第5章 暗黒騎士、魔獣と跳梁す

第1話 暗黒騎士と動物愛護

 せっかく集めたゴミの袋が、裂けて中身が床に散乱した。もう知るか。知らない。外なんて知らない。


 涙が出そうになるのをこらえる。誰も自分を、ほめてくれない。


「……どうしたの? 何か音がしたけど」


 母さん、俺、今出たんだよ。掃除して、外に出ようとして、それで。でも。


「なんだか知らないけど、暴れるのは大概にしなさい。朝から迷惑でしょ」


 多分、母も疲れていたのだ。わかっている。だけど、それを飲み込むには彼は幼すぎ、そして、頭の中身がごちゃごちゃになりすぎていた。


 スリッパの音が遠ざかる。気がつくと、手元に飲みかけのペットボトルがあった。いつの間にか目覚めていた、彼の力。引き寄せの力。


 頭が真っ白になりながら、茶を口に入れ……気づいた。散乱した大量のゴミが、彼の足元にぞわぞわと集まってくる。


 瞬きをした。顔が引きつる。それはやがて大きな哄笑に変わり。


「……静かにしなさいって言ったでしょ」


 怒気を孕んだ母の声に、彼はゆっくりとドアを引き開けた。


 誰も自分を、ほめてくれない。



◆ ◆ ◆ ◆



 朝、出社すると猫がいた。


 会議用のテーブルの真ん中に、丸くもっふりとした毛玉がふくらんでいた。リーゼロッテは首を傾げる。よくよく見ると太いしっぽと伏せた耳が見つかったので、ああ、猫だ、と思った。キジトラで、まん丸いところはたぬきにも少し似ている。


「おはよう、リーゼちゃん」


「おはようございます」


 戸叶とかの社長が大きめの椅子に座って揺れている。


「この子は……?」


「昨日保護したの。飼い主の人が急な引越しで飼えなくなっちゃって、里親を探してほしいって案件。見つかるまでここに置いとこうと思うんだけど……」


 彼女は黒縁眼鏡を軽く押し上げる。


「猫、苦手だった? アレルギーとかある?」


「いえ」


 少し縮こまっていたのがばれたろうか、と慌てて首を振った。


「苦手ではないです……大丈夫です」


「ああ、無理はしないでいいからね。ドアから逃げると危ないし、応接室に入れといた方がいいのかな」


「あの、本当に平気なんです。むしろ好きで……」


 戸叶はお前重いな、と言いながら丸い猫を持ち上げた。猫は大人しくされるがままになっている。


「それなら、なんでそんな泣きそうな顔してるのよ」


 リーゼロッテはめちゃめちゃに首を横に振った。しばらく忘れていた感情が、ひたひたと下の方から心を、頭をひんやりとむしばみに来た。そんな気がしていた。




「じゃあ今日はね、『実務部隊』は清掃作業二件。『巡回部隊』は里親探しをメインにやってもらいます。葵川くんは事務作業」


「はーい」


「はい」


「了解です」


「承ったぞ」


 朝の指示を、リーゼロッテは厳粛な気持ちで聞く。あの後、決して猫は苦手ではないのだとアピールしたが、触れることは結局できなかった。巡回部隊……自分と暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードに猫の件が回ってきたのだから、それなりにわかってもらえたのだと思うが。


「当てはあるのよ。三丁目の滝沢さんが見たいって話だったから、まず連れて行ってあげて。押し付けはNG。無理そうだったらビラを作ったから、帰りにお店を回ってレジのところとかに貼らせてもらうこと」


「必ずやかの魔獣に相応しき終の住処を与えようぞ」


「なんで斉藤くんが言うと強そうな方向になるのかな……」


 まあいいや、よろしくね、とその場は収まった。


「リーゼロッテ?」


 解散後。社長に許可をもらい、両手で毛玉をわしわしと撫でていた暗黒騎士が、少し下を向いたままの彼女の顔をのぞき込む。


「いかがした。猫は……」


「好きです。あの、家でもずっと飼ってて」


 思わず過去の話をぽろりとこぼしてしまった。パソコンデスクに座っていた葵川が、椅子をキイ、と軋ませた。


「あれ、珍しいじゃない。そういう話するの」


「我が侍女との談話ぞ。部外の輩が口を出すでないわ」


「僕だってリーゼちゃんと話したいよー。ヴァルちゃん独占はずるくない?」


 やきもち妬きなんだから、と彼は笑った。


「どんな猫なの? 色とか品種とか名前とかさ」


「……あの。その子、もういなくて」


 あ、やべ。葵川は顔を歪める。暗黒騎士も少し表情を硬くした。


「死んでしまったんです。真っ黒で金色の目をした、かわいい子でした。名前はチロル」


 半年ほど前の話だ。もうさすがに泣くことはない……あの時だって、泣けなかったけど。


「ご、ごめんね。突っ込む話じゃなかったや……」


 いいえ、と首を振る。自分が悪いのだ。変に引っかかって、暗い空気を撒き散らして。


「さすれば、今はただ使命を追いて我ら旅立つ刻。道の果てに何やら見えるものもあろう。いざ、終焉の地へ!」


 暗黒騎士が少し早口でそんなことを言い、キャリーバッグを机の上に置く。のんびりした性格なのか、丸い猫はゆっくりと大人しく中に入っていった。


「征くぞ」


「……はい」


 重たいバッグを抱え、ふたりは逃げるように事務所を出ていった。外は薄曇りで、光の弱い朝だった。


「……かの者は、何も悪意をもってあのような戯言を口にしたわけではないのだ」


 葵川の話だろうと、すぐにわかった。


「気にしてません」


「ならば良いが」


 水色が透けて見える薄い雲を仰ぐ。透明の蝙蝠こうもりがもしや飛んではいないかと探したが、特にそんなことはなかった。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は、葵川さんのこと、どう思ってらっしゃるのですか」


「信用はならぬが、醜悪な行いを為す男でもない。かの者にはかの者の矜持があるのであろう」


 嫌いというわけではないのだろう。単に反りが合わないのかも。


「ただ……あのヴァルちゃん呼びはちょっと……なんか面白がられてるし……」


 あっあれ嫌だったんだ、と思った。思ったよりかわいらしい理由だったが、自分の名前を何より大切にする暗黒騎士のことだ。茶化されたくなかったのだろうと納得はいった。




「えっ、あの猫ってこんなに大きかったんですか……。電話では子猫だとばっかり思ってました。ごめんなさい」


 滝沢さんへの里親の依頼はあっけなく断られてしまった。仕方なくキャリーバッグを抱えて店巡りに向かう。


「なかなかうまくいきませんね」


「うむ。かの魔獣の牙の鋭さに恐れをなしたと見える」


 そういう話ではないと思う。


 リーゼロッテは、脇の小さな遊歩道を見た。灰色の小さなタイルが敷き詰められた上にはベンチが置いてあり、花の咲くツツジの木が植えられている。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様。少し休憩していきませんか」


 誘ってみると、暗黒騎士はこくりとうなずき、近くの自販機でジュースのボトルを買った。


「そなたは何が所望か」


「えっと、ではりんごジュースを」


 渡された缶は、とてもひんやりしていた。ありがとうございます、とお礼をして並んでベンチに腰掛ける。ふたりがけだが、真ん中には手すりがあって分断されている。


 キャリーバッグの中で、猫がもぞもぞと動く音がする。


「あんまりのんびりしていると、この子に悪いですね」


「……一度会社に戻って置いてきた方がいいかも……」


 『斉藤くん』がぼんやり答える。多分、猫が好きなのだろうなと思う。猫が好きで、子供が好きで、お年寄りが好きで、きっととても優しい人だ。


 だから、話をするのがためらわれた。


「……」


 ごくり、と清涼飲料を飲み込んで、隣の先輩はすぐに暗黒騎士に戻り、続ける。


「何事か変事でもあったか。事と次第によっては耳を傾けぬこともないぞ」


 冷たい缶を握りしめる。


「猫の話です。聞いていただきたくて」


「うむ。許す。語るが良い」


 どうしてこの相手に突然打ち明け話をしようと思ったのかは、よくわからない。社長あたりの方が適切なアドバイスをくれるような気がする。でも、話したかった。この人に聞いてもらいたかったのだ。


「私、言った通り猫を飼っていました。チロルっていう、元気な子でした。子猫の時から五年くらい一緒で、私が一番仲が良かったけど、みんなからかわいがられていました」


 寂しい時はスッと近寄ってきて、慰めるように頭をこすりつけてきた。愛らしい仕草を思い出すと、頭がくらくらする。信じられないくらいに温かな記憶だ。


「半年前のことです。チロルが外に脱走してしまって。慌てて追いかけました。……急ブレーキが聞こえて。家の前の道路で、チロルは車に撥ねられていました。撥ねた車は逃げてしまっていたけど、それはもうどうでも良くて」


 服が汚れるのも構わずに、ぐったりとした身体を抱き締めた。まだ息はあったが、時間の問題だということはすぐにわかった。嫌だ、と思った。


「その時です。私がストレス性変異脳症SMEを発症したのは」


 元々慢性的に精神が疲弊していたところ、事故がトリガーとなり急激に脳に負担がかかったのだろう、と言われた。


「私、チロルに無我夢中で手を伸ばしました。そして、気がついたら、あの子、息をしていなくて。私の腕の中でどんどん冷たくなっていきました」


 リーゼロッテの持つ治癒の力が初期暴走を起こしたのだと、そう判断された。治癒に必要な生命力を過剰に消費させてしまったのだと。直接傷つけるほどの威力はなくとも、弱った小さな身体には何よりの毒だったろう。正しく発現していれば、助けられたかもしれないのに。


「私が殺したんです。あの子を」


 彼女は両手で顔を覆った。涙は、出なかった。

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