誘惑は蜜の味・11
ファヴィルが見た記憶が蘇る。
エオルがヴィラに口づけし、外出する。集会に出るためだ。
そして、静かになる。が……。突然、窓を叩く音がする。ヴィラは怯えているようだ。正体を知っているのか?
意を決したのか、ヴィラは窓を開けた。
「約束どおり、迎えにきたぜ!」
あのリューマ族の男だった。
蜂蜜の仕事で、この家に出入りしている商人である。彼は、すっかりヴィラの美しさに心を奪われ、くるたびにヴィラを誘惑した。
「あの……それは……あの……」
切れの悪いヴィラの返事。
「もう後戻りはできねぇ。あんたは、この家を出て自由になりたいんだろ? リューの街に行けば、誰もが自由だぜ! ムテ人は大事にされるしな! 俺だってあんたを大事にするさ。俺はこれでも気が長いんだ。この前みたいな無理強いもしない。だから、早くしな!」
ヴィラは、それでも首を振っている。
「私は……きっとここで束縛されて生きてゆく運命なんです。それは変えることができないんだわ……」
男は、ヴィラの腕を掴んだ。ヴィラは驚いて身を引く。
「そんなのはわからねぇぞ! あんたは、なんだかわからんうちにここの嫁になったんだろ? 金に操られていたんだろ? そんなのは断ち切ることができる。ちょっとの勇気さえあればな!」
ヴィラは、ぎゅっと目をつぶった。そこから床にぽたぽたと涙が落ちた。
そして、覚悟を決めたらしい。窓を乗り越えて、男の胸へと飛び込んだ。
あれだけ恐れていた男にすがるなんて、尋常ではない。まるで、自分を捨て去るような行為だ。
自由への誘惑は、なんと甘美であることか。
ヴィラにとって、この豪邸も家族も立派な鳥籠だったらしい。
飛び出すことを願って、何が悪いというのだろう……?
そうだ……。
誰だって自由に生きることを許されていいはず。
霊山を出よう。
もうこれ以上の犠牲はこりごりだ。
エリザを祈り所から救い出し、鳥篭ではないどこかへ行こう。
二人だけの世界でいい。
他はどうなったってかまわない。破壊したってかまわないのだ。
二人を縛る鳥篭である世界なんて……。
壊してしまえ。
エリザ……。
「しっかりしなさい! 大丈夫ですか!」
揺り起こされて目が覚めた。
また、悪夢に引き込まれかけていた。
力を使いすぎたのだ。手足が冷たい。頭が痛い。
普段ならばそれほど消耗する技ではないが、何せ自分を引き込もうとする力が強すぎた。常に波に逆らって泳ぎ続けたような……そして溺れ死ぬところだった。
ぼやける目に映るのは、エオルの姿だ。マリが迎えに行ってくれたから戻ってきたのだろう。彼はサリサの手を握って温めている。
その感覚は、やはり兄妹だからなのだろうか? エリザの気と似ている。大きな瞳も……似ている。
エオルに触れられるなんて……あまりにも切ない。
もう長い間、夢以外ではエリザに会っていない。この手の感覚を忘れかけている。
懐かしくて、恋しくて泣きたくなる。
当然だけと――エリザじゃない。
どうにか邪な夢から逃れることができたけれど、その夢さえ甘美で泣けてくる。
――ムテの最高神官である身が、ムテの滅亡を夢見るなんて……。恥。
ムテを守りたい願いとムテを切り捨てたい願い。
正反対のようで、実は両方ともサリサの中には存在しているようだ。
サリサは夢を振り切るように首を振り、思いを断ち切るようにエオルの手をやんわりと払った。
エオルの手は、今のサリサには甘い毒である。
体を起こすと、酔いつぶれているファヴィルが横に寝ていた。父親よりも、先に癒してくれるとは、相当サリサのほうが死にかけているようにも見えたのだろう。
だが、ゆっくりはしていられない。
「エオル! 大変です! ヴィラが家を出て行ってしまいました! すぐに追いかけないと!」
行き先は、リューマ族の国の首都リューの街だ。ならば、選んだ道は見当がつく。
無理を押して、サリサは立ち上がった。だが……。
「よいのです。サリー様」
力ない声でエオルが言った。彼は、父親を担ぐと近くのソファーに寝かしつけた。その行動に、何の焦りも感じられない。
「何がいいのです?」
「ヴィラは、自分の意思で出て行った。それは、わかっているから」
確かにそうだ。
ヴィラは、あの男を選んだ。
二つ心なのだろうか? それとも、元々エオルを愛していなかったのだろうか?
いや……。
サリサは覚えている。
ヴィラは、あの男に襲われたとき、必死に助けを呼んでいた。
サリサが怪我を見てあげようとしたとき、不安そうにしていた。エオルでなければ、だめなのだ。
ヴィラに、二つ心などありはしない。
ただ、彼女は辛いのだ。
今の現状が、耐え切れないほどに……。
「あの人は、私がすっかり夢中になって、この家に来てもらったようなものです。それがこんな苦労をかけるようになってしまって……。愛想をつかされて、出て行かれてしまっても、私に何が言えるというのです? いいのですよ。もう……」
冷静な男だ。冷たすぎるくらいに。
「もしもよろしければ、我が家で休んでいてください。私は、集会に戻りますから」
エオルは苦悩を眉に表しながらも、階段を降りはじめる。
そう。この男は、妻が甘い誘惑に惑わされているのを、見て見ぬふりをしてきたのだ。気がついていたのに、気がつかないふりをした。
止めようと思えば、機会はいくらでもあったのに。
「よくはありません。あなたは、リューという街を知らない。あそこは、ムテの女が一人で生きられるような街ではありません」
エオルの足が止まった。
「何のためにムテには結界が必要だと思いますか? 外の世界には身も心も争いに疲れ果てた人々があふれています。そう、リューはまさにあらゆる人々が集まる大都市です。とても、ムテ人が穏やかに過ごせる場所ではないのです」
蜂蜜でリューマ族とも商売をしているのだ。エオルは、リューマの国のこともある程度知っているはず。
だが、よほどいい話しか聞かされていなかったのだろう。エオルの顔色が変わった。
「で、でも……。ヴィラがそうしたいなら、私は止めることなど……」
唇をふるわせながら、エオルは切れの悪い言葉を連ねた。
「とにかく……私は、集会に戻らなければ……」
サリサは、その言葉を最後まで聞くつもりはなかった。頭に血が上って、怒鳴っていた。
「夫婦という約束を交わしていながら、信じられません! 妻の危機という時に、村の集会? あなたは何を考えているんですか!」
夫婦という約束。
そういう約束が交わせる身の上ならば、エリザを絶対に離さないのに。
辛い思いはさせない。絶対にエリザを泣かせたりしない。
たとえどのように辛いことが起きようとも、乗り越えてみせる。
ひとつ心を誓い合える身の上ならば……。
最高神官でなければ……。
こんなに悲しい決意はしない。
サリサは、凍える体を階段の手すりに預けた。しびれる足で階段を下りる。
「あなたが追わないならば、私が追います! 一瞬でも、あなたが立派な人だと思った私がバカでした」
足を引きずりながらも、サリサは階段を降り、エオルを追い越した。
「でも、ヴィラは……あの男を選んだ……」
「選んでなんかいません! あなたが、追い込んだんだ!」
力ないムテの女が、リューマの国なんかに行きたくはないはずだ。
自由がそこにしかないから、そこにしか逃げ場がないから、ヴィラは行ったのだ。
「エオル、勝手に相手の気持ちを探って、勝手に幸せを考えたって、違うこともある! まずは、自分の気持ちを確かめたらいかがです? ヴィラが必要なんですか? それとも、いらないのですか!」
扉の前で、走りこんできたマリが叫ぶ。
「きゃー! サリサ! じゃなくて、サリーちゃん、真っ青! 大丈夫?」
本当の名前を叫んでくれた。しかも声が大きい。
思わず腰砕けになった。
ファヴィルと一体になった時に力を使いすぎていて、もう限界を越えている。相当、ぼろぼろなのだろう……。
階段から体が浮きかけたが、後ろから支えられた。エオルが、落ちかけたサリサを引き戻したのだった。
「私も……私も行きます」
ふるえる声で、エオルは言った。
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