戻れる物・戻らぬ者・6
春の気持ちのよい日だ。
霊山はこれから一年で一番いい季節を迎える。
木々に緑があふれ、川の水は雪融けで増水する。だが、川原の沼地には待っていたかのように青々と水草が生い茂る。夏には見事な青い花をつけ、瑠璃色の薬湯の元となる。
風渡る草原にはタウリ草が葉を伸ばし、癒しの巫女達が足を伸ばして採取に来るだろう。そしてそろそろ、気の早い薬効石採取の人々の一派が、採石願いに霊山を訪ねるだろう。
今は、光から身を隠すようにして、もっとも貴重な竜花香も芽を出す頃なのだ。
色とりどりの花と薬効の高い植物――霊山は、もっとも忙しく活気ある季節を迎える。
それを予感させる素晴らしい天気だ。
だが、祈り所から出てきたばかりのエリザには、今日は少し日差しが強暴だ。
フィニエルは薄いレースのカーテンを引いた。
小さな巫女姫の部屋だ。しかし、祈り所に比べれば天国だろう。
エリザは、ベッドにその弱った体を横たえている。
「フィニエル……。また、あなたに会えてうれしい……」
弱々しくエリザが言った。
真新しい寝具は、祈り所のかび臭い物と比べれば、心地いいはずだ。
「私もですわ。エリザ様。ですが、今はお休みになってください」
「それよりも、フィニエル。私、大丈夫だったかしら?」
消え入りそうな声だ。
今日のエリザの体調は最悪である。
ここしばらく、眠ることも食べることもできず、エリザは調子を崩していた。
祈り所の管理人も、蜜の村の神官も、儀式は取りやめて休むべきだと進言した。
だが、かつてエリザはこの『初見の儀式』を体調不良で流しているのだ。ここで再び流してしまっては、巫女姫としての責務を全うしようとして堪えてきた自分が無になってしまう。
もう、至らぬ巫女とは言われたくはない。
久しぶりに浴びた光は、エリザの体力をますます奪った。元々衰えてしまった筋力は、エリザの体を支えられなかった。
「エリザ様は、立派にこなしておりました。問題は、サリサ様のほうです」
フィニエルははっきりと言った。
祈り所から出てきたばかりの巫女が、光に体が馴染まずに体調を崩すことはよくあった。サリサもそのような場面を、マサ・メル時代に何度か見ているはずなのに。
それなのに、人前で光避けのヴェールまで剥ぎ取るとは、言語道断である。
エリザがこんなにがんばっているのに、最高神官のあの態度はいったい何なのだ、といいたい。
が……。
「私、あの方の目が怖くて……見ることができませんでした。きっと、至らぬ巫女と思われたことでしょうね」
フィニエルは、驚いてエリザのほうを見たが、彼女は布団に包まって顔を伏せたままだった。
「……最高神官が? ですか? エリザ様を? そんなはずは……」
「私、あの人が怖いです」
フィニエルは、その言葉を疑った。
「なぜ、怖いのです? あの方のことは……」
「どうしてあのような目で私を見るの? 何だか責められているようで……」
……明らかに、何かがかみ合っていない。
昼の行も真面目にこなして、サリサは巫女姫の母屋を訪ねた。
かつては、このような行為は許されてはいなかったが、今は黙認されている。サラがうっかり手を切ってしまったときも、最高神官がお見舞いした前例があるのだ。
だから、サリサが渡り廊下を仕え人を引き連れてばたばたと歩いていても、誰も文句はいわない。逆に、すれ違った薬草の仕え人が思わず微笑みを漏らしたぐらいだった。
リュシュは、焼き菓子とサリサが摘んできた花を籠に入れて、サリサの後をついて歩く。ムテ人としては背が高くない彼女は、サリサの足の早さにはなかなか付いていけず、時々小走りになっていた。
エリザが心配でたまらないサリサは、びっくりするほど早歩きだったのだ。
だが、巫女姫の部屋の手前で、その足は止まった。まだ、最高神官の仕え人として慣れていないリュシュが、こつんとサリサの背にぶつかった。
「サリサ様、申し訳ございませんが、エリザ様にはお会いできません」
フィニエルの言葉に、サリサは眉をひそめた。
「それほど、悪いのですか?」
状況を知らない者ならば、そう思っても仕方があるまい。フィニエルは、言いにくそうに否定した。
「いいえ、明日から仕事ができますでしょう。医師の者の話では、問題はございません。ただ、今はゆっくりと休ませてあげて欲しいのです」
まさか、エリザ本人が会いたくないと言っているなんて、本当のことは言えない。
お見舞いを受けるなんて恐れ多い、巫女姫として惨めな姿をこれ以上さらしたくはない、しっかりしているところを見ていただきたい、これ以上見透かされてしまったら、やっていく自信がない……などと、数々の理由をあげつらい、エリザは最後に一言こういったのだ。
「絶対に会いたくないんです」
それだけ恐怖に打ち震えられてしまっては、フィニエルとしてはとりあえず、サリサを追い返すしかない。
いったい、何があったのかはわからない。だが、明らかなのは、今のエリザは、身も心も、あの日霊山を下っていった時の続きではない。
愛を確信しあった二人の続きでは……。
物事の深刻さをさほど気がついていないサリサは、意外と聞き分けよく引き下がった。
エリザの苦しそうな顔を見ているのだ。無理をさせたくないと思うのが当然である。
「医師がそういうのならば……安心しました。花とお菓子だけは置いていかせてください」
リュシュが差し出す籠を、フィニエルは受けとた。
「お渡ししておきますわ」
「明日は祈りの後、一緒に食事をとりましょうと、そう伝えてください」
サリサのその言葉に、フィニエルは答えるかわりに敬意を示してお辞儀をしただけだった。
籠には、白い花、そしてリュシュの焼いたお菓子。さらに、香り苔が敷き詰められている。
安らかな香りに、フィニエルは深呼吸した。
お菓子と香り苔は、きっと前もって用意していたものだろう。サリサは、リュシュとたくらんで色々エリザのために用意していたに違いない。
心落ち着く……。
フィニエルが戻ると、エリザはベッドの中で体を起こしていた。
朝のひどい状態は脱していた。やつれて面変わりしてしまったのは事実だが、心病などの狂気があるものではなく、エリザなりに祈り所の生活を乗り越えてきたのだということがわかる。
「ごめんなさい。戻ってきて早々にわがままを言って……」
「お見舞いの品だけは受け取りました」
エリザの顔に笑顔が戻った。
「あぁ、なんだかいい香りがすると思ったら……うれしいわ」
白い花に顔を近づける様子を見て、フィニエルはほっとした。やはり、エリザはエリザである。
この白い花は、清めの効果などがあるとされているが、匂いも薬効も強くはない。この香りの正体を、エリザは知っているはずだ。
「花ではありませんわ。香りは下の香り苔からです。エリザ様もよく覚えていますでしょう? サリサ様が袋に詰めてくださって……」
その香り袋は、今、フィニエルの手にあった。だが、エリザのほうは、花を籠の中に戻し、怪訝そうな顔をしている。
「誰?」
「はい? 何がです?」
「誰ですか? その人……」
またもや空気がかみ合わなくなる。フィニエルは、薄ら寒くなった。
「誰って……サリサ様のことですか?」
「サリサ様?」
とぼけている様子はない。エリザは忘れているのだ。きょとんとした大きな目で、フィニエルを見つめていた。
「最高神官サリサ・メル様です」
そういうと、エリザは「あっ」と小さな声を漏らして、真っ赤になってしまった。
「あぁ、私ったら! 失礼なことを聞いてしまって! そうでしたわね?」
エリザはすっかり焦っている。
完全に忘れているわけではないのだ。でも、忘れたふりをしているわけでもない。
どうやら、二人が愛し合っていた……という事実を示す事柄を、時々すぽっと忘れてしまうらしい。
フィニエルは、サリサの提案を伝えてみた。案の定、エリザの答えはこうだった。
「最高神官のような尊いお方と、私のようにいたらない者が一緒に食事なんて……考えられません」
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