戻れる物・戻らぬ者・4


 祈り所にいるエリザに変化が起きたのは、祈り所の外に春の兆しが見え始めたころである。

 まずは……月病の予兆が訪れた。

 これは、当たり前のことであろう。だが、問題はそれからである。

 くじけそうなときは兄の手紙を読み返したりして、自分の決意の程を確認してきたエリザだったが、ぼうっとすることが多くなった。

 色々なことが思い出せないのだ。

「そろそろ霊山に戻るんですねぇ……」

 などと管理人に言われても、

「え? 何?」

 などと、とんちんかんな答えをしてしまう。

 しばらく考えて、ああそうだった……と思い出す有様なのである。

 ひょこひょこ歩く管理人が、サリサ様に会えるんだねぇ……などと話しかけると、

「え? 誰?」

 と、聞き返してしまう。

 なんと、エリザは最高神官の名前を忘れていた。

 あまりに『忘れなきゃ』と思い込みすぎたので、暗示がかかってしまったのだ。

 その日が近づいてきて、暗示が強く働くようになってしまい、どうもおかしくなっている。

 霊山に戻って、サリサに会うようになったら……きっとまた、おかしな妄想を抱くかもしれない……などと不安におののく気持ちが、知らず知らずのうちに働いてしまうのだ。

「はぁ、エリザさん、しっかりなさいなぁ~」

 時にこういう例を見ている管理人は、それは暗示ですよ……と、教えてくれる。

 そのたびにエリザは自分を取り戻すのだが、繰り返されるうちに自分の中で定着してしまうものもあった。

 エリザは、サリサが尊敬する最高神官であることを思い出した。が、霊山で過ごした多くの思い出を、妄想の名の下に忘れ去っていた。


 まさに、継ぎ接ぎだらけの記憶になってしまったのである。


 ぼうっとするのが直ったと思ったら、今度はよくわからない不安で眠れない日々が続いた。

 子供を産まなくちゃいけないのに……あるべき夜が怖いのだ。

 確かに、巫女姫になったばかりの時、初めての夜が怖かった。でも、今はもっと違う恐怖である。

 きっと受け入れたら、自分は死んでしまうだろう……という、わけのわからない恐怖なのだ。

 どんどん心の底に毒を注がれていくような気分。

「どうしちゃったんだろう? 私」

 想像しただけで、心臓が止まりそうになってしまう。

 エリザは、霊山に帰ることが怖くなってきた。

 

 祈り所の最後の数日は、食欲もなくなっていた。ついに寝込んでしまう。

 ひたすら、兄の手紙を読む。

 そうすると、故郷に帰れる日を想像できて、気分が保つことができた。


 使命さえ果たせたら、子供さえできたら……。

 また、あの光の中に帰ることができる。


 エリザは、生まれ変わる自分の姿を想像した。

 故郷で『癒しの巫女』として、父を介護している姿である。

 そのためには、あるべき夜など怖がってなどいられない。

 死にそうな感覚になるならば、その間、死んでいればいい。そうすれば怖くはない。

 心を失ってもいい……とすら思う。

 そう、一瞬を我慢すればいいのだ。

 

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