずくんと鈴堂さんに会いたくなっただけ。そしたらここに来るのが一番いいじゃん?」


 月乃はスナック菓子をもしゃもしゃと口に入れると、けろっとそんなことを言う。医大での事故からしばらく後の土曜日。突然月乃から連絡が来て誘われた時は驚いたし、少し迷ったのだが、結果ついて行くことにした。暗黒騎士と休日を一緒に過ごすのは、ショッピングモールの時以来だと思う。


「……うち、特になんにもないし……」


 暗黒騎士の喋り方は、いつの間にか妹に対してもいつものぼそぼそした口調になっていた。以前よりは無理している様子はないから、きっとこれが自然なのだろう。


「そうなんだよね、昔よくやってたからゲームとかあるかなあって思ったんだけど、ほんとになんにもないや。よく見たらテレビまでないもんね、ここ」


 月乃はきょろきょろと周囲を見回し、棚の上の何かを手に取る。


「あれ、珍しいね。かずくんがこういう……現代もの?読むの」


 あ、と暗黒騎士は慌てた顔をする。それはリーゼロッテが先日彼に貸し出したミステリー小説で、栞代わりのようにどこかの店のレシートがぺらりと挟まっていた。


「……それは、借りてるやつ。まだ途中……」


「私がこの間お貸ししたんです。いかがですか?」


 リーゼロッテが軽く尋ねると、暗黒騎士は少しだけ嬉しそうな顔になって答える。


「……最初の話が終わって、その、面白かった。びっくりした」


「最初のお話はいいですよね。かわいらしくてスッキリまとまってて。あれがお好きなら次のもおすすめですよ」


「うん……」


 あらら、とその会話を眺めていた月乃はからかうように笑った。


「なんだ、やっぱり仲良しだ」


「仲良しですよ?」


 結さんとか葵川さんに教えちゃおっかな、などと携帯をいじる真似をする。葵川とは先日の双子の事件の時になんだかんだとやり取りをするようになったらしい。それを聞いた暗黒騎士があからさまに嫌な顔をするのを、彼女はどうも面白がっているようだ。


「うん、でもめっちゃ安心した。かずくんが元気で楽しそうにしてるって聞くと、お母さんもほっとしてるみたいだし。……なんか整理ついたら、そのうちまた実家にも来てよね。怒りに来たっていいんだから」


 暗黒騎士は少し目を伏せる。リーゼロッテは彼とその家族との関係をはっきりとは知らない。ただ、どうも直接顔を合わせるのを忌避しているようだということくらいしか。それでも、妹と接している時の彼を見るとなんとなくわかる。自分のように決定的な決裂が起こってしまった家ではない。軋轢あつれきや嫌な思い出はあるのかもしれないが、斉藤一人はまだどこか家に心残りを持っているのではないか、と。


「……そのうち」


 暗黒騎士は静かに言った。


「いつか。いつになるかわからないけど、でも」


 ぼんやりとしていた目が、ほんの少しまっすぐ前を見た。


「その時が来たら」


 うん、と月乃はうなずいた。家とか、家族とか、人間関係とか、そういうものはとても複雑怪奇で、理解しようとしても一筋縄ではいかない。リーゼロッテは生まれた家からはっきりと離れることを選んだ。でも、もし彼が家族と本人なりのやり方で向き合っていくことにしたのなら、それはきっと良いことだ。


「そしたら、今日はどうしようか。みんなで黙って漫画読んでるのも変だし……っと、あ、ちょっとごめん」


 みんなで漫画を読むのも楽しそうなのに、と思いながら、リーゼロッテは月乃が携帯端末の着信に対応するのを見ていた。


「もしもし、今外……だけど、平気。うん、ちょっと待ってね。移動するから。はーい」


 ごめん、大学の子。なんかふたりで好きにやってて、と小声で囁くと、月乃はぱたぱたと玄関に行ってサンダルを履き、そのまま扉の外へと出ていってしまう。ぱたん、とドアが閉じる音だけが小さく響いた。


 しん、と部屋の中は静まり返る。窓越しに蝉の声だけが聞こえた。月乃は帰って来ない。ふたりっきりになってしまった。


「……えっと」


 辺りを見回し、話題を探す。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は……漫画はお好きなんですよね」


 カラーボックスの中にはいくらかの単行本が詰まっている。でも、ものすごく読んでいるという量でもなさそうだ。そういえば会社では携帯ゲームをしていたけれど、あのゲーム機やゲームソフトの類も見当たらない。リーゼロッテは少し不思議な気分になった。


 こほん、と暗黒騎士は小さく喉を整えるように咳をした。


「さてはこの魔城、そなたの目にはがらんどうのうろと映っているな、リーゼロッテ?」


 来た、とリーゼロッテは心を弾ませながら対応する。


「はい。素敵なお城ですけれど、少し寂しいなと」


「無理もない。堅牢なる結界の術が全てを覆い隠しているが故にな」


 暗黒騎士は立ち上がる。数歩歩いて部屋の隅の押入れの前に立つ。


「刮目して見よ、リーゼロッテ!」


 ざ、と開かれた押入れの中、下の段には布団が詰まっているが、上の段には棚が置かれていた。そのさらに裏には、収納ボックスの類。


 棚の中には、今にも飛び立ちそうな精巧な作りのドラゴンのフィギュアや、ずらりと並んだ長編漫画の背表紙、外国の言葉で記された大判のハードカバー本、ぎっしりと詰め込まれた、多分メタルのCDアルバム、ゲームソフトの類、まるで魔術書のような背表紙の本に、綺麗な星空を映した写真集、ごろごろと置いてある大きめの鉱石、古びた外国のコイン、銀細工、タロットカード、ボロボロになりかけた古いノートブック、その他様々な物が雑貨店のショーケースの中のように雑多に、しかし大事そうにしまわれていた。壁の部分には、どこともしれない不思議な遺跡の写ったポストカードや、まるで宝の地図のような知らない島の全体図が貼られている。


 ずっと、ここにあったんだ。リーゼロッテはほう、と息を吐く。彼の大事なものは、ちゃんとあった。奥に隠して厳重に、誰にも見せずに閉じ込めていた。


 リーゼロッテは自分の心の奥底に、静かに茎を伸ばし葉を広げていた柔らかな草を見つけた。その株には小さなつぼみがひとつあって、今にもほころびそうにふくらんでいた。


「これこそが我が魂の魔城、ヴァルガラールの心臓部たる宝物庫。そなたには特別にその扉をひらこう」


 ああ。暗黒騎士の晴れやかな笑顔に応えるように、リーゼロッテは微笑む。ゆっくりとつぼみが開く。花がその色を表す。


 それは、華やかな薔薇でも、香り高き百合でもない。可憐な雛菊でも、大輪の向日葵でもない。名も知らぬ小さな野の花の、薄くか弱い花弁の色は淡い青。花が開くうちに色は美しく、優しく、深くなっていく。


 その花はきらめく宝石でできてはいないし、中から甘い蠱惑的な香りが漂うわけでもない。思っていたのとは少し違ったような気もする。でも、リーゼロッテは今咲いたこの想いを、ずっと大事にしようと決めた。決めたのだ。




◆ ◆ ◆ ◆




 前略 取り急ぎ、用件のみを申し上げます。それは、私の現在と未来についてのお話です。

 

 率直にお伝えすると、私はもうあなたの下には帰りません。

 

 あなたには大変お世話になりましたし、思い出もたくさんあります。でも、私は外の世界でその全てが霞んでしまうほどの大切なものをたくさん見つけました。そして、あなたが私のためにしてくれたこと全てが、本当はあなた自身のためでしかなかったのだということもわかりました。

 

 現実は、思うようにはいきません。苦しいこともあります。でも、私は私の大好きな人たちと、少しずつ、ゆっくりと自分の見つけた道を歩いていきたい。そしていつか本当になりたい自分になって、新しい家族を作りたい。そこにはきっとあなたはいません。


 以上、簡単ながら私の今後についての意思表明となります。

 以後の私への連絡は、全て信子叔母さんを通して行っていただけますでしょうか。もちろん自立にあたり出資していただいた経済面での援助は、以前お話した通りの計画で必ずお返しいたします。 草々


 鈴堂修作様

 鈴堂小夜より




◆ ◆ ◆ ◆




 魔城ヴァルガラールの宝物庫を見た翌日。リーゼロッテ・フェルメールは封筒をポストにことんと落とし入れると、くるりと振り返った。すぐ傍の駐輪場には水色をした自転車が停めてあり、彼女はポケットから鍵を取り出す。その鍵にはやはり水色のリボンと、将棋の『歩』の飾りのついたキーホルダーが揺れていた。


 隣にはつや消しの黒のクロスバイクが停めてあり、乗り手の暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは腕を組んでリーゼロッテを待っている。


「終わったか」


「ええ、簡単なものでした」


 投函された手紙はきっとすぐに彼女の叔母に届くだろうし、叔母にはできるだけ早くリーゼロッテの父親である鈴堂修作へと同封の書面を渡してもらうよう頼んである。法的には何の根拠もないが、自分のために必要だった書面だ。決別のための。


 泣くかもしれないと思っていた。少なくとも、心細くなるのではないかと。だから、暗黒騎士と一緒にいる時に少しだけ寄り道をしてもらった。だが、そんなことはまるでなく、あっけない気持ちでリーゼロッテは自転車を押して歩き出す。


 夏の真昼の空は相変わらず綺麗に晴れた青で、ただ西に積乱雲が立っている。いずれ雨になるかもしれない。でも、彼女はそれを恐れない。目一杯ペダルを漕いで、自分のやり方で進んでいく。


「では、いざ征かん。我らが目指すは黄金魔境ガルラト=ラグナス。その奥地に住まう新沢さんのお宅である!」


「はい、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様!」


 やがてふたりは振り向かずに走り出す。星空と青空、それぞれの天空と、心の内に秘めた小さな想いを乗せて。


 二騎の通り抜けた後には――荒れた大地に咲く名もなき青の花が、風に揺れて静かに慈雨の時を待つだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る