第6章 在りし日の暗黒騎士
第1話 暗黒騎士と就職活動
あの子は人の心がわからない、というのが、昔きついことを言って喧嘩別れした友人に叩かれた陰口で、どういうわけか心に引っかかって、ずっと気にしていた。年とともに、取り繕って人に優しくするのは上手くなっていった気がする。それで、なんだかんだ好きな相手と結婚して、好きな仕事に打ち込んで、まあ順風満帆にどうにかなると思っていたのだ。
別れたい、と青天の
夫には、生活時間帯が合わない、とか、家事の分担が、とか、思いやりがどう、とか、ずっと我慢して来た、とかいろいろと泣き言を言われた。もっと早く話せよ、と思っていたら、そういう態度がつらいんだよ、と悲しそうな顔をされた。
やっぱり、人の心とやら、よくわかっていないのかな。薄くそう思う。もっと早く気づいていたら、防げたかしら。防ぎたい程度には、この人のこと好きだったんだな。残念なことをした。半分他人事みたいにそう思い、寝て起きて……気がついたら、視界にひびが入っていた。
何事かと思った。一応まだ同じ部屋で寝ていた夫の姿が、あちこち赤くひび割れて見えたのだ。叩き起こしたが本人は不思議そうな顔をするだけで異常はないようだ。夫だけではない。周りの人間全てが同じだった。眼科に行ったら何も異常はないと言われ、精神科に回ったら、専門機関の受診を勧められた。SME……ストレス性変異脳症の。
そして診断と実験の結果、人の心の傷ついたところ弱ったところが、視覚的にはひびになって見えているのではないか、ということになった。漫画かよ、と笑いそうになったのを覚えている。
「言ってあたし、別にストレスとかないですよ。仕事は忙しいけど楽しいし、家庭はまあ、ちょっと失敗しましたけど……」
そう言うと、やはり大きなひびが首元に入った担当者は首を振った。七年ほど前、公共の
「そういう人がむしろ多いんですよ。限界になっていることに気づかないで、いつも通り過ごそうとするので」
そうだったろうか。そうだったかもしれない。残業とか、セクハラとか、陰口とか、出世の壁とか、家事とか子供を産む産まないとか会話が足りないこととか、全部、全部、全部。
「今までずっと、お疲れでしたね」
担当者は、静かに涙をこぼしたまゆみに対して、慣れた様子で優しく言ってくれた。
なんだ、結局あたしが一番わかってなかったのは、自分の心だったんじゃないのか、と思った。
その後しばらくして梧まゆみは姓を元の
戸叶まゆみは履歴書と目の前の青年を交互ににらみつける。
「触ったものを剣にできる……ちょっと変わった能力だよね。すごい戦闘向き」
はあ、と気の抜けた返事が返ってくる。備考欄には『精神作用あり』とあるから、物理的な効果と共に相手の認識に働きかける、そういう力なのかもしれない。本人はアピールが苦手なのか、詳細な話はまるで話してこない。
「ただ、普段からガンガンそういう仕事があるかというと、うーん、少し厳しいかもしれないね。ガチの警備とかそういう派遣とか、それこそ警察の特別編入とかって手もあったと思うんだけど、どうしてうちに応募したのかな」
『トカノ特殊業務社』は、戸叶が発症後のあれこれで離婚し辞職した後、一念発起して起業した小さな会社だ。社員数は彼女を入れて四人。近隣にあまり同業他社がないせいで依頼の量はそこそこ多く、少し手が回らなくなってきたため、人員を増やそうと求人を行なっていた。
その求人に応えてやって来たうちのひとりが、目の前の内気そうな青年だった。
「……あの、筆記苦手なので、警察は……」
もそもそと喋る。面接なら得意って感じでもなさそうだけどな、と思った。
「……あんまり、入れ替わりが大きい環境は、合わないんじゃないかと……担当の方に言われて、少人数のところを探しました」
「なるほどねえ」
目を細める。発症後の訓練と慣れで、ひび入りの視界をコントロールすることはできるようになった。よく見てみると、斉藤青年は身体全体に大きく深く、縦一本の赤いひびが入っている。少しつつけば、正中線で真っ二つに割れてしまいそうだ。
「そしたら、結果は明日までにお電話でお知らせしますから、少し待っててね。ありがとうございました」
「……あ……ありがとう、ございました」
力の入らない礼をして、斉藤一人は事務所を辞した。ふう、と肩を叩きながら応接室を出る。
「お疲れ様です。どうでした今の人」
外のドアが閉まったのを見てから、つなぎ姿の
「厳しめかな……反応が悪いんだよね。もうちょいシャキシャキした人がいいかなって」
「わかるー、なんか猫背だったし」
「僕はわりと嫌いじゃなかったですけどね。裏がなさそう」
コーヒーをすすりながら、顔の側面のひび割れが目立つ
「人柄は悪くなさそうだったね」
最年長の
「ふーん、意外に高評価?」
「ていうか、もうさくっと決めちゃいましょうよって感じですよ。結構見てますよね」
「やっぱりさあ、こう、人柄とか能力のバランス? その辺が大事と思うわけよ……」
考えがてら、ちょっと飲み物買ってくる、と戸叶は事務所を出た。雑居ビルの外は昼下がりの暖かな空気に、どこかうきうきとしている。
近くのコンビニまで行こうかと歩道を歩いていたら、途中のバス停にあまり似合わないスーツ姿の斉藤がまだ立っていた。
「……あ」
ぺこりと頭を下げる。いかにも就活用の黒い鞄を何やら大事そうに、身体の前に抱いていた。
「ああ、ここのバス結構遅れるんだよね。そのうち来ると思うよ」
「……はい」
やっぱりどうも張り合いがないんだよなあ、かわいそうだけど不採用かな、と背を向けて長い髪を風になびかせた、その時。
どん、と突然、戸叶は歩道に向け突き飛ばされた。
何?と硬い地面に転がりながら思った。スローモーションのように、飛びかかってくる人影がある。派手な柄シャツを着た男。不自然に長く伸びた右手にはナイフが握られており、ぐん、と宙を切ってまた縮んでいった。
あ、こいつ、どっかで見たわ。そう思った。少し前に仕事の行きがかり上、拘束して警察に引き渡したことのある男だ。傷害罪あたりに問われていたはずだが。
気づいた瞬間、目の前が塞がれた。斉藤が立ち塞がったのだ。多分、彼女を突き飛ばしたのも彼なのだろう。
「兄ちゃん、そこをどいてくれよ。後ろの女に用があるんだよ俺はよ」
あれか、お礼参りか、と頭を抱えたくなった。戸叶には直接戦闘をする能力はない。護身用にナイフを持っていないでもないが、あの男、見た通り腕を長く伸ばして攻撃をすることができるのだ。そんな相手に対してうまく立ち回れる自信はない。せめて人のいる事務所を襲撃してくれれば状況はましだったのだが。
斉藤を巻き込んでしまったな、と思う。上手く逃して誰か人を呼んでもらえないだろうか。
目を細めて、片目を閉じる。人の姿が朧げになって、代わりに赤いひび割れだけが浮かび上がった。この視界なら、斉藤の背中越しにも相手のひび割れが、そしてその動きが見える……と。
「
斉藤が突然、背筋を伸ばし、鞄から何かを取り出すと声を張った。なんだ?と思った。なんだか、言葉の意味が頭に入ってこない。何言ってるんだ、と怪訝な顔になる。思わず視界を元に戻すと、男も同じような反応だった。
「貴君も戦士の身とあらば、正々堂々勝負せよ。我が名は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。孤高にして高潔の騎士である!」
ちょっと待ってちょっと待って。シャキシャキは期待したけど、これは予想外だ。おまけに、なんだその構えた剣みたいなものは。ダンボール? ダンボールなの?
馬鹿にしてんのか、と男が唾を吐く。戸叶ははっとした。そうだ。彼の能力については先ほど聞いた。触れたものを剣にできる。ふざけた見た目でも、あれは今、立派な凶器になり得るのだ。
男の右腕が、ふたり目がけてぐい、と伸びた。斉藤は一歩前に踏み出て、ダンボール剣を振るう。ナイフと剣がかち合い、出るはずのない、きん、という金属音が響いた。ナイフがきらめきながら宙を舞う。
「我が暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーの力を見るが良い。不逞の輩よ、次は……」
「くそっ、覚えてろよ!」
長い口上の隙に、捨て台詞を吐き男は走り去っていく。追おうとした斉藤を、戸叶は立ち上がり止めた。
「いいよ、警察に知らせておくから。君がそこまですることない。ありがとうね」
「左様であるか。……」
顔色がさっと変わる。ダンボールの剣を鞄に突っ込み、斉藤は途端におろおろとした表情になった。
「……すみ、すみません。あの、忘れてください……今のは、その」
「……今、時間ある? そこのファミレスでなんか食べない? お礼におごるから」
思い立って声をかけてみる。顔に疑問符を浮かべながら、斉藤がうなずいた。よし、行こう。二次面接だ。戸叶が歩き出す。
あれだけのやり取りで斉藤を採用する気になったわけではない。ただ、純粋に気になったのだ。この大きなひび割れの入った青年が、何を背後に隠し持っているのか。
あと、暗黒騎士ってなんだ、とかそういうことを。
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