ある夏祭りの話/第6回 【祭】
「暑……」
おばけ鬼灯を磨く手の甲に汗がぽたりと落ちたのを見て、手を止めた。
ふと、視線を上げた先は青空と強い日の光とそれに照らされて建物が濃く黒い影を落としていて、コントラストの強さが眼球に突き刺さって、痛い。
普段は人通りの少ない、閑古鳥が常に鳴き喚いている店が並ぶ路地だというのに、今日に限っては賑やかだ。
「夏だなぁ……」
「さすが、夏祭り直前って感じよね」
麦茶を取ろうとした右手が空を切る。
横を見れば、目付きの悪い美人が俺の麦茶を躊躇いなく一気飲みしたところだった。
「人のお茶勝手に飲むなよ、
「ごめん、
一欠片も申し訳ないと思ってなさそうな顔でしゃあしゃあと言うと、彼女が隣に腰掛けた。いつものことである。
気にしていても仕方がないので、自分の作業に向き直る。一通り磨き終わった黄色い鬼灯に火を入れて、灯りとなる芯の部分も問題なさそうなのを確認して、一旦火を吹き消した。
夜になれば一帯の軒先に鬼灯が掲げられ、色とりどりの灯りが夜を鮮やかに色付けるのだ。
「あたしの分の鬼灯は?」
「あっちの棚に出しといたから勝手に持ってけ」
「はぁい」
気のない返事をして、照子はそのまま俺の手元をじっと見つめている。
「……どうしたよ」
「今磨いてる鬼灯は
「んー、話してなかったっけ?」
脇に置いていた青い鬼灯を手に取る。外の光をきらきらと反射するそれをそっと撫でて、乾いていた唇を無意識にぺろり、と舐める。
「まぁ別に、大した話じゃないけどさ、」
からころからころと、下駄の鳴る音が遠くに聞こえる。あれは気の早い誰かの鳴らす音なのか、あの頃の俺が鳴らしていた幻聴か。
「ガキの頃の話だよ。くっそ暑いのに浴衣着せられてぶーたれてたけど、祖父さんにかき氷買ってもらってすぐ機嫌直してた、ガキの頃の話だ」
屋台の向こう側から客引きする声、楽しそうに駆け回る子供たち、舞台に向かうにつれて高まるどんちゃん騒ぎ。夏の暑さと相まって、その熱気にくらくらと当てられながら、半分溶けたかき氷を啜っていた。
祖父さんに手を引かれつつ熱い人混みの中を抜けていくと時折、ひやりとした冷気とすれ違うのに気が付いた。俺のようにかき氷とか冷たいものを持っているわけでもない、何なら全員手ぶらだったくらいだ。……皆共通して、何かしらのお面を被っていたくらいか。
あのとき、俺は果たして何て聞いたんだったっけか。「何であの人たちはひんやりしてんの?」とか、わりと馬鹿みたいに直球で聞いたような気がする。
関わっちゃいけねぇよ。
答えになってない答えを返す祖父さんをじっと見上げていたら、根負けしたように祖父さんは深く深く溜め息を吐いて、俺の頭を撫でながら今度はきちんと俺の目を見ていった。
あいつらはな、死んでンだよ。この夏祭りは死んだ奴らが大手を振って帰ってこられるタイミングだが、あいつらは誰にも迎えてもらえずに彷徨い歩く、哀れな奴らだよ。
からりとした声音でさらりと言った祖父さんの表情だけは、どうしても見えなかった。
その祖父さんの声が聞こえたのか、冷気をまとった狐面の女が、ゆらりと振り向いて目が合った気がした。
……可哀想だとは、思えなかった。
いつか俺が迎える未来の形に、一番近い者たちだと思ったから。
「……で、そのどこの誰かも分からない女のために、鬼灯を掲げてやるんだ? お優しいですねぇ星海さん」
「他人とは思えなかったんでね」
照子に入れ直させた麦茶の水面をじっと見つめる。祖父さんと瓜二つの顔を見ていたら、遠くから太鼓の音が聞こえ始める。本格的に夏祭りが始まったらしい。
「こんな人通りの少ない店の軒先に掲げてて、その狐面の女は気付くの?」
「さぁ? こんなもんただの自己満足だろ。喪われた人に帰ってきて欲しいと思うのは、生きてる連中のエゴだよ」
「それ言われると辛いんだけど……」
深い深い藍色をした鬼灯を磨く照子が苦笑を漏らす。
「あぁ、でも、あんたの鬼灯はあたしが掲げてあげるから、安心して死んでいいよ」
「何だろう、優しいことを言われたはずなのにすごく傷付く!」
照子が笑う。俺もつられて笑う。
あの日見た狐面の女は、今も独り、この祭り囃子の中を彷徨い歩いているのだろうか。
願わくば、ここに掲げられた鬼灯に気が付いて欲しいと、ぼんやり思いながら麦茶を飲み干した。
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