第2話 暗黒騎士とアナウンスメント
初めてのラーメンは、なかなかの味だった。チェーン店なのだそうだが、澄んだスープから立ち上る魚介スープの香りはかぐわしかったし、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードのアドバイス通り味玉とほうれん草をトッピングしたおかげで、見た目も味もバランスが良く、結構な量をぺろりといただいてしまった。おまけに紙エプロンをもらって気をつけたおかげで服は汚さずに済んだし、これはもうリーゼロッテの大勝利と言ってよかろうと思う。
「とてもおいしかったです。少しのどが渇きましたけど……」
「癒しの水を求め、長き道を訪う覚悟はあるか」
「覚悟はないですけど、あそこに自販機がありますね」
「あった……」
建物の入り口付近にある自販機でペットボトルを買い、外の広場の大きな円形ベンチに腰掛ける。喧騒の中、スピーカーから迷子アナウンスの声が流れていった。
「ただの水なのに、おいしく感じるのって不思議です」
「我がダラスカイネの灼熱砂漠を三日三晩彷徨いし折は、ようやくたどり着いた幻の湖の水が天上の美酒のごとく思えたものよ」
鳥取砂丘とか行ったことがあるんだろうか、と思った。それとも激辛カレーか何かの話かもしれない。
ふう、と息をついて上を向く。ソラちゃんのフレームよりも濃い、明るい水色の空に、もくもくと大きな雲が立ち上がっている。あの雲の下、ずっと向こうのどこかの街では、今頃大粒の雨が降っているのだろうか。リーゼロッテは少し不思議な気持ちがした。
去年、東京で過ごしていた時期は、西の空やテレビの天気予報を見て、時々瑞野のことを思い出していた。今は、東の空に実家を思い出す。SMEを発症してからが忙しすぎて、それ以前のことはなんだか少し紗のかかった遠い記憶のように感じることもあるが、それでも思い出がいくつも残った土地だ。母親の墓もある。……父親が、今もいる。
喧騒から少し離れた気分になって、しばらく空を見つめていた。首を戻すと、横の暗黒騎士も同じようにぼんやり顔を上向けている。ふたりで黙って上を見ながら並んでいる様は子供のようで、きっと妙な見た目だったことだろう。片方は片手に風船の剣まで下げているし。でも、それとも、もしかしたら。
先日
なんだか恥ずかしくなってペットボトルの水をごくりと飲み込み、周りを見回す。幸い、じろじろとこちらを見ているような人はいなかった。やはり家族連れが多く休憩しており、みんなとても幸せそうに見える。そんな中、少し先のベンチに、ふと見覚えのある人影を見つけた。
八重樫だ。少し青い顔をしてうつむき座っている。周りに先ほどの家族は見えない。暗黒騎士の肩をちょいちょいと叩くと、彼はようやく目線を下げた。
「あれ、八重樫さんですよね。おひとりみたいです」
「かの者にも孤独の刻を望む日はあろう」
「そうなんですけど、ちょっと具合悪そうな感じで」
暗黒騎士は目を細めてリーゼロッテが指す方を見る。八重樫はSMEの症状で仕事中も時折、ふさぎ込むことがあった。本人なりの対処法を持っているようで、しばらく放っておいたり、軽くなだめたりすればそれほどひどいことにはならず回復するのだが……。暗黒騎士は、やや事態を重く見たらしい。立ち上がると、向こうのベンチへとゆっくり歩き出した。リーゼロッテも続く。
「八重樫さん」
暗黒騎士に名を呼ばれ、八重樫ははっとしたように憔悴した様子の顔を上げた。
「灼熱の気にその魂を疲弊させたか」
「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は、熱中症とかは大丈夫ですか、とおっしゃっております」
「……斉藤くんにリーゼちゃん」
八重樫は口の端を微かに上げて、それから目を瞬かせる。
「あれ、一緒に来てたのかな」
「いいえ、あの、中で偶然お会いしたんです」
そう、と八重樫はうなずき、そしてまた軽くうなだれた。
「大丈夫だよ。ちょっと人混みが苦手で、休ませてもらってて……」
ふう、と息を吐く様子はやはり元気がないようだ。
「ご家族の方は?」
「慣れてるからね。ひとりの方が気が楽なんだ。向こうは向こうで買い物をしてるよ」
それは、自分たちも声をかけない方が良かったのだろうか、とリーゼロッテは少し心配になる。なんとなく、八重樫の家族のドライさも気にかかった。
彼は以前配送業者に勤めており、勤務の過酷さからSMEを発症、しばらく休職してからトカノ特殊業務社に入ったのだと聞いていた。幼い子供を抱えた家庭には、苦難の時だったことだろう。代わりに手に入ったのは、触れたものの重さを軽くすることができる力。今ではその力を、引越し作業などに日々役立てているが。
「息子がじっとしてられないたちでね……。付き合わせても悪いし、こっちも疲れるし。悪いことをしていると思うよ。情けない親だと思われてるんだろうなあ」
「そんなことは……」
リーゼロッテは反論しようとして、自分の父親を思い出す。珍しく一緒に出かけた時は、常に彼女を気にかけてくれていた父親。本屋に寄った時、隙を見て近づいてきた怪しい大人に話しかけられた時は、すぐに追い払って助けてくれた。
蘇った、香りばかりは優しく甘い思い出を振り払う。自分の家の物語は、自分だけのものだ。人の家に重ねるものではない。暗黒騎士は唇を小さくぎゅっと噛んだ彼女の顔を、少し気にするような顔で眺めていた。
「まあ、軽く話したら楽になってきたよ。ありがとう。発作みたいなものでね。平気な時は平気なんだ」
確かに、八重樫の顔色は少し普段の健康さを取り戻してきたようだった。彼は初めて気づいたように、空を見上げる。
「ああ、綺麗な青だね」
暗黒騎士が何か口を開こうとしてやめる。彼はよく、昼間の明るい空の代わりに深い宵闇の世界を夢見ているらしい、ということはリーゼロッテも多少知っていた。今も――さっき見上げていた空もそうなのだろうか、と思う。自分と誰かの見ている世界がまるで違うということは、ある意味当たり前で、どこか切なくて、とても不思議で、きっと何よりも大事なことだ。
代わりに暗黒騎士は厳かにこう告げた。
「されば、貴君の為すべきことを為すが良い。刻は未だ満ちず、その手を求める者が在ることを貴君は知っていよう」
「……なんて?」
八重樫がさすがに戸惑った顔でリーゼロッテを仰ぐ。彼女は笑って翻訳をした。
「まだ時間も早いし、ご家族のところに行ってあげてください、とのことです」
「ああ……ああ。そうするよ、と……」
そこに、微かに震えるような音が響く。八重樫はポケットから携帯端末を取り出し、耳に当てた。
「ああ、もしもし。こっちは大丈夫。調子は戻ったからすぐに……え?」
声に不穏な調子が響いた。
「はぐれた?」
市内からお越しの
淡々とした口調のアナウンスが流れる。積乱雲は未だ、遠く大きく青空にそびえ立っていた。
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