第11話 暗黒騎士とエピローグ
ひんやりとした病院の待合室で、リーゼロッテは暗黒騎士、八重樫と並んで会計の順番を待っていた。大きな案件の後は念のために軽く診てもらうようになっている。葵川家の四人は警察の付き添いの下総合病院に向かったが、そちらは院内での暴走事故で混乱しているようだった。なので、軽い症状の従業員は近くの個人病院に診てもらうこととなった。
リーゼロッテの熱傷はほぼ治りつつあったし、暗黒騎士も軽い熱傷と掠り傷のみ、八重樫はバゲットを移動させようとした時に腰に負担がかかったので湿布、という結果だった。結はほぼ無傷で、現場に残って休みながら警察と状況を監督している。
葵川肇からは、弘樹は病院で無事目を覚ました、とメッセージが送られてきた。彼らもこれからが大変だ。双子は治療に逆戻りでさらに指導を厳しく受けるだろうし、総一郎は……社会的地位を失う恐れすらある。
「お疲れ様です。大事なくて良かったです」
「ああ、リーゼちゃんも。跡が残ったりしなくて何より」
八重樫が、疲れた顔ながらにこやかに笑う。そういえば、この人は病院の事故の方にも向かっていたのだな、と思い出した。こんな大忙しの日はなかなかない。
「あの、病院の方も大変でした?」
「まあね。でも、典型的な爆発能力だったから、周りに被害は出たけどこっちは上手く避けられた」
「……心配です。こっちは弘樹くん正樹くんの方で手一杯でしたけど、あの男の人……」
「男の人?」
八重樫が不思議そうに目をぱちぱちとさせた。
「ああ、葵川先生が連れてきた急患か。あっちは無事だよ。検査して、SMEの兆候じゃなくて熱中症と睡眠不足の症状だとわかったらしい」
初耳だった。暗黒騎士がつぶやく。
「されば、力に溺れし哀れなる仔羊は……」
「中学生の女の子。これは内緒なんだけど、例の医大の学長の娘さんなんだってね」
暗黒騎士とリーゼロッテは顔を見合わせた。そういえば、そんな裏事情を情報依存の葵川肇がこっそりと話していた気がする。学長は、自分の娘の療養のためにその道の権威である葵川総一郎を招致したのだと。
「え、じゃあ、結さんと八重樫さんと、あと葵川先生が遅れたのは、その影響で……」
「そうなるね。もちろん、彼女も大事な
ただ、葵川先生は事故後に学長に呼ばれて、あれこれと押し付けられていたのがかわいそうだったね、自分の家族のところに行きたかっただろうに、と付け加える。どうにか解決に導けたからいいが、これで死傷者が出ていたら悔やんでも悔やみきれなかったろう。逆に言うと、学長にとってはこれは明確な弱みだ。自分の身内を必要以上に贔屓して、大学に危険を呼んだことになる。SMEについて診る医師は総一郎の他にもいたはずで、しかも総一郎がもっと早く到着して説得していれば、学内の被害は今よりも小さかった可能性もあるのだから。
リーゼロッテは口をへの字に曲げて、もう一度暗黒騎士の方を見る。なんとなく嫌な予感がした。嫌というのは、不穏とか不快とか、あるいはもっと大きな事件が起こりそうとか、そういうのとは少しだけ違って――。
「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様。私、この件を利用しそうな人をひとり知っています」
「奇遇であるな。我も心当たりがある」
ふたりは目と目を見交わした。
「やだなあ、人をそんな脅迫犯みたいなさあ」
数日後。葵川肇は言葉とは裏腹に、くっくっと喉を鳴らして笑った。耳の方は休養で完治したらしい。表向きは少しも以前と変わらない、態度が軽くて知りたがりの有能な先輩だ。
「どういうイメージなの、僕は」
「とってもご家族思い、でしょうか」
トカノ社の大きなテーブルに掛け、リーゼロッテはお茶をすする。双子の暴走の件が落着し、社内は穏やかだ。社長の計らいもあってここ数日は業務も少なく、リーゼロッテ、葵川、暗黒騎士はのんびりと過ごしていた。
「お父さんや弟さんたちを守るためなら、なんでもするのではないかなって」
「そんな殊勝な人間じゃないですよ」
ぎい、と椅子の背もたれが軋む。そして葵川は、思い出したようにぽつりとつぶやいた。
「ありがとうね、リーゼちゃん、ヴァルちゃん」
ふたりは顔を見合わせる。一度正式に全員に謝罪と礼があったが、改めてこうもストレートに感謝されるとは思わなかった。
「正樹はともかく、弘樹に関してはみんなの手を借りないとどうしようもなかった。浮かれてたんだよね、兄貴になれるかもってさ」
「なれますよ」
正樹は完全に感情を取り戻し、葵川にすがりついてわんわん泣いていた。弘樹だって時間の問題だろう。無理に急ぎ過ぎなければ、きっと大丈夫。そんな気がした。
依存と妄想。双子の症状はこれからも彼らを苦しめるだろう。楽観視はできない。ひび割れが美しく映るのは、あくまで時間を経た後のことだ。傷は傷、生々しく濡れて、ただ痛い。
「……手紙をもらったよ。ごめんなさい、ありがとう、また遊んで、お兄ちゃんだってさ」
だけど、彼らには信頼できる父親と兄がいて、傷を癒すための時間もたくさん残っている。過去の家族のこと、事故のこと、これからのこと。整理すべきことは山積み。きっと大丈夫なんて安易なことは言えないが。
それでも、希望はある。
葵川は照れ臭そうに手を組んでそっぽを向いた。リーゼロッテは、この新しい出来立ての家族をとても素敵だと思った。
「ただいま。いやあ、暑い暑い。冷房はいいねえ」
ドアが開いて、戸叶社長が中へと入ってくる。彼女は傍の小さな冷蔵庫を開けて、ボトルの水を美味しそうに喉に流し込んだ。
「……医大の方に行ってたんだけどさ。葵川先生、このまま残留するみたいよ。少し赴任を遅らせたり、調整するって。事故の話も大学側が責任を持つみたいで、大っぴらにはしない方向みたい。良かったじゃない」
「ああ、まあ、そうなるでしょうね」
「知ってたみたいなこと言うね」
「僕が説得したんですよ。本人はだいぶ落ち込んでて。辞表出して引責辞任する気満々だったみたいだけど、患者さんのことを考えろよって。弘樹と正樹だって、その方がちゃんと診られるし。……初めてケンカしました」
ふうん、熱いね。社長は上着を脱ぎ、席に掛ける。リーゼロッテはまたほんの少し引っ掛かりを感じた。
「……葵川肇。貴君が説得したというのは、父君ひとりだけの話か」
暗黒騎士が口を挟み、彼女の懸念について聞いてくれた。葵川は少しだけ目を逸らした。
「……患者さんのお宅を回って、ちょいちょいと話はしたよ。変な噂が流れたら困るしさ。あと、署名を集めたり」
「署名ですか」
「……なんか地域から嘆願書も出されたって聞いたけど、あれ葵川くんだったの?」
へへへ、予想以上に数が集まりました、と手回しの早い青年は笑う。なんとも呆れた行動力だとリーゼロッテは思った。
「ってことは、学長にも——」
「だから、脅迫犯みたいな扱いはよしてくださいってば。別に大したこと言ってないですよ。あくまで僕個人の監督不行届を謝りに行っただけ」
葵川肇は、大きく手を広げた。まるで蝙蝠の羽のように。
「ただ——笑顔ってのは、コストパフォーマンスがいいんですよね。それだけ」
にこやかな顔のまま、周到に間接的に、決して脅しになるようなことは言わないまま、それでも確実に取引を突きつけてくる、情報通で雄弁な青年。
リーゼロッテは少しだけ、会ったこともない学長に同情した。
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