暗黒騎士斉藤くんの業務レポート
佐々木匙
暗黒騎士斉藤くんの業務レポート
第1章 暗黒騎士、奔走す
第1話 暗黒騎士と採用面接
何もかもが噛み合わないと思っていた。逃げることしかできなかった。逃げることがもがくことと、そう信じるしかなかった。そうしてたどり着いた先の先で、『彼女』の物語は始まる。
◆ ◆ ◆ ◆
耳元で、炎が弾けた。
右耳がきんとなって聞こえなくなる。鼓膜は無事だろうかと思う。長い黒髪の先が焦げた臭いがした。
炎を飛ばしてきた相手が、ぐるりと首を巡らせる。人だけど、頭部が炎の中に包まれているように見えるし、目がおかしい。瞳孔が開いていて、こちらをはっきり見てはいないようだった。『彼女』は恐怖に唇をぎゅっと噛む。
春の晴れた朝。さっきまでのどかに日差しを受けていた駅前のバスターミナル付近は大騒ぎで、バスを待っていた人たちはみんな逃げて遠巻きにこちらをうかがっている。無様に転んで逃げ遅れたのは、『彼女』ひとりだった。白いスカートが汚れ、膝に軽く血がにじんでいる。遠くで誰かが悲鳴を上げた。
状況は、大体わかる。講習で習ったやつだ。すなわち、ストレス性変異脳症の突発発症とそこからの暴走。確か、爆発能力が発症するのは統計的に一番人数が多いのだとか。でもそんなデータは、実際の危機には役立たない。
突然、バス停に並んでいたスーツ姿の男性が苦しみだし、そして周囲に爆発を撒き散らし始めたのだ。怪我人はいないようだが、道の黄色のタイルが焼け焦げたり、砕けたり。
ぞっとした。初期の暴走時攻撃は弱い方だと習ったけれど、当たっていれば痛いでは済まされない。とにかく、逃げないと、と思った。起き上がろうとして、また、爆風。男性がゆっくり、『彼女』の方に近づいてくる。明らかに彼女を目的に狙っている。目に涙がにじみそうになった。なんで、なんでこんなことになるの。
私はただ、自由になりたかっただけなのに。
頭を抱えて、声にならない叫びを上げかけた。その時。
遠巻きに眺めている人垣から、ちょっと、やめておきなさい、危ないですよ、と誰かを止める声がした。それを振り切るように、すたすたと進み出る足音がひとつ。
「我が道を遮るか、下郎」
変に時代がかった口調。左の耳から引かれるようにして、『彼女』は振り返った。
カーキ色のパーカー。よれたジーンズ。中肉中背で黒髪の、目がぼんやり濁っている他はごく普通の若い男性だった。道で歩いていても、全く目を引きそうにない。だが、その青年が芝居のような大仰なセリフ回しで、暴走男性に対してただひとり語りかけているのだ。手には……手には、剣のようなもの。よく見ればそれは茶色いダンボール製だ。
「我が名は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。哀れなる者よ。速やかに逃げ帰るか……」
暗黒騎士……何? 騎士とナイトがかぶっているのはありなの? 『彼女』はあっけにとられた。漫画かよ、と誰かがぽつりと言った。
まずいのでは、と思った。こっちはこっちで、なんだか変な人が来てしまった。あまりのことに、周囲は完全に空気が冷え、しんと静まり返っている。
「我が暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーの露となれい!」
青年が、地面を蹴る。暴走男性はターゲットをそちらに変えたようで、大きく腕を伸ばした。花火のように赤い爆発がいくつもいくつも起き、『暗黒騎士』は熱された空気をかいくぐって腕を振りかぶる。ダンボール剣が振りかぶられる。
「『戦鬼猛攻・ラムザール=リグ=ゼネト』」
斬撃。
斬撃だ。スーツの胸と、ネクタイがざくりと裂けた。
漆黒の、翼のように広がるマントの幻が、一瞬だけ見えたような気がした。
男性はがくりと膝をつく。シャツに血が赤くにじむ。痛みを感じたためか、熱に浮かされていたような目がゆっくりと焦点を取り戻していった。
『彼女』は爆発の熱に当てられたように、その様をじっと見つめていた。もうマントはどこにも見えない。じわじわと右耳の聴覚が蘇る。青年の手に握られていたのは……やはり一本の剣の形をしたダンボール。折れてへろへろになったその『剣』で、彼は相手を斬ったのだ。それも、ただ戦意を奪う程度の力で。
ああ、この人もSME……ストレス性変異脳症の『
『暗黒騎士』は背のリュックサックからてきぱきと手錠だの猿轡だのを取り出し、男性を手際よく拘束した。慣れているのだろう。『彼女』がおっかなびっくり近づくと、振り返る。
「近寄るでない、娘。脅威はまだ去ってはおらぬぞ」
「ご、ごめんなさい」
周囲を見回す。逃げていた人たちが、ゆっくりと輪を狭めるように近づいてくる。街並みは、今日初めて訪れた日本の地方都市の駅前だし、人もごく当たり前の現代人だ。ただ、目の前の青年の口調だけがおかしい。
「あの、でも、顔。怪我が」
自分の顔を指す。『暗黒騎士』は初めて気がついたように表情をしかめた。炎のひとつが弾けたのか、軽い火傷の赤みが彼の頰に咲いていた。
拘束された男性が完全に動かないのを確認すると、彼女は青年の顔に手を伸ばした。少し荒れた肌に、触れるか触れないかのところでほのかな温もりを感じる。これで良し、と思った。
「今日中には治るはずです」
「癒しの力持つ者か」
え、と聞き返した。やはりこの人は、何を言っているのかよくわからない。
「我が傷を癒したのかと言っている」
「あ、はい。そんなに強くないので、治りが早くなるくらいですけど……」
「礼を言おう」
そっけない返答をすると、『暗黒騎士』はポケットから電話を取り出し通話を始める。暗黒騎士も携帯電話って持つんだ、と思った。
「……はい。九時二十分頃確保しました……。……トカノ特殊業務社の斉藤です。瑞野駅バスターミナル前。……はい。了解、です……」
あ、意外と普通に話してる、と変に感心する。完全におかしい人ではないらしい。斉藤と名乗った暗黒騎士は、さらにもう一本電話をかける。
「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードである。旅路の半ば、不遜の民に遭いこれを退治た。であれば半刻ほどの遅参を許されよ」
気弱そうな物言いはごく普通の青年、でも、急に背筋をしゃきっと伸ばして尊大な口調になる。『彼女』はよくわからなくなって、とりあえず自分の膝の怪我の治癒を進めた。近くの交番からだろう、制服の警官が走って来る。
青年は警官とまたなんとなく気弱な様子でしばらくやり取りをすると、くるりと背を向けバス停に戻る。『彼女』は少し
「あの——」
「それで、斉藤くんの話はわかったけどさ」
雑居ビルの二階。小さな事務所風の部屋で、彼女は身を硬くして立っていた。壁には『早め早めの受診と検査』と書かれたポスターが貼ってある。三十代半ばくらいだろうか、びしりとしたスーツ姿の似合う髪の長い女性が、椅子に腰かけたまま『彼女』の方を見た。
事務所の中には大きめのテーブルと、パソコンデスクがふたつほど。『彼女』は奥のデスク前に立っていて、他に人の姿はない。
「その子は何、お客さんなの?」
やっぱり唐突すぎだろうか。あの後一緒に連れて行ってくれるように頼んだら、『暗黒騎士』は押されるようにして承諾してくれたのだけれど。バスの中は無言続きで少し気まずかった。
「あの、私、こちらで働かせていただけないかと思って……」
意を決して進み出た。
「ええ?」
「私、『
女性は黒縁眼鏡を押し上げ、怪訝な顔になる。
「ずいぶん積極的な就活だね」
「あんまりやり方がわからなくて。でも外に求人の張り紙がありましたよね。アルバイトでいいんです」
ふむ、と女性は考える様子を見せた。このまま押し切れないだろうか。
「年齢は?」
「十八歳です。高校は卒業しました」
「名前は」
「り……」
言いかけて口をつぐんだ。あまり本名は知られたくないのだが。
「……うわ、訳あり? 参ったな。うち毎回こんなんばっかりだよ……」
椅子がぐるんぐるんと回転する。
「うーん、りなんとかさん。年齢はいいとして、名前は言いたくない」
こくりとうなずいた。
「能力は……」
「かの者は癒しの手を持つ。我が傷も既に塞がりつつある」
口を挟んだ暗黒騎士に、女性はふーん、と口を曲げる。治癒能力は多少弱くても需要があるんですよ、と担当者は教えてくれたっけ。
「それがほんとなら、わりとありがたいんだけどねー。斉藤くん無茶するしさ……訳あり、訳ありかあ……」
「行く当てがなくて、とにかく働きたいんです」
「うわ、絶対家出とかだよ。荷物大きいし。そうでしょ?」
当たりだ。『彼女』は悟られないようにそっと冷や汗をかく。
「猫の手も借りたいと先日言っていたように思うが」
「それはそうだけど、あのね斉藤くん。日本には法律とかあるわけよ。君みたいにポンコロ物を斬ってりゃいいってもんじゃないの」
「我が暗黒瘴気剣を愚弄するのであれば、いかな社長と言えども……」
ダンボール剣がリュックサックから抜き放たれる。先端がセロテープで補修されたその刀身には、『ドラグザルディムカイザー』とマジックで名前が書いてあった。DIY感が逆に微笑ましい。
「してないしてない。じゃあさ、ちょっと秘密で免許証見せてよ。書類には本名が必要でしょ。バラさないし、警察とかに知らせたりとかもしないからさ」
どうしよう、と思う。この相手が信用できる人なのかもわからない。とにかく勢いでここまで来てしまった。でも、来てしまったものは仕方がないのだ。『彼女』はこくりとうなずき、活動許可免許を取り出し、裏にして差し出す。
「お、丙種か。ふうん、なるほど」
丙種は能力を活かした最低限の職業的活動保証が行われる資格で、あまり売りとは言いづらい。家が許せばもっと上を目指したかったのだが。うーん、とうなり、目を細めてじろじろと『彼女を』見、しばらくした後、女性はよし、と手を叩いた。
「まあ、うちは訳ありばっかだしね。とりあえずアルバイトで、試用期間三ヶ月。それで様子を見よう。オッケー?」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げる。女性は少し笑った。
「あたしは社長の
「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードと暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーである」
「これはスルー推奨ね。他にも社員はいるんだけど、今出てるからおいおい紹介するわ。あと……本名が嫌ならなんか仮名つけといて」
仮名。なんだろう。『彼女』は首を傾げる。田中とか山田とか、ごく普通の名字が浮かぶ。でも、自分の名前という感じはあまりしなかった。
「リーゼロッテ」
妙に重々しい声で、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが言った。
「斉藤くん、今そういう話はしてない」
「リーゼロッテ・フェルメール。伯爵家の三女として生まれし身であり、家の没落に伴い平民に身をやつしていたがその高貴なる振る舞いは覆い隠すことはできず我が侍女として……」
「斉藤くん、現代日本には貴族制とかないから」
この子いつもこうなんだよね、と苦笑した戸叶に、『彼女』は首を振った。
「それでいいです」
「えっ、はっ? リーゼロッテ希望? 何それ?」
こくりとうなずく。突然ぱっと光が射したような気持ちだった。心臓がどきどきする。少し
これは、私の名前だ。
『彼女』は……リーゼロッテは、自分で言い出したくせに異様に驚いた顔の青年を見上げた。なんとなく、なんとなくだ。この人のごっこ遊びに付き合ってもいいかもしれない。そう思ったのだ。まずは、侍女らしく。
「よろしくお願いします。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
やけに長い名前を、噛まずに言えた。青年が目を瞬かせ、少しだけ笑う。うわ、なんか変なのが二乗になったかな……と戸叶が頭を抱えたのが、視界の端にちらりと見えた。
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