誘惑は蜜の味・10


 なぜ、私を見捨てて去ってゆくのです?

 どうして、私をおいてゆくのです? 

 それが運命で常というならば、その世界を壊してしまいたい。

 すべてを破壊してしまいたい……。


 あの人を手放すくらいなら……。

 この世界なんか、どうなったっていい。

 そんな運命なんて、受け入れられない……。 



 一瞬、混濁した海に飲まれそうになって、サリサは慌てて息を吸った。

 自分が心を病んでいたときに陥った世界と、根本的には似ているようだ。外に出る反応は違うけれど、内面は一緒なのだ。

 サリサ自身だって、今はとても精神状態が良好とはいえない。失いたくない心の支えを自ら捨て去ってしまったのだ。自分を保つ力は弱っている。

 ファヴィルと心を一つにしていても、彼が陥っている状態に浸るわけにはいかない。


 ――いけない! 引き込まれる!

 正気を保て!


 でも……。


 苦しいはずの悲しみの海は、なぜにこれほどまでに魅力的なのだろう?

 身を横たえれば……まるで甘美。

 母の懐に抱かれるような心地よさで、一度落ちたら二度と離さない。

 今ある苦悩は大きい。まるで、岩壁に爪を立ててすがり付いているようなものだ。

 まさに崖っぷちで突風に煽られているような、心もとなさと恐怖だ。

 それから逃れるには、ただ……諦めて飛び込めばいい。

 

 心を病む。


 それは、いわば自分が置かれた苦しい状況から最も簡単に逃れる方法。

 まさに自ら命を断つことに似ている。つまり、心の命を断つことにほかならない。


 ――混濁に身を任せて、もう、なるようになれ……。

 その誘惑から、ムテ人は逃れられないのだ。


「僕には……もう無理だ」



 夕暮れの川辺で泣いている小さなサリサがいる。

 必死に歩いたせいで、足は豆だらけで血がにじんでいた。

 ただ自由になりたかっただけなのに、サリサには許されなかった。


 友人たちは自由に生きているのに。


 セラファン様、もしくは歌うたいのメルロイ。エーデムのさすらいの王子。

 そして、アルヴィ……ウーレン第二皇子・アルヴィラント。

 二人とも王族の背負う宿命を捨て去り、自由に生きる道を選択したじゃないか。


 生まれがどうであれ、誰だって自分で生き方を選べるはずだ。


 昔から重たい責任は持ちたくなかった。しかも、約一年に渡って続けた旅は、サリサに苦痛も与えたけれども、それ以上に自由の楽しさを与えてくれた。

 その後、ガラルの地で過ごした農民生活も、ムテのサリサにはきつい作業だったが、とても幸せな日々だった。


 セラファンやアルヴィラントと、ずっと一緒にいたかった。

 だから、サリサはセラファンの荷馬車の後ろに潜んでムテから逃げ出そうと考えた。

 うまく行くはずだった。馬車はサリサを乗せたまま、霊山の麓をあとにした。誰にも見つからず、再び友と旅を続けるはずだったのに。エーデム族の鋭い耳を計算に入れていなかった。

 エーデム族の友人は、あまりに優しい笑顔とともに、サリサを道中に置き去りにした。

 あの瞬間に、夢も希望もすべてが消えた。

 埃っぽい中、途方もなく長いムテまでの道が、サリサの目の前にあるだけだ。

 この道のりは、ムテを捨て去ろうとした分だけ長い。

 泣きながら痛い足を引きずって向かう先は、けして楽しい場所ではない。鳥篭のように自由のないムテの霊山なのだ。

 戻りたくないのに、そこしか行く場所がない。

 だが、もう……これ以上、歩けない。


 ――最高神官なんて……嫌だ。



 サリサは、はっとして過去を振り払った。

「でも……僕、いや私は!」

 最高神官であることを選んだはず。

 そこでのたれ死ぬことだって、選択できたはずなのに。

 だから……。

 最高神官として生きる限り、エリザをいつか手放さなければならないことだって、仕方がないことだと納得している。それが、早いか遅いかの違いだけだ。

 巫女姫として選んだことさえも、わがままなのだから。引き止めたことは、さらにわがまま。

 その報いは、すべてエリザが背負っている。

 本当に彼女を大切に思うならば、サリサ自身がこの痛みを負うべきなのだ。

 しかし……。

 必死に自分を保とうとするサリサの内側から、別の声が響く。


 でも……はない。


 大切に思う人を、自らの手で幸せにしてあげたいだけだ。側にいたいだけだ。

 どうしてそれが許されない? なぜ、それが悪なのだろう?

 このまま引き裂かれてしまったら、それこそ心も引き裂かれる。その状態で最高神官たることはできないだろう。

 混沌の闇の海に心を沈めてしまうだろう。


 幻の少女が、サリサを見つめ、微笑んだ。

 それは、サリサがよく知っている少女。懇願するように手を伸ばし、すがるような大きな瞳で見つめる。口元から、言葉が漏れた。


 でも、は、なし……。


 ただ、ひとつの想いを貫きたいだけだ。

 ただ、失いたくないだけだ……。

 他は何もなくていい。

 今こそ、苦しみを解き放ち、この想いに身をゆだねよう。

 そう、ただこの想いがあるだけでいい。 

 ただ、その名前を呼べばいい……。


「エリザ」



 ――新しい最高神官がいらっしゃるから

 きっと……いいことがあるから――


 懐かしい声がした。


 途切れそうな意識の中、サリサはゆっくりと目を開ける。

 サリサの目の前はただの闇だ。何もない。

 だが、声の主を捜して視線を落とすと、すぐ隣に大きな瞳の少女がいた。

 先ほどの幻とはちがうほんの子供のエリザ――あのエオルの部屋にあった肖像に近いエリザだ。

 サリサが大きくなったせいもあるが、初めて会った時のエリザよりも遥かに小さい。だが、印象的な銀の瞳はサリサの知っているエリザのままだ。

 かわいい唇が開かれた。


「……ごめんね。私、何もしてあげられなくて……」


 小さな手がサリサの手に重なった。

「ごめんね、でも、きっと新しい最高神官がいらっしゃるし、そのうち、いいことだってきっとあるから……」

 本当に小さくて、何の力もない手。だが、その手こそがサリサを勇気づけ、最高神官としての重圧に耐える力をくれたのだ。

 泣いている子供のサリサはもういない。だが、大人になったサリサの目頭も、つい熱くなっていた。

「ああ、そうだね……」

 サリサは思わず小さなエリザの前に膝まずいた。

 エリザは、少し驚いたように目を見開き、小首をかしげる。大人が泣くなんて、きっと子供には不思議なのだろう。

 自分に言い聞かせるようにサリサは呟いた。


「ムテには最高神官がいる。だから、大丈夫だね」


 まだ不幸など知らない頃のエリザ。サリサと出会っていないエリザなのだ。

 その瞳を見つめていると、切なくなる。この子がその後、どのようなことに巻き込まれていくのかと思うと苦しくなる。

 次から次へと涙が頬を伝わった。


「僕はあの時、君を……君たちを守りたいと思ったんだよ。小さなエリザが故郷で幸せに暮らして、新しい命を生み、やがて土に還っていくような……ムテの希望になりたかったんだ」


 サリサが守りたかった小さな手。強く握ると、小さなエリザは微笑んだ。


 ――だから、がんばって……。



 サリサは自分を取り戻した。

 ファヴィルの病に間違いなく引きずられ、飲まれる寸前だった。

 だが、この男を食いつぶしている家族の思い出が、逆にサリサを引き戻したのだ。家族で一番弱虫のエリザだったが、父親にとっても心の支えだったに違いない。

 小さな子供のエリザは、ああして父を励ましたことだろう。エリザがいたから、この父親は色々な困難を乗り越えてきたのだ。エリザがいたから……。


 それなにのに今は……。

 この男は、暴れるたびに寿命を食いつぶしている。


「一人じゃありません。妻が失われたとしても、あなたにはエリザとエオルがいるでしょう?」

 言い聞かせたくらいで収まる心病ならば、もうすでに収まっているだろう。心を病む苦しみならば、サリサもよく知っている。

 誘惑はまた襲ってくる。

 エリザを失いたくないという強い想いにつけ込んで、蜜のように甘い香りを漂わせて、おびき寄せるのだ。再びその夢に浸れば、あまりに酷で振り切りがたい。

 こちらが飲まれる前に、再び別々にならなければならない。

 サリサはもう一度、自分に言い聞かせた。


「大丈夫。絶望があるから、ほんの小さな希望でも見いだせる」

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