青の手紙・2
蜜の村から嘆願書が届いたとき、フィニエルはすぐに「怪しい」と思った。
だが、彼女は最高神官がマール・ヴェールの祠で何をしていても気にしないことに決めていたので、祈り所の文書係りほど悩みもしなかった。
「では、最高神官にお見せしておきます」
と言った。
が、おそらく、見せなくても内容はわかっているのだろう。
案外と、下書きを自らした……などということもありえそうだ。
最高神官のマール・ヴェールの祠での行が終わった後、霊山にも春の足音が聞こえていた。
しかし、最高神官の態度は冬のままである。相変わらずの『マサ・メル』状態を保っていた。
いや、さらに厳しくなり、フィニエルにも心のうちを明かしてはくれない。日々、会話なく過ごしている。
後ほど、嘆願書の内容を知って、さすがのフィニエルも唸った。
エリザの父親の状態を自ら確かめに行ったのだろう……程度の予測はたっていた。だが、まさか、このような決断をしていたとは。
サリサは、あと一年の辛抱を諦めて、エリザを故郷に帰すことを選んだ。
「大人になられた……ということでしょうかね」
と、呟いてみたものの、少し寂しく思う。
フィニエルは、最近自分の寿命の限界を感じ始めている。
最後にもう一度、エリザと過ごしたかった。エリザとサリサの仲のよい様子を見て散りたかった。
村人全員の名を連ねて、帰ってきて欲しいと願っていると知れば、エリザは喜んで故郷に帰るに違いない。
今日あたり、明日あたり、エリザから直々に手紙が届くだろう。
その文字は、久しぶりにエリザを感じさせるものではあるが、サリサを喜ばせるものではなく、絶望させるもののはず。
『慈悲にあふれた判断をありがたく思います』くらいのことが書かれてくるのであろう。つまり、暇告げの手紙である。
最高神官である彼は、真綿で絞められているかのように、毎日その手紙を待っている。
巫女姫選びの儀が、三の村の祈り所で行われた。
今回選ばれた者は、マヤという少女だった。付き添いの者の話では、少し雰囲気がエリザに似ているということだが、その能力はたいしたものらしい。
サリサは、自分の好みなどで、もう巫女姫を選ばない。完全に冷静にその資質のみを判断基準にしている。
心なしか大人びてきたこの頃は、ますますマサ・メルに似てきている。
彼は、もう二度と巫女姫に恋をしないだろう。
巫女姫サラは、最近ミキアが作らせた小屋に引っ越した。
巫女姫の母屋と最高神官の住居の間に、どんと建っている小屋である。
サラが過ごしていた巫女姫の母屋は、新しい巫女姫マヤのために整えられ、サラが使っていたものは容赦なく捨てられた。
彼女はキリキリと、その様子を苦しげに見送った。
巫女姫として大切に扱われるのは、現巫女姫だけだ。身重になった者、子育て中の者は、本来は影に隠れた生活であり、大事にされるのは子供だけである。
最高神官と仲良く過ごしたシェールや、子供とピクニックに行っていたミキアなどの例は、極めて異例なのだ。
サラは、悪阻で具合が悪い。しかも、妊娠が知れてから一度も最高神官と会えないので、苦しんでいる。
避けられていると思っているのだろう。サラには最高神官の態度が堪えられない。
霊山の今までを知っている者ならば、それが当たり前だと思うはず。だが、ミキアやシェールの例を見せつけられているサラにとって、サリサの態度は当たり前ではなかった。最高神官が全く自分に関心を示さないのは、非常に許しがたいことだった。
元々嫉妬心が強く、ムテとは思えない性格のきつさを持ち合わせているサラである。自分だけが辛く当たられていると考えてしまっても、やむをえないのかもしれない。
この春、霊山に上がるマヤは苦労するかもしれない。
サラは、仕え人となった唱和の者にさえあたり散らす毎日で、あれほど仲がよかった二人であるが、今は冷え切っている。
翌年、エリザが巫女姫として復帰したとしたら、サラと半年一緒に過ごすことになる。
となれば、壮絶になったかもしれない。
その点からしても、サリサの選択は正しかったかもしれない。
と……思いつつ、フィニエルはエリザの残した香り袋を捨てられないでいる。
エリザの元に嘆願書が届いたのは、打ち震えないでも眠れるほどになってきた頃である。
相変わらず暗いので、季節の変化はわからない。が、明らかに春になったのだろう。
部屋で読書をしているときに、管理人の一人がそれを持ち込んだ。
「エリザ様、これは前代未聞のことでございますが……」
そういわれて渡された物は、懐かしい故郷の神官の封のあとがあった。
「故郷の村から、エリザ様に帰還してもらいたいという嘆願書が届いたのです」
エリザは慌てて本を閉じると、むさぼるようにして手紙を広げた。
――夢みたいだわ!
うれしくて涙が出てきた。
これが許されると、村に帰れるかもしれない。
次から次へと、知っている名前が、そして筆記が連なっている。誰も彼もが懐かしい。
幼い何も知らなかった少女に戻って、エリザは故郷を夢見た。そこには、常に木々や花々の香りが満ちていて、裕福とはいいがたいけれど満ち足りたところだった。
お転婆というほどではなかったエリザだが、木登りだってできたのだ。大きな蜂の巣を見つけて蜂たちに追いかけられて泣いたことも、今となっては恐怖の思い出というよりは懐かしい。
闇に閉ざされていた日々に、すこしずつ光が戻ってくるよう……。
しばらくの空白の後、最後に『エオル』の名を見つけ、ついにエリザは言葉を漏らした。
「お兄さん……」
懐かしい字を、何度も指でなぞった。
兄は、本当に綺麗な字を書く。優しくて、賢くて……自慢の兄だった。
一体どうしているのだろう? 会いたい。一刻でも早く帰って、顔を見たい。
が……エリザは、父の名がないことに気がついた。
村の男の人の名は、知らない人も含めて全部ある。しかし、父だけがない。エリザは不安になった。
祈り所には、霊山以上に情報が届かない。父も高齢だった。もしかしたら、父はもうメル・ロイとなって旅立ってしまったのかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
今すぐ飛んで帰りたいわ! そう心の底で叫んだ。
「もう最高神官の許可も下りているとのことです。エリザ様が望まれるならば、明日にでもここから出られますよ」
「え? 明日?」
エリザは心が躍った。心臓がドキドキする。緊張ともいえた。
「あとは、一筆、最高神官宛にお暇を告げる旨をしたためればいいだけですから。……大丈夫ですか?」
「ええ、すぐにでも書きますわ」
エリザの返事に、管理人は怪訝な顔をした。
「いいえ、そうではなく……。体調はいいのですか? お顔が真っ青ですよ」
大丈夫……と言おうとして、エリザの意識は飛んでしまった。
目の前が激しく回転して、ちらちらと窓や管理人の黒い服や天井が見えた。
最後に、きらりと……銀色の光が見えたが、それはエリザの目が回っていたからである。
なぜ?
こんなにうれしいはずなのに。
うれしくてドキドキしているはずなのに。
どうして、ぽっかり胸に穴があいたような気分になるんだろう?
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