戻れる物・戻らぬ者・5
『初見の儀式』は、実に短い時間の儀式ではあるが、そのわりに大掛かりである。
霊山側では、最高神官をはじめ、仕え人一同が迎えることになっている。霊山でこの儀式に出ないのは、出産したばかりのサラぐらいであろう。しかし、彼女は無理を押して、これからの敵の顔を拝むつもりだ。
巫女姫の輿はふもとの村の若者が担ぐことになっているが、巫女に付き添うのは出身地の神官である。蜜の村の神官トラン・タンは、いそいそとエリザを迎えに来た。
シェールをくどき落とせそうな手ごたえを感じ始めた彼は、嘆願に答えなかったエリザに内心感謝している。この儀式のために聖装用の衣装を新調して、うきうき気分で祈り所を訪れた。
トランは、故郷の祈り所と比べて壮大な建物を珍しく眺めまくった。一度ここを訪れたとはいえ、その時は緊張していて、儀式の壮大さに飲まれてしまい、建物はよく覚えていなかったのである。
普段は祈る人々が持つ灯りだけがこの場所を照らすのだが、遠路の客人のために、柱ごとに蝋燭が掲げられていた。
石作りの冷たい空間である。薄暗い闇の中でかなり待たされた。
ぽっかり開きがちな口を時々意識して閉めながら、トランは祈り所の中で、エリザを待った。
やっと人影が現れたとき、彼はほっとして立ち上がった。
だが……。笑顔は途中で途切れてしまった。
「え? エリザ……なのか?」
この場に似合わない声が、祈り所に響いてしまった。
蜜の村の神官が覚えているエリザは、あどけないかわいい少女だったのだから。
神官トラン・タンが、この時真っ先に思ったことは……。
――エオルには、この姿を見せられない……ということだった。
霊山のほうでも、儀式の準備は調っていた。あとは、巫女姫の到着を待つだけである。
エリザが去った雪の日とは正反対の、春の日差しが優しい気持ちのいい朝である。
心躍るのをサリサは押さえ込んでいた。
無理を押して、サラもこの儀式の末席についている。マヤの例もあるから、はしゃいでみせたりして、変な誤解をさせてはいけない。
語りたいことはたくさんあるが、儀式は形式どおり行うつもりだった。
巫女姫が輿を降りて挨拶し、
「お初にお目にかかれて光栄です」
と、白々しい内容の言葉を告げるのだ。
すると、最高神官はこう答える。
「以後よろしくお願いします」
たったそれだけなのだ。
マサ・メルの時代であれば、その後巫女姫に会うのは夜だけである。
朝夕の祈りの時には、姿を遠くに見ることができるかもしれない。
だが、霊山は変わった。
最高神官と巫女姫は、祈りの後、一緒に食事をとることになる。空いた時間は待ち合わせして、何処にでもいけるのだ。
たとえば……。
マリとともに行った草原にもいけるし、苔の洞窟でも、マール・ヴェールの祠にでも。
いや、それだけではない。子供時代から霊山を知っているサリサには、まだまだ取って置きの場所がある。
エリザをそこに連れて行って……驚かせてあげたい。あの、大きな瞳を見開いて、驚く様子が見たいのだ。
そこまで考えて、サリサは気を引き締めた。
すべては、儀式が終わったあとのことである。
やがて輿が見えてきた。
付き添う人の中に、見覚えのある神官がいる。彼は、緊張しているのか、壮絶な顔をしていた。
サリサは、彼の引きつった顔を見て、思わずおかしくなった。
暗示で黙らせる必要があるかもしれない。サリサが蜜の村を訪ねたのは、たったの一年前である。いくら何でも、サリサの顔を彼は覚えているだろう。とんでもない反応を示すかもしれない。
輿が所定の位置に下ろされる。
まずは、巫女姫出身地の神官が、最高神官に敬意を示すのだ。
案の定、神官トランは敬意を示して顔を上げたとたん、「うっ!」と声を漏らして固まってしまった。
サリサは微笑をもって、彼の敬意にこたえた。
暗示の必要はなかった。彼はそのまま硬直してしまったのだから。
最高神官の使者としてきた若者が、最高神官その人だと知った驚きはかなりのものであろう。
なぜサリサがそこまでして蜜の村を訪ねたのかは、きっと彼には計り知れないと思う。頭は混乱していることだろう。
しかし、どういうわけか蜜の村の神官の顔は、驚きを通り越して動揺の域に達している。いや、それとも悲嘆?
サリサが不思議そうな顔をした時、儀式の形式どおり、輿の入り口を塞いでいた布を神官が上げた。
そこから、巫女姫が降りてくるはずだった。
が、降りてはこなかった。
蜜の村の神官は、輿の中に手を差し伸べる。
すると、その手を弱々しく握る痩せこけた手が現れた。白い巫女姫の衣装のレースが、骨ばった手を余計に際立たせた。
よろよろと、まるで老いたる人になったような女性が、ゆっくりと輿の奥から姿を現す。
祈り所に篭っていた者にとって、この晴天はきつすぎるのだろう、まるで花嫁のような白いヴェールで顔を隠している。地面に足を着いたとたん、よろけて彼女は神官の腕の中に体を預けた。
エリザは、自分ひとりの力では、輿を降りることができなかったのだ。
小茶豆でのお茶会や、芋の皮剥き――
舞米を炊くのも上手なエリザ。
それはすべて嘘だったのだろうか?
それとも、この人は別人なのだろうか?
サリサは、今、目の前にあることが信じられず、呆然としていた。
エリザは、元々細身だった。だが、この人ほど痩せこけてはいない。エリザよりも一回り小さく感じる。
それに、ヴェールで顔を見せていない。この人がエリザであるはずがない。
そう思い始めたサリサの前で、彼女は蜜の神官の手を離れた。神官は、まるで積み木が崩れないかと心配するような手つきで、彼女を放した。
巫女姫らしい挨拶をしようと腰をかがめた瞬間に、彼女の体は大きく揺らいだ。
蜜の村の神官が慌てて支える前に、サリサのほうが飛び出していた。
抱き支えたその体は、サリサが知っているものではない。あまりにも骨ばっていて、たよりがなかった。強く抱いたら折れそうだ。
柔らかで……触れたら思わずぎゅっと抱きしめたくなる、あのエリザとは違った。
だが、ヴェール越しにうつむく顔は……。
「エリザ?」
確かにエリザだった。
あたりは静かだった。
形式を重んじる……とはいえ、霊山の者たちは賛否はあれど、最高神官がエリザを大切にしてきた日々を知っている。
だから、あまりに変わり果てた彼女の姿に、サリサが動揺しても見て見ぬふりを決めていたのだ。
だが、元巫女姫のサラだけは、不審そうな顔で成り行きを見ていた。
「お初にお目にかかれて……」
エリザは声を絞り出した。が、そこで途切れてしまった。
サリサが、ヴェールをとったからだ。
もう我慢がならなかった。
エリザの顔を、大きな瞳を見たかった。だが、サリサが見たものは、ヴェールの下に隠れていたこけ落ちた頬と、目の下にできた隈。慌てて伏せられて見せようとしない目である。
「……光栄です」
さらにうつむいて、震える声でエリザは言った。その声も間違いなくエリザなのだ。
「そんな……」
サリサは言葉に詰まりながらも、情けない声を出すと、そっとエリザの頬に手を伸ばした。かつてはふっくらしていて、愛らしかった頬に……。
いきなり、側で控えていたフィニエルが、サリサの手からヴェールを奪い取り、エリザに掛けた。
「お言葉を!」
サリサははっとした。
エリザの頬に触れるはずの手は、宙で留まった。
儀式は滞りなく、形式どおりに済ませなければならない。すべてはその後なのだ。
だが、この事態は。
「よろしくお願いいたします」
余りにも儀礼的に、とりあえず言葉が出た。
その言葉が発せられたと同時に、フィニエルはエリザを抱きかかえて、定位置まで引いた。
それは、まさに儀式の進行どおりだった。この挨拶を機に、神官から仕え人の手に、巫女姫は渡るのだから。
そして、一同礼をして、もう儀式はおしまいとなった。
あまりにそっけなく、物事はバタバタと終了した。
サリサが、まだ衝撃から立ち直れないでいる間に、フィニエルは巫女姫を母屋まで運び去っていた。
蜜の村の神官も、輿を運んできた若者たちも、ぺこりと頭を下げて帰ってゆく。
サラの仕え人となった元・唱和の者が、憎々しげな顔をしているサラを引っ張って行った。
「い、いい儀式でしたね」
今は最高神官の仕え人となっている菓子名人のリュシュが、余りにもわざとらしいお世辞を言った。
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