第4章 暗黒騎士、友と語らう

第1話 暗黒騎士はバックヤード

 投げ出された全身が鈍く痛かったが、強く打ったらしい頭の横はひときわガンガンと痛んだ。何か大きな音がした気がして、それきり耳の中はきんと吸い込まれるように無音だ。


 突然強く突き飛ばされたのだ、と気づく。どうして? 十二歳のはじめは、アスファルトの地面に転がったまま目を開いた。


 大きなトラックがまず目に入った。歩道に半ば乗り上げて停まっていた。たくさんの人が集まってきていて、多分騒いでいるのだろうが彼の耳には何も聞こえない。肇の周りにも心配そうな、あるいは興奮した様子の顔がたくさんあって、何事か言い合っていた。


 肇はゆっくりと上体を起こし、首をめぐらす。母親と小さな妹が一緒にいたはずだ。夕飯の買い物をしに出て、手を繋いで歩いていた。


 母親はトラックの側に、妙な形に脚を曲げて倒れていた。妹はそのすぐ横に、大の字になって人形のように転がっている。母親の目にはほぼ光がなく、それでも肇を見て何か小さく口を動かしていた。


 ごめんね、お母さん。耳がきんと鳴る。




 何も、聞こえないんだ。




 それはもう彼にとってはただの繰り返し見る夢でしかなく、どんなに耳を澄ましても、一度も母の声を聞けた試しはない。





◆ ◆ ◆ ◆





 駅の東口から少し行けば、背の高い『ホテルトワイライト瑞野』の建物はすぐだ。シャツに汗がにじむ前にと、急いでペダルを漕いだ。


 入り口の少し手前で自転車を降り、さくさくと折りたたむ。しばらく乗って、取り扱いにはもう慣れた。輪行袋に入れ、ずしりとした重みを感じながら中へと入る。


 天井の高いフロントを抜けると、明るく広いラウンジに冷房の風が心地よい。葵川肇あおいがわはじめは大きな窓の傍の席に腰掛け、アイスティーを注文した。待ち合わせの十分前。しばらく待てばこのホテルに滞在している義父、葵川総一郎が姿を見せるはずだ。


 肇はこっそりと宙に透明の蝙蝠を——彼の能力の端末を飛ばし、辺りの様子をうかがう。端末は要するにマイク兼スピーカーで、彼は主に普段は集音のために使用していた。周りの他愛ない会話を聞くのも楽しかったし、義父が来るのを早めに察知したかった。


 SME発症者、特に年少者の回復とケアを中心に研究している義父と直接顔を合わせるのは実に三年ぶりだ。総一郎は昨年の夏まではイギリスの研究所におり、帰国してからも東京で暮らしていた。特に変事もないしわざわざ会いに行くまでもなかろう、というのが父子の共通の意見で、ふたりがこれまでに築いてきた関係性だ。というよりは、肇が義父の態度を自然に真似たのかもしれない。


 何せ、出会った頃の肇は、何もかもボロボロだったから。


 蝙蝠越しにエレベーターホールの方から音がする。軽めの足音がひとつ、もっと軽いのがふたつ、並んでラウンジにやって来る。


 親子連れかな、と思った。それにしては会話がないから、喧嘩でもしたか。ともあれ、待ち人はまだみたいだ、と窓の外に目をやった。外の緑が陽射しにまぶしい。足音はやがて彼の席のすぐ横へとやって来て……。


「肇」


 突然名を呼ばれた。彼は弾かれたようにそちらを見る。そこに立っていたのは、三年ぶりの義父。相変わらず小柄で、大きめの眼鏡をかけている。少し痩せて、白髪がちらほら増えたろうか。それでも元気そうな彼の両脇には、十歳ほどのよく似た男の子がふたり、肇の顔をじっと妙に表情のない顔で見つめていた。


「久しぶりだなあ。そうそう、東京土産を持ってきたよ」


「いや……それより先に話すことあるでしょ」


 中腰で立ち上がり、差し出された袋を受け取りながら、肇はさすがに怪訝な声を上げた。


「ああ、こっちに帰ってから一度見合いをしたんだけど、やっぱりだめだな。子供がいるなんて聞いてないって言われて……」


「僕だって聞いてないよ⁉︎」


 裏返った声を上げる。言ってなかったっけ、という様子の総一郎に、揃いのシャツを着た子供ふたりは顔を見合わせた。


「なんかそんな気がしてた」


「お父さん、そういうとこズボラだよね」


 冷静な声には何か遠い親近感があったが、それはまあいい。問題は事実関係だ……なんとなくの想像はついたが。


「親戚の子でね。こっちに来てすぐ引き取ったんだ。じきに戸籍を動かすから、お前の弟になるよ。双子で、名前は弘樹と正樹」


「三条弘樹です」


「そのうち葵川正樹になるんだって」


 よろしくお願いします。丁寧に頭を下げられる。肇は頭を下げ返すのも馬鹿馬鹿しいし、かといって無碍むげにもできず、仕方なくふたりの頭をぽんぽん、と両手で撫でた。


「肇です。よろしく」


「知ってる」


「東京の地下鉄の駅の名前、全部暗記してるってほんと?」


「……父さん、何をどこまで話してるのさ」


 非難の声を上げ、そしてはっとした。十歳くらいの男の双子。職場で一度聞いた特徴だ。


「君ら、もしかして先週、医大の辺りにいた?」


「先週。こっちに来てた日かな」


「お父さんのお仕事を待ってた」


「ユンボ見てたら、変な人に会った。剣持ってるの」


「変な人だけど、いい人だったよ。竜の話をしてくれた」


 肇は確信していた。リーゼロッテと暗黒騎士が出会ったという病者ペイシェントの子供。多分、このふたりだ。




◆ ◆ ◆ ◆




 ——十四年前。


 話し声、機械の音、足音、誰かの泣き声。ごうごうと鳴るはずのない音が渦巻く部屋の中、突き抜けるようにしてノックの音がする。病室のベッドの端に腰掛けていた十二歳の肇は、そちらに目を向けた。扉が軽く叩かれたら入室の合図。それは覚えている。


「こんにちは、肇くん」


 入って来たのは小柄な男性で、大きめの眼鏡をかけていた。声はこの騒音の中では、あまり聞き取りやすい方ではない。


「はじめまして」


 あいさつが必要なので、あいさつをした。これも覚えていたことだ。誰にどう教えてもらったかは、忘れてしまった。


「いつもの先生に聞いているよね。君の……」


 ああ、だめだ。音がうるさくて、紛れてしまう。肇は首を傾げた。


『ごめんなさい。声がよく聞こえません』


 ノートにさらさらと文字を書くと、男性は椅子に座りながらうなずく。そして、肇の拙い字の下でボールペンを動かした。文字は読める。年のわりに少し難しい漢字も読める方らしい。ペンが離れると、そこにはこう書いてあった。


『一緒に話をしよう』




 ストレス性変異脳症、というのだそうだ。肇があちこちから音を集めて、人間スピーカーみたいに部屋の中にばらまいてしまっている病気の名前で、それから——少し前までの記憶が、うんと遠くに行ってしまった原因だ。


 消えてしまったわけではないと思う。自分には事故で亡くした母親と妹と、さらに前に亡くなった父親がいたらしい。聞かされた時になんとなく思い出した。でもそれはあくまで事実関係で、暖かい思い出という感じではない。彼の中の家族は、動かない写真に『母』とか『妹』という文字が書かれたような、夢の中に現れるくらいの存在でしかなくなっていた。


 十二年間の記憶を、ただの情報として持って生まれ直したようなものだ、と医師が話していたのを聞いたことがある。その通りだと思う。だから肇は、覚えていない部分に関しては、人が普段どうやって振舞っているのかを注意深く観察して真似するようにしていた。


 何もしていないのに勝手に音を集めてしまう、変な力のせいもあるのだろう。十二歳の脳で処理するにはあまりに大量の情報が、毎分毎秒、津波のように押し寄せてくる。最初よりはだいぶ聞き分けがしやすくなったが、それでもまだ慣れない人の声はなかなか聞こえない。そちらに対処するのが精一杯で、自分の内面を探る作業は難航している。


 結果として肇は妙に無口で無表情で、いつも遠くを見ている、淡々とした機械のような子供として生きていた。


『話に聞いてはいたけど、すごい音だね』


 簡単に自己紹介をした後、その先生はこうノートに書いてきた。この部屋に来る人たちは、みんな耳栓をするのが決まりになっているそうだ。外から入って来る人にはさぞかしうるさいのだろう。


『はい』


『少し遊びをしようか。好きなものはある?』


 首を傾げた。音を集めて周りに振りまいてしまう彼の世界は、この病室と時々連れて行かれる診察室、途中の廊下くらいだ。ただ、たまに読書室から持ってきてもらう本は貪るように読んだ。


『本』


『僕も好きだよ。最近読んで面白かったのは?』


『動物図鑑』


 枕元をちらりと見る。絵本や物語も悪くはないが、視覚の情報量が多い本は彼の意識をいっとき音から遮断し、渇きを癒した。まだ一ページ一ページ、ゆっくりと読んでいる途中だ。


『じゃあ、その中で好きなのはどれ?』


『コウモリ』


 これは即答できた。何度も読み返したから、データはほぼ覚えている。姿も面白かったし、飛ぶのも不思議だし、何より超音波を出したり聴いたりできるというのが印象的だった。


 生態を書き写したものを見せたら、肇くんは変わってるね、と看護士の人に言われた。でも、この先生は違うらしい。それはいいね、と言う。


『ちょっと試したいことがあるんだ。頭の中に蝙蝠こうもりを思い浮かべてみて』


 音まみれの脳裏に、図鑑の写真が浮かんだ。潰れたような変な顔に、大きく広げた翼。どんな風に飛ぶのかは、映像を見たことがないからわからない。窓の外を行くカラスとは飛び方が違うのだろうか。


『それから、周りの音をぎゅっと押し固めるようにする』


 これはちょっと難解だ。掴みどころがないものを、それでも捉えようともがいた。ぐっと顔に力を入れると、先生は少し笑った。


『そのまま、ぎゅっとぎゅっと押し続けて、蝙蝠の形にする。今一度にできなくてもいいよ。これは遊びで練習』


 掴んで、押し固めて、彼の力を、形のないものを、耳を震わす音を、小さく、小さく、小さな蝙蝠の形に。


 突然、ぴんと何かが繋がった気がした。蝙蝠。超音波。音を受け取って動く生き物。つまり、僕だ。


 音が、するすると彼の手元に吸い込まれるような感覚があった。ごちゃごちゃに響いていた声が、物音が、小さくなっていく。彼の耳は急に自由になった。時計の針の音がかちかちと鳴る、びっくりするくらいしんとした部屋に、肇は先生とふたりで向かい合っていた。


「すごいな、一度で上手くいくとは思わなかった。君は勘がいいよ」


 二週間くらいのプログラムを考えてたのに、作り直しだと先生は耳栓を外しながら笑った。手元を見下ろす。透明のガラスでできたような蝙蝠がちょこんと彼の手に乗っていて、不恰好に羽をばたつかせていた。飛ばないのは、彼が飛び方を知らないからだろう、と思う。持ち上げて耳元に寄せると、さっきまで聴こえていた騒音がまた復活する。だが、音量は耳に優しい程度に抑えられている。


 モチーフ療法、と言うのだと後で知った。手近な物に能力を関連させ、制御しやすくするのだそうだ。


 普通の音の世界って、こんなだったっけ。あまりに遠くて思い出せない感覚を引き寄せようとして、肇は心の中に手を伸ばす。手応えはない。


「改めて、葵川総一郎です。しばらく君のケアを担当して……希少なデータを取らせてもらうよ。よろしく」


 ずいぶんと直裁な自己紹介だったが、幼く過去のない肇にはそれほど奇妙には聞こえなかった。


 よろしくお願いします、と握手をした。それが、義父との初めての出会いだった。

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