第8話 鈴堂小夜
白い電光に包まれた玉座で、三条弘樹はゆっくりと首を動かした。声が聞こえる。見ると窓には穴が空いていて、隙間から風と音が流れ込んできていた。
『弘樹』
正樹の声だ。やっぱりもうやめちゃったんだな、と思う。別に構わない。正樹は僕じゃないし、僕は正樹じゃない、ずっとそうだった。だから苦しかった。それも、きっとすぐ終わる。
離れ離れになるのを嫌がったのが間違ってた。僕は間違ったことをした。お父さん、お母さん、ごめんなさい。ひどいことをしました。謝ったって許してもらえないけど。
『弘樹、返事をしてほしい。話ならいくらでも聞くから、やめよう』
肇さんも総一郎お父さんもごめんなさい。でも、僕はわがままで、すぐに嫌になってしまう。あんな悪いことをしたのに、それでも、好きになってもらいたくてたまらない。かまわれたくてたまらない。見てもらいたくてたまらない。ひどい奴なんです。ごめんなさい。
一度だけ、とっておきの花火を打ち上げて、それで終わりにします。僕はもう、どうなっても構わない。
もう、何のためにやっているのかも、よくわからないけど。
◆ ◆ ◆ ◆
『駄目だあ、もう全然返事がない』
葵川が嘆く。リーゼロッテは目を細めた。昔の狂化中の記憶は、おぼろげだがまだ残っている。自分の心の一番柔らかくて、一番単純な部分が増幅されるような感覚だった。きっと弘樹も同じなのだ。助けないといけない。
あの時の異様な高揚が、周囲にこんな絶望を与えていただなんて、何も気づけなかった。
「ドア、どうにか開けられないでしょうか……」
「動いてるとこを開けるのは無理なんじゃないの。こっちも危ないよ」
八重樫と結がぱたぱたと走りながら戻ってくる。結は一息に言うと、ペットボトルの水をがぶがぶと飲んだ。
「それなら……」
「我が征くか。頃合いであるな」
しばらくしゃがみ込んでいた暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが、ゆっくりと立ち上がった。
「この暗黒瘴気剣にて竜の鱗を斬り裂き……」
「ビリビリはどうすんの」
「が、我慢する……」
話になんねえ、と結がぼやく。
「いえ、我慢……我慢すれば」
リーゼロッテは自分の手をじっと見つめた。治癒の力。いつも現場で直接働かせることはできず、歯がゆい思いをしていた力。狂化のぼんやりとした記憶の中、本能で操ったやり方がある。
「私なら、感電を気にしないで行けます」
「それは、気にしないで、じゃないだろう」
八重樫が少し厳しい顔をする。
「……はい。熱傷をその都度治して、そのまま突っ込めば、ということです」
「痛いじゃんそれ。もっと穏便な手を使おうよ」
「突撃をして、そしてどうする、リーゼロッテ」
暗黒騎士が静かな声音で言った。
「それは——」
リーゼロッテは必死に考えをまとめる。やがて彼女は、訥々と語り始めた。語りながら思い出す。ほんの少し遠い昔の自分を。
リーゼロッテ・フェルメールがまだただの鈴堂小夜だった頃。父親はよく『怒ってはいけないよ』と彼女を諭した。
「怒ったら、冷静な判断ができなくなる。正しい道を選べなくなる。そうだろう?」
そうなのか、と幼い小夜は納得して、学校や家庭で味わう多少の理不尽に対してあえて怒るのをやめた。それは、一面では真実だったのかもしれない。だが、今では思う。父は、彼女の牙を抜こうとしていたのだと。
怒りだけではない。彼女の感情は少しずつ弱められ、静かに麻痺していた。友達がいなくても、好きに遊べなくても、こっそり食べたい物を食べたりしなくても、別にいいや……どうでもいいや、と。SME発症のその時まで、小夜は本当にそう思っていた——思い込んでいたのだ。
やがて彼女は逃げ出して、感情を取り戻した。彼女は楽しみを取り戻した。彼女には仕事や大切な友人ができたし、周りには素敵な人たちがたくさんいる。一度失敗をしたけれど、それでも大好きな場所に戻ってくることができた。
彼女の世界は色彩を取り戻した。そして、抜かれたはずの牙も。
リーゼロッテは空を仰ぐ。澄んだ夏の青空は、何よりも美しかった。そして今、彼女はかつての自分のように、怒り方を間違えた子供を見つめている。弟を取り戻そうと、痛みを抱えながら葵川が必死で呼びかけている声を聞く。
家族は新しく作ることができる。ひび割れは金で継ぐことができる。傷はいつか美しい模様に変わる。
なら、私はその手伝いがしたい。
まだ間に合う。欠片は散ってはいない。拾い集めるのだ。みんなが自分にしてくれたように。
リーゼロッテ・フェルメールは考える。最高の最善を。皆が笑って帰れるように。
作戦について語り終えると、どうやら渋々納得してくれた様子の結と目が合った。小さくうなずき合う。こんどこそ最後だ。悠長にやってはいられない。
「したら十秒で開始……」
『ちょ、ちょっといいですか! ごめんなさい、ほんとにちょっとだけ!』
聞き覚えのある声が、蝙蝠越しに突然響き渡った。まさか、と思う。そういえば、自転車で通り過ぎた時に見かけたような記憶もある。
「……月乃?」
暗黒騎士が怪訝そうな声を上げた。斉藤月乃。確かに彼女の友人の声だ。
『斉藤月乃です。兄がお世話に……えっと、さっき葵川さんを手伝った時に蝙蝠ちゃんを一匹借りてずっと聞いてて……いや、それはいいんですけど、あの』
すう、と息を吸う音がした。
『頑張って!』
全員が呆気に取られた顔をした。あまりにシンプルな激励の言葉だった。暗黒騎士とリーゼロッテは顔と顔を見合わせる。
『ほんとこれだけ言いたかったの。すいません! あっ、あとかずくん! 超格好いいよ!』
終わり!と一方的に月乃の声は断ち切られた。結がくすりと笑う。
「元気だね、あの子」
「……余計なことばっかりする……」
爪の剣を振りながら、暗黒騎士はくしゃりと顔を歪めた。リーゼロッテは、なんだか嬉しくなって微笑んだ。
ちゃんと聞いてるよ、戦ってるのを知ってるよ、と友達が言ってくれた。それが、何よりも嬉しかった。少し肩の力が抜けた気がした。
「じゃ、改めて。十秒で開始」
結のカウントダウンが始まり、リーゼロッテは声を合わせた。
◆ ◆ ◆ ◆
斉藤月乃は、並木にもたれてへなへなとしゃがみ込んだ。遠くではひっきりなしに破砕音やサイレンの音が響いている。
仕事の邪魔をしてしまったかもしれない。でも、どうしてもあれだけは言いたかった。健康で無力な自分にできることは、見守ることだけだ。
兄のことは、全くわからない。口を利かなかった頃も、暗黒騎士になってからも、ずっと。嫌われているかもしれないと思っていた。そうでもなさそうだとわかったのは、つい最近のことだ。鈴堂小夜は、彼女の知らない兄の姿をたくさん教えてくれた。良かった、と思った。兄にはちゃんと、傍で見てくれている人がいる。
十。蝙蝠の向こうでカウントダウンが始まる。
母が兄の集めていた漫画だのをまとめて捨てた時、彼女はたまたま外出していた。でも、もし見ていたとして、止めたかどうかはわからない。それらは、当時の彼女にとっては何の価値もないものだったから。
兄が帰省して、その話を聞いた時の傷ついた顔はよく覚えている。そんなに大事なら、何か言い返せばいいのに、怒ればいいのにと思った。でも、彼はしょんぼりと肩を落としただけで、その場では何も起こらず過ぎてしまった。兄が発症して事件を起こしたのは、それからすぐのことだ。
九、八。
全部、今では後悔している。取り戻せるかどうかはわからない。でも、できることはしないといけない。
七、六、五。
(
鈴堂小夜はあのかわいい真面目な顔で、そんなことを言う。そうなのだろう。蝙蝠越しに聞こえた兄の声は、とても格好良かった。しっかり仕事をしていた。暗黒騎士だからって……いや、だからこそ、真剣に戦っていた。
助けてあげる必要なんてないくらいに、ちゃんとしていたのだ。
四、三、二。
義務感とか、後悔とか、それもある。でも、それだけではない。ただ、応援したいと思った。月乃はぎゅっと手を祈りの形に握り締める。
一。
(かずくん、頑張って)
ゼロ。告げられた瞬間足音が響き、最後の作戦が始まった。
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