誘惑は蜜の味・12


 夜道は暗い。

 マリの技術では非常に怖いが、かえって闇が馬をマリに従わせているのだろうか? 指示通りに真直ぐ、かなりの速度で進んでゆく。

 ざわざわと木が鳴る。

 いまだ冷たい指先にファヴィルの心病の恐怖を感じながらも、サリサは道をマリに指示していた。

 エオルは、サリサの横で祈るように目をつぶっていた。

「ヴィラの心変わりが怖かったのです……。どうにか納得しようとして……」

 冷静に見えていた男の、隠された不安。

 一枚の絵のように見えた夫婦の間にさえ、このような疑惑が潜んでいる。心とは、まさに不思議である。

「あの人に心変わりなんて、あるはずがありません。心は常にひとつ。あなたが信じれば、それでよかったのです。でも、今は悔やむ時ではありません」

 ムテの境界を越えてしまえば、追いつくことは厳しくなる。

 この森のはずれまでに、ぜひとも追いつきたい。

 マリの鞭が唸り、馬はさらに速度を増した。



 その頃、ヴィラは頻繁に後ろを振り向いていた。

 あと、もう少しで森を出てしまう。そうしたら、限りなく荒地が広がっているという話だ。

「まって! 止まってください!」

 リューマの男は馬車を止めた。

「どうした? 馬車酔いでもしたか?」

 ヴィラは、こくこくとうなずいた。今更、やはり戻りたいなんていえない。

 だいたい、今回はファヴィルに現場を目撃されてしまったのだ。どんなに嘘をつこうが、エオルにはばれる。もう、彼のもとには戻れない。

 いや、エオルはヴィラが何をしても平気なのだ。たぶん、ああそうですか? で、気にも留めない。

 金食い虫の女。ファヴィルが罵るとおりなのだ。

 本当に大事に思っているのなら、何が起きているのか、もっと気にしてくれるはず。この苦痛を和らげるよう歩み寄ってくれるはず。

 心病の父の面倒を見、毎日のように殴られて、村人たちに白い目で見られて……もう疲れてしまった。


 何処でもいい。逃げ出したい。

 もうどうなってもいいのだ。ここにいるくらいならば。


「む、胸元を緩めると、楽になるぜ」

 男が手を伸ばした。少しばかり下心を感じて、ヴィラはその手を叩き落した。

「もう大丈夫。行きましょう……」

 ヴィラがちょうどそう口にした時、一台の馬車が横に止まった。

 中から、ムテの男が一人降りてきた。

「ヴィラ!」

 エオルだった。その声を聞いて、ヴィラはすくみあがった。

 そしてリューマの男も。彼は慌てて馬車を急発進させた。

「ヴィラーッ!」

 叫びながら、エオルが追いかけた。ムテ人の足では、すぐに馬車に置いてきぼりになる。

「マリ! 早く、早く!」

 サリサがせかすのに、マリは手間取っている。

「うー! さっきの調子はどこいったんだよ! 前だよ! 前!」

 だが、馬はいやいやをして後退した。

 ああでもこうでもないをして、やっと走りだしたときには、リューマの馬車どころか、エオルの姿さえ見えなくなっていた。


 その間、エオルは必死に馬車を追いかけた。

「ヴィラー! お願いだ! 行かないでくれ!」

 必死になって、叫んでいる。

 目をつぶり、耳を押さえていたヴィラだが、その声がいつまでも続くので、思わず身を乗り出した。

 運動能力に欠けるムテの男が、銀色の髪を振り乱して走る姿は、滑稽を通り越して哀れである。

「大丈夫だ、ムテ人なんてそんなに長い距離を走れないからな! それにすぐに森を抜けるしよ!」

 リューマの男が楽しそうにいう。

 足がもつれてエオルが転んだとき、ヴィラは思わず涙ぐんだ。だが、彼は再び起き上がり、足を引きずりながらも追ってきた。

 その姿は、だんだん遠くなる。

 森はもうすぐ終わる。草原に出ると、馬車はもっと速度を増すだろう。

 ヴィラは、さらに身を乗り出した。

「エオル! エオルー! エオルゥーッ!」

 夫の名を叫んだとたん、彼女は走る馬車から飛び降りた。

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