第2話 暗黒騎士のスタンバイ
——現在。
ホテルのラウンジでアイスティーをすすりながら、二十六歳の
「大丈夫かな、あの子たち」
「ちゃんと言うことを聞くいい子だよ。ゲームでもして大人しく待ってるさ」
「そうじゃない、そうじゃなくてさあ」
『葵川先生』としてはとても好きだった楽観癖と鷹揚な優しさが、父親としては時に欠点になることを、肇はこの十数年間で嫌と言うほど学んだ。
「なんで仕事以外だと適当になるかなあ。報・連・相! 大事なことを聞いてないよ。あの子たちも
「ああ、まあ、本人たちがいないところでと思って……。よくわかったねえ」
「そりゃ材料が揃えば推測はできますよ。あの子たちは……」
感情の薄い目と、抑揚のない声。幼少時に発症した
「昔の僕にそっくりだ」
親戚の子供と言っていた。きっと他に行く当てがなくて、見過ごせなかったのだろう。彼の時と同じだ。そこにあるのは素直な同情と、臨床データへの興味。義父の好奇心と行動力は幼い日、必死で人になろうとしていた肇のロールモデルだった。情報依存の症状もあって、おかげで少々偏った人格になってしまったことは自分でも認めるところだ。
「まあ、典型的な感情閉塞は起こしているが、興味深いのは双子という点でね。あの子たちは積極的な治療なしでもお互いにコミュニケーションを取ることで順調な回復を」
「それは面白いだろうけど、僕が言ってるのはさあ……父さん、覚えてないわけないよね?」
ドカン、というジェスチャーのつもりで、肇は両手を広げた。
「爆発するよ、あの子たち。そのうち」
僕と同じに。そう付け加えた。
「そうはさせないように見ているんじゃないか」
「仕事、あの子たちが落ち着くまで始めない方がいいと思うけどねえ」
長距離移動に、父親と接する時間の減少。子供にとっては大きなストレス源となり得る。
「それもそうはいかなくてね……」
返ってきたのは苦笑いだった。大人の事情が絡んでいるのは調査済みだ。要するに、学部長の孫にSMEが発症し、最高の医療環境を作り上げるために呼ばれたのが総一郎、という話らしい。総一郎は以前……肇を診ていた頃も神ヶ谷医大に勤めていた。古巣の先輩の意向には逆らいづらいのだろう。
「大人の都合に子供を付き合わせるのは、間違っていると思うんだがね……」
大人は時に、間違えざるを得ないことがある、とつぶやく言葉に、肇は首を振った。
「僕実質十四歳なんで、わかりませんねえ」
「お前そのネタ、よくよく好きだよなあ」
義理の親子は、今度こそ顔を合わせて笑った。笑ってから、肇はつぶやく。
目の前で知り合いが暴走するとか、そういうのはね。もう見たくないや。
◆ ◆ ◆ ◆
——十四年前。
「葵川先生はまだ来ませんか」
看護士に聞くと、決まってあと何日待ってね、と言われる。火曜と木曜が来院日で、でも時々個人的に様子を見に来てくれた。肇くんはよっぽど先生が好きなのね、と優しく笑われたが、少し違う。
先生は、興味深いのだ。
なんでも、よたよたと飛べるようになった蝙蝠に盗み聞きさせたところ、総一郎はまだなかなか研究が進んでいない
それまで混迷の中にいた肇は、葵川総一郎の指導により少しずつ少しずつ、前に進み始めていた。能力の制御。依存症状への対応。社会復帰。向こうも探り探りなのは感じていたし、言われた通りデータの取得が目的なのも本当だろう。でも、そんなことは構わなかった。
まだ感情の修復が半端だった肇にとって、人と繋がるには情よりも知をもってした方がずっとやりやすかった。感謝とか尊敬とか、そういうのはよくわからない。ただ彼を音の洪水から救い出したその手腕に、肇は強く興味を抱いたのだった。
「友達が出来たって聞いたよ。よかったじゃないか」
プレイルームに出られるようになってからは、できるだけ他の長期療養中の子供たちと付き合うようにしていた。彼らとのやり取りからも学ぶところは多い。肇はできるだけ早く人間の皮を被らねばならないと思っていた。そうすれば、総一郎が喜ぶからだ。
「友達かはよくわからないですけど、たくさん遊んでます。……あのう、先生」
肇は目下の悩みをこっそりと打ち明けた。
「なんだね」
「僕は、ちゃんと十二歳の男の子に見えてるでしょうか」
総一郎が軽く眉をひそめた。
「誰かに、何か言われたのかな」
「いいえ。ただ、他の子と合わないと思う時がたまにあります。他の子も、時々僕の言うことを聞いて変な顔をします。僕がちゃんとみんなに合わせてないせいだと思うので、おかしなところは直さないと」
きっかけは、やはり好きな動物の話になった時のことだ。犬猫やら象やらの話の中、蝙蝠を挙げた肇は皆に不思議がられたし、その場にいた誰かの母親には渋いね、と言われてしまった。渋いというのは年齢相応でない、ということかと思う。それはあまり良くない。
総一郎は少し考え、そうして座ったまま少し姿勢を低くした。
「人と合わないのはつらいね。でも、それは難しい問題だ。君は実質生まれたばかりでもあるし、同時にすごく聡明な子でもある。年齢にこだわることはないと思うし、人に合わせすぎることもないんだ」
先生の目は、他と違っているな、と思った。自分と本当に深く関わろうとしているのは、総一郎だけだと思う。
「僕は君が人の間でやっていけるようにいろんなことを教えているけど、それは無理して人に付き合うためじゃない。君が君として負荷なく……つらいことなく生きていけるようになるための勉強なんだよ」
半分わかったような、半分まだよくわからないような気持ちがした。でも、期待をされているのだと感じたし、期待には応えたいと思った。
人間になるのだ。まだそれがどんなものかよくわからないが、一歩一歩学んでいくのは、とてもわくわくするプロセスだった。
真っ暗な道のりでも、彼には蝙蝠があったし、先生もいてくれる。
何も怖くはなかった。
そのしばらく後のことだ。冬の夕暮れのほのかな紅が溶けて消える頃、肇はノートに日課である総一郎への報告書を記していた。
しりとり遊びの何が楽しいかわかったこと。年下の子供が失敗した時は、公正に叱るのではなく、優しく許してあげると心証が良いこと。もし雪が積もったら、外出できる子供は中庭に雪だるまを作ってもいいと言われたこと。
書き上がった文面を眺め、得意げに笑う。笑えるようになったのは、近頃の大きな進歩だ。元々目元はいつでも笑っているような顔をしていると言われていたので、一度やってみればそう難しいことでもなかった。常に笑っていればいいというものでもないようだが、明らかに周りの反応は好意的になったし、動作としては『コストパフォーマンス』が良い。これは最近覚えた言葉だ。
ノートを閉じると、病院内に飛ばしていた蝙蝠を通じ、こっそりと音を聴く。これもあまり行儀がいいとは言えない彼の日課だった。広範囲の音を聴くことはできなくなったが、その代わりに狙い澄まして盗み聞きをすることができるようになった。一番面白いのは噂話で、それが聴きやすいのはナースステーションだ。
『……室の肇くん、ずいぶん元気になりましたね』
と、急に彼の名前が出てきた。何を言われるのかと耳を澄ませる。
『最近は機嫌良さそうでにこにこしてるものね。葵川先生のカウンセリングが良かったのねえ』
『ほんとに』
そうだろうそうだろう、と思った。先生はすごいんだ。
『そう、葵川先生なんですけど、このまま順調だと肇くんの診察時間も今ほど取らなくて済むようになるってお話です』
『じゃあ週一診察とかになるの?』
肇は目を瞬いた。聞いていない。先生に今みたいに会えなくなる?って?
『いえ、来院はこれまでと同じで、佐藤先生が受け持たれてるSME患者さんのうち、若い方を何人か診ていただくかも、って。決定ではないようなんですけど』
ああ、佐藤先生もだいぶ大変そうだものね、なんて声は耳からすり抜けていった。
上手くやっていると思っていた。先生も喜んでいた。でもそれが、そのせいで先生と会えなくなる。他の人のところに行ってしまう。肇は混乱した。どうにか整理をつけたはずの頭の中が、ごちゃごちゃにかき混ぜられた気がした。だからと言って、急に元に戻ってしまったふりなんてできない。被ってしまった人の皮は、もう脱げない。
次の日、報告書を読んだ総一郎は、そろそろ次のステップに進もうと優しく切り出した。それは、他の医師や療法士の人と訓練をしたり、遅れていた勉強をしたり、病院の外の社会にも徐々に慣れていったり、そういうことをするのだという。
自分でも予想外なほどの絶望に呑まれながら、肇は小さくうなずいた。
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