誘惑は蜜の味・14


 サリサが目を覚ましたとき、そこはシェールの家だった。たくさんの湯たんぽに温められていて、半日で回復できたらしい。

「サリーちゃん、気分はどう?」

「最悪……」

 その名前を呼ばれる限り、絶対に気分がよくなりそうにない。

 シェールは、真顔でサリサのほうに歩み寄ってきた。すっと差しだしたのは、気力・体力回復のための薬酒である。

「さらに気分を悪くしなくちゃいけないからね。昨日の話し合いで、エリザの嘆願書が出来上がってね。後は、エオルが署名すれば完成なの」

 昨夜の事件で、エオルは集会に最後までいなかった。だから、嘆願書に署名はできなかったのである。


 ついに、後戻りできないところまで来てしまったのだ。


「今、神官がエオルの家に行って、署名をもらっているところだと思う」

 サリサはよろよろと起き上がった。

「本当の本当にいいの?」

「本当の本当に、いいんです!」

 自分で考えたこととはいえ、悲しくてたまらない。

 もう、ここにはいたくはない。

 さっさと霊山に篭り、祠の一番奥まで行って、水晶台で眠りたい。

 三日間は起きていたくはない。眠りたい。

 いや、その前に、マール・ヴェールの祠で思いっきり大声をあげて泣きたい。

 もう二度と、エリザは戻ってこないのだ。


「では、帰ります」

「え? もう?」

 驚いた声を上げたのは、マリだった。彼女にとっては、サリサが何かやり遂げたようには見えなかったからだ。

「目的が達せられたのですから、あとは帰るだけです。エオルの家によって、嘆願書を受け取り、そのままの足で帰ります」

「えー! 今日のお昼は蜂蜜パンと蜂の唐揚げ・豆スープなのにぃ?」

 マリの言葉は無視だ。



 エオルの家の前で、サリサはため息をついた。

 ここにはじめて来た時、エリザの兄がどうしようもない男で、エリザを帰すわけにはいかない……と、思いたかった。父親が救いようがなくて、エリザを不幸にするわけにはいかない……と思いたかった。

 そうであれば、サリサはエリザを手放さないという甘い選択に理由を与えることができたのだ。

 だが、ヴィラとエオル、エリザががんばれば、きっと父親はよくなるに違いない。

 エリザの父は心病だが、元々が悪い人ではない。ファヴィルと心を合わせたサリサは、それを知ってしまった。

 おそらく……エリザの存在が彼には必要なのだ。

 村の人たちも、そう思っている。

 だから、エリザの帰還に、結局は望みを託すこととなり、誰もが嘆願書に署名したのだった。


 すべては……初めに考えたまま、筋書き通りだ。


「ただし、エリザが帰ってくるまでは、シェール様を呼び戻さないで欲しい……っていうのが、第一項目なのです」

 にこにことトランが説明する。彼だけは、エリザに帰ってきて欲しくないらしい。まさか、最高神官がこのような直訴を受けるなどと信じていない彼は、この嘆願によってシェールがこの地に留まってくれると思っている。

 あとは、大筋サリサの思っていた内容になっていた。

 エオルがなかなか署名をせずに引き止めるので、お昼を食べてからの出発となる。マリは、ヴィラの美味しい料理に感動し、蜂の唐揚げのことを忘れた。

 多少のけがはしているものの、ヴィラは憑き物がとれたかのように元気になっていた。

 結局、あのリューマの男は、ヴィラが飛び降りた後も戻ってはこなかったらしい。もう境界が近かったし、ムテの女を傷つけるのは死罪に値する。しかも、最高神官の許可証を失った彼は、もう二度とムテの地に足を踏み入れることはできない。



 サリサは、エオルの部屋にいた。

 エオルが、署名に妙に慎重になっているからである。何度も何度も、文面を読み直して、サリサに質問をした。

 これは、誰が読むのか? とか、いつ頃読むのか? とか、エリザは読むのか? とか、実に意味不明の質問であった。

 さらに、霊山はどのようなところか? エリザが今いる祈り所とは、どのようなところなのか? まるで雑談のように聞いてくる。

 霊山に運ばれた後、最高神官の許可が下りたら、最終的にはエリザが読み、彼女の希望で村に帰ることとなる……と、サリサは何度も説明させられた。

 霊山は明るく、祈り所は暗く、などと説明したところで、どうも時間を無駄にされているような気がしてたまらない。

 なのにエオルは涼しい顔をしていた。

「そう、わかりました」

 などと返事をしたきり、部屋に篭って出てこない。苛々が募ったサリサは、ついにエオルの部屋に押しかけてしまったのである。

「どうぞ、ゆっくりしてください」

「いや、急いでいるのですが」

 指し示された椅子にも座れない。エオルは、まるでサリサを逆撫でするように、のんびりしているのだ。

 サリサは、エオルがペンの用意をしている間、何度もエリザの肖像に目を向けた。ついでに、エリザの母の肖像、そして家族の肖像も。


 その中に加われれば、よかったのに……。

 ただの平凡なムテの男であれば、それも可能だっただろう。

 自分には訪れない夢が、この村には渦巻いているのだ。

 どうも苦しすぎる。

 一瞬でも早く、霊山に帰りたい。


「つまらない質問ばかりして申し訳ない。私としては、村の決定には無条件で署名するつもりですが……」

 やっとエオルがペンをインク壷につけた。サリサはほっとした。我慢の限界であったのだ……が。

「でも、最後にもうひとつ、教えてください」

 エオルは、ちらりとサリサの顔を見た。

「エリザは、もしかして至らなくて、最高神官の迷惑になっていたのではありませんか? それとも、祈り所で篭るのが嫌になって、泣いてわがままを言っているのではありませんか?」

 ほっとした反動で、サリサは慌てた。

 このような嘆願を霊山の者が提案するなんて、身内ならば当然不安に思う。心配であろう。

「そんなことはありません! エリザはほんとうによく尽くしてくれました。至らないところもありましたが、必死に努力していましたし、祈り所の生活にだって、三年間も耐えてくれたのです! わがままは私のほうです。私にとっては……」

「わかりました」

 エオルが途中で言葉を遮らなかったら、とんでもないことを言っていたかもしれない。サリサは顔が熱くなった。

 エオルは、嘆願書に目を落とすと、一番下に締めくくるようにして、自分の名前を署名した。その上には、はるかに空間が開いているが、自分の名前で終止符とでも言うように。

「あなたのおかげで、私は大事な人を失わないですみました」

 美しいムテの文字で『エオル』の名がしたためられたのを、サリサは確認した。

 エオルはそれを折りたたむと、封筒の中に入れ、サリサに差し出した。

「勝手に相手の気持ちを探って、勝手に幸せを考えたって、違うこともあるのですよね。まずは、自分の気持ちを確かめること。彼女が、必要なのか、いらないのか……。私には重たい言葉でした」

 そういうと、エオルは微笑んだ。

「私は、もう二度とヴィラを離しません」

 サリサは無言でその手紙を受けとると、深く敬意を示した。

 そして、下で待っている神官に封蝋を押させると、挨拶もほどほどにバタバタと蜜の村を後にした。




=誘惑は蜜の味/終わり=

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