誘惑は蜜の味・9


「ずいぶんと凝ったことをしたじゃない?」

「エリザのためを思えば……ですよ」

 そう答えながらも、帰り道。サリサは足早に歩き、シェールと並ぼうともしない。小走りにシェールが追いかける有様だ。


 もうこの場から逃げ出して、さっさと霊山に戻りたい。

 なのに、現実はむごい。


 嘆願書をどうするのか? の相談は、なんとサリサが滞在している祈り所に集って行われるのだ。

 現実逃避と今までの埋め合わせをかねて、マリの妨害もものともぜず、一日祈り続けていたサリサだったが、それも途絶えた。

 夕方になって、人々が集まり出したからだ。

 その中に、エオルの姿もあった。彼は、サリサの姿を見ると軽く会釈し、集会所の中に姿を消した。

 トランから今回の話し合いの内容が説明される。誰もが、癒しの巫女の必要性を認めている。問題は、やはりエリザの父のことになる。

「ファヴィルに頭を下げるくらいならば、病で死んでも文句はありません」

 などという過激な意見もあれば、

「でも、もしかしたら、エリザが戻ってきたら、ファヴィルも元に戻るかも……」

 などという希望的見解もある。

 本来のファヴィルは、人につくす愛されていた人物なので、そのことを覚えている人も多いようだ。

「でもねぇ、エリザにシェール様のような力があるとは思いにくいんですけれど。いっそのこと、シェール様に残るよう嘆願書を作りましょう!」

 などという途方もない意見も。

 サリサは複雑だった。エリザは、癒しの力で言えば、シェールよりもはるかに優れているのに。

 エオルは一度も口を開かない。エリザの身内の者として、自分の意見を殺し、皆で決めたことに署名だけするつもりなのだろう。

「エリザごとき小娘に何ができる!」

 過激な意見が聞こえると、我慢ができなくなる。 

 エリザは、この村の人たちに癒しの手を差し伸べたいと、常々言っていたのに。

 彼女の霊山でのがんばりを知らないから、そのようないい加減なことが言えるのだ。

 サリサは、この話し合いに我慢ができなくなり、祈り所を飛び出した。マリが慌てて後をついてくる。

「ねぇ! サリーちゃん、どうしたのさぁ?」

 その名前にも、もう我慢ができなくなりつつあった。

 


 村はさほど広くない。

 ぶらぶらと歩いていると、大きな屋敷の前に出た。そう、エリザの家だ。とはいえ、エリザは自分の家がこれほど豪華になったとは知らないだろう。

 心病に陥った父親が、借金まで作って建てさせた家なのだから。

 家全体が悲鳴を上げている。ここに戻れば、エリザはどうなるのだろう? 自分が描いた幸せの絵は、どこか間違っていないのか? と自問する。

 ばかばかしいが。

 間違っていてほしい。やはり、エリザを帰さないのが正しい……そう思わせて欲しい。

 あまりの情けなさに、ため息がでる。甘い考えとは、時にもっともらしいいいわけをつけてくれる。

 昨夜の夢が思い出された。

 たくさんの紙が、はらはらとサリサの頭の上から降ってくる。

 一見、何も描かれていない真白な紙。だが、読もうとして手に取ると、蝋燭の火にあぶられて文字が浮かぶ。

 マサ・メルの言葉が蘇るのだ。

 どれもこれも、サリサを追い詰める厳しい指摘だった。


 その時だ。

「あ、馬車!」

 隣でマリが叫ぶ。

 家の裏手から、見覚えのある馬車が出てゆく。あのリューマ族の男の馬車だ。


 まさか? あの男、戻ってきた?


 嫌な予感がして、サリサは家の中に飛び込んだ。

「ヴィラ! ヴィラは、いますか!」

 大きな声で呼ぶ。大きなホールに声がこだましたが、誰も出てこない。

「ヴィラ! ヴィラーーーー!」

 再び呼ぶと、今度は二階から大きな笑い声が響いた。

 ヨロヨロ……と、ファヴィルが階段の手すり越しに顔を現した。

「ヴィラはいない。あれは、二つ心を持つ女。ムテの風上にもおけん、悪女だからな」


 二つ心。

 つまり、それは浮気することを意味している。

 一人の男を愛しながら、別の男を夢に見る。

 ムテでは通常ありえない。


「ヴィラは、何処へいったんですか? 教えてください!」

 サリサが叫ぶと、ファヴィルはケタケタと笑った。どうやら酒を飲んでいるらしい。

「ヴィラの心は、エオルの金がなくなったとたん、飛んでいってしまったのだよ。今は、金を儲けさせてくれるリューマ族のものさ」

 さっきの馬車だ。

「マリ! 馬車を! それから、祈り所にいるエオルを呼んできて!」

「無駄だ! もう追いつきやしない」

 マリが慌てて家を飛び出すのを見計らうと、サリサは階段を駆け上がり、ファヴィルの襟首を持ち上げた。

「いいから! 何でもいいから教えなさい! ヴィラは何処へ行くと言っていましたか!」

 ファヴィルは、おかしな含み笑いをするだけだ。記憶も混濁しているらしい。


 ……だめだ。全く言うことを聞かない。

 サリサは、最後の手段に出た。


 無理やりファヴィルの顔を押さえつけ、自分のほうを向ける。狂気に満ちた目と目を合わせる。

 この男と意識を統合するのは、実に恐ろしい。が、するしかない。

「さぁ、あなたは私、わたしはあなたなのです……」

 サリサは、ゆっくりとファヴィルになっていった。

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