誘惑は蜜の味・13
――あれと縁を結べたら……巫女姫の出身家だし、名誉も富みも手に入るよ。おまえを育てたかいがあるってもの。まさか、期待を裏切らないよね?
「……嫌」
ヴィラの言葉に育ての親は顔を歪ませる。
――何を言っているの? ほら、彼はもうおまえに夢中なんだから。これを利用しない手はないよ。
「嫌です。あの人とは……結婚したくない」
――うん? その嫌は……そうかい? もったいつけたほうが金になる。
もっと、うんと拒絶すればいい。彼はますますおまえに夢中……。
――エオルはいい人だからねぇ……
どうしても返事ができないヴィラに、エオルは優しかった。
「ヴィラの心配が……その、育ててくれた人たちの事だったら……私も家族と相談した。父も母も、それでもいいって言ってくれた。だから……いい返事が欲しい」
うつむく仕草は、もったいをつけているように見られてしまったのだろうか? 求婚の言葉はますます熱を帯びていって、ヴィラを悩ませた。
「ヴィラ、お願いだから……はい、と言って欲しい」
吸い込まれるような瞳で懇願されてしまったら……。それ以上近づかれてしまったら、心臓の鼓動を聞かれてしまう。
私に口づけしないで……。
そんな目で見ないで……。
――エオルは本当にいい人だね。
――エオルは本当に……いい金づる……。
頭に響く育ての親の言葉。
心に響く恋人の求愛。
答えるべきではなかった。
結果として、ヴィラは育ての親の悪巧みに乗ってしまった。
所詮、この結婚には無理があったのだ。
エオルの父は、心病になったとたん、つもりにつもったものが爆発した。おそらく、エオルのためにヴィラの育ての親の行いに堪えていたのだろう。
エオルは常にヴィラをかばうが、ヴィラをまともに見なくなった。大丈夫……とは言ってくれない。
熱く懇願する瞳はなくなった。
リューマの蜂蜜商人が、ドサクサにまぎれてヴィラの手を握っても、彼は見てみないふりをした。いつもいつも……。
それは、出て行けと言っているようなものだった。
日夜繰り返される義父の中傷、暴力。村人からの冷たい視線。優しいけれど、どこか心を閉ざす夫。
ただ、蜂蜜商人が語る遠い国の話だけが、ヴィラを現実から逃してくれる気がした。
この男についていったら、乱暴されるかも知れない。自分の心は死ぬだろう。それがわからぬヴィラではなかった。
だが、この苦しみから逃れるためならば……かまわない。
そう思い始めたのは……もうかなり前からだった。
ヴィラの迷いを察したのか、リューマの蜂蜜商人はあからさまに誘惑するようになった。だが、エオルは見て見ぬふりを続けた。その態度が、ヴィラをますます追い詰める。
その様子に反応したのはファヴィルのほうで、彼はますますヴィラに暴力を振るうようになった。
ガラス瓶を投げつけられ、腕にけがをした時でさえ、エオルは黙々と手当てをした。
だが、ヴィラを見つめる目はどこか悲しげで、ヴィラが見つめると目をそらしてしまう。
お互いふれあいながらも、まるで壁でもあるようだった。
諦めたような目で私を見ないで。
どこでも行けばいい……そんな顔をしないで。
――金目当てでも……それでもいいって、もう一度言って。
私が好きだと、もう一度言って……。
ヴィラが必死に懇願の目を見ても、エオルからは答えがない。外されて遠くを見る瞳には、ただ諦めの色が浮かぶだけ。
ふと優しく抱き寄せてくれる手からも、悲哀以外のなにも感じない。
見つめあうことなく、抱擁を解かれ、部屋から出て行かれた瞬間、ヴィラは悟ったのだ。
やはり……初めから無理だった。
涙が留めなく落ちた。
その翌週、蜂蜜商人が訪ねて来た時に、ヴィラは一緒にリューマの地に行くことを約束したのだった。
馬車はさほど車高が高いわけではない。
地面がそれほど遠いはずはない。
だが、ヴィラには長い時間に思われた。ムテの森の緑や夜空の星の輝きとともに、数々の思い出が巡っていた。
体に衝撃が走った。
バッキッ! という音が、体の内側に響いた。
地面に激しく叩きつけられた瞬間――それは死を意味していた。
やがて、体にのしかかる重たいものを感じて、ヴィラは目を開けた。
衝撃のわりには痛みがなく、これが死ぬということなのかと思ったが、重みのほうは本当だった。
やや汗ばんだ熱い体と湿気を帯びた銀色の髪。
「エオル?」
名前を呼ばれた男は、いきなり体を起こした。
「ヴィラ? ……生きているのか?」
エオルの驚きは、喜びを上回っていた。
ヴィラの体が激しく地面に叩きつけたれた瞬間を見たのだ。あまりの絶望と走り続けた疲労で、彼はばったりヴィラの上に崩れ落ちたのだった。
「……エオル、ごめ……」
「悪かった。ヴィラ、許してくれ!」
夫を捨てて逃げていこうとした悪い妻は、ヴィラのほうだった。だが、エオルのほうが妻に詫びたのだった。
「すべてを受け入れたつもりだったのに……弱い私を許してくれ」
ヴィラが、いいえ……私が……と、言いかけた言葉は途切れた。
熱い抱擁と口づけによって、発することがなかったからだ。
本来、ヴィラが助かるはずはない。
森の中で速さがそれほどでもないとはいえ、ヴィラの体は馬車から地面に叩きつけられ、ころころと転がった。
これは、事実である。
通常、間違いなく即死である。
マリの馬車がどうにか追いつき、サリサが力を使って結界を張らなければ。
馬車は、ぎりぎりサリサの結界が届く範囲に掛かったのだ。
すでに力尽きかけていたサリサだったが、空中にヴィラの体が舞った時に後先考えることなく、強力な結界を作り出した。
ムテの最高神官とはいえ、物理的防御の効果がある結界など張ることはできない。所詮はクッション程度のものであるが、ヴィラを軽い打ち身だけで済ませた。
しかし、当のサリサのほうといえば……。
本日、力の使いすぎにより、意識不明に陥っていた。
だから、走り疲れたエオルがよろよろとヴィラに駆け寄り、覆いかぶさるようにして倒れこんだ瞬間も見ていない。
その後、二人が抱き合って無事を確かめ合った名場面も、熱きキス・シーンも見ることはできなかった。
ただ、マリのかけてくれた毛布の中で、死んだように寝ていたのである。
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