誘惑は蜜の味・6


 暗示が解けたファヴィルの行為は、まさにシェールが手紙で知らせてきた再現を見ているようだった。

 彼はいきなり立ち上がり、テーブルのクロスを引き抜いて料理をすべて床に散らばしてしまった。三人とも慌てて立ち上がって難を避けたが、一瞬遅れたらスープを浴びて火傷するところだった。

 エオルが必死になって押さえ込もうとしているが、激しく暴れるので近づけない。

 ムテ人がここまで暴力的でおかしくなるのは珍しい。

 だが、サリサには覚えがあった。エリザが、マリに呪いをかけた時だ。どうも、この心病の症状はエリザの血筋の特徴かもしれない。


「私は知っているのだぞ! この女は我が家の財産を食い尽くしたうえに、もう取れるものがなくなったので、リューマの蜂蜜売りとムテを捨てるつもりだったのだ!」

「やめて!」

 ヴィラが耳を押さえた。

「私の妻を悪くいうのは止めて下さい!」

「おまえだって知っているだろう!」

 エオルが一瞬黙り込む。

「この客は嫌な気を漂わせているぞ! あのエリザを追い出した女と同じだ! 霊山のにおいがする」

 さすが、心病だ。鋭くなっている。

 この男は、霊山などは知らないだろうに、シェールの気とサリサの気の共通点をすぐに見抜いた。

 まさに、光の目で見た状況。ファヴィルはいきなりテーブルの上に残っていた皿を、ヴィラめがけて投げつけようとした。

 その前に、サリサは手を突き出す。

 気の狂った父親の目が、一瞬サリサの手に焦点を合わせて……そのまま大人しくなった。

 完全に相手の自由を束縛する厳しい暗示。かつて、エリザにもかけたことのあるものだ。気狂いで激しい興奮状態にあるものには、ここまでしないと大人しくならない。

 だが、サリサにとっては、さほど難しいことではない。むしろ、こういった場合、相手の気に圧倒されて疲れるのだ。

 サリサは、ふっとため息をついた。

 

 その後ろで、ヴィラとエオルが抱き合ってサリサを見つめていた。

「あなたはいったい?」

 エオルが不審げに呟いた。

 この付近では、エオルは力の強いムテ人という評判を得ていた。蜜の村の神官よりも強いのでは? とさえ言われている。

 だから、自分では手に負えない状態の父親を、一瞬で大人しくさせるサリサの力に、かなり驚きを隠せないようだった。

「あなたのお父さんは正しいです。私は、ここの神官に霊山からの手紙を携えてきた遣いの者です」

 そう言いながら、サリサはもうひとつの言葉も事実だと察した。


 ヴィラは否定しなかった。

 エオルは言葉に詰まった。


 おそらく、ヴィラはあのリューマの男と村を出るつもりだったのだ。


 割れてしまった皿の欠片を、ヴィラは丁寧に拾っている。サリサも一緒に手伝った。

 床に落ちたテーブルマットは、すべてにヴィラの悪口が書いてあった。青ざめた顔で、ヴィラはそれを無視している。

【二つ心】【悪女】【密通女】……。

 サリサたちは、その言葉が書かれたマットの上にご馳走を並べ、先ほどまでにこやかに食事をしていたのだ。

 青い鮮やかな文字――この付近に自生しているハリの木の樹液で書かれた文字である。

 書かれてしばらくすると消えてしまい、読めなくなってしまうが、蝋燭の火であぶると浮き上がってくる。かつては、人知れず付き合う恋人達の手紙に利用されていたりした。

 ファヴィルは、甘んじてエオルの暗示に屈していたわけではなかったのだ。心病とはいえ、なかなか賢いというか……。


 何かが壊れた平和だったはずの家庭。皿の欠片で手を切って、ヴィラはうっと声を上げた。

「見せてください。まだ、欠片が刺さっているかも」

「お客様にとんでもないところを見せてしまって……」

 どうやらヴィラの頭の中は、そのことでいっぱいのようである。

 サリサは、傷の具合を見るためにヴィラの手をとった。白い指先に赤く血がにじんでいた。

 体を近づけると、彼女はかすかに身を引いた。見つめると、不安そうな目で見つめ返す。


 ――不思議。


 ヴィラは、サリサに触れられることを恐れている。

 ムテの男はリューマ族のような行為に及ぶことはない。だが、昼間の恐怖があるのだろう。夫以外の男とのふれあいを拒んでいるのだ。

 そのヴィラが、なぜ、リューマの男と駆け落ちしようとしたのか?

 あの男に体を許すと思われても、当然のことだ。



 父親を寝かしつけたエオルが戻ってきた。

 一瞬、手を握り合っている妻と客人に歩みを止めたが、別に気にする様子もなく、サリサから妻を受け取る。

 彼は血ににじむ妻の指先を、そっと口にした。サリサが拒まれた行為を、ヴィラはエオルには当然許したのだ。

 まさに一枚の絵のような夫婦の姿に、サリサの胸はちくりと痛んだ。

 最高神官でなければ、サリサはエリザとこのような絵になっていたに違いない。

 エオルは客人に対する礼儀も忘れてはいなかった。

「このような騒動に巻き込んでしまいまして、申し訳ありません」

 悲痛な顔は、これが一度や二度のことではないということを物語っている。シェールの報告では、エオルは父親の奇怪な行動の尻拭いをし続けているとある。心中察するものがある。

「あなたが霊山の者であれば、恐れながらお願いがあります」

 エオルはそういうと、ヴィラにその場を任せ、サリサを案内した。


 彼に連れられて階段を上がると、新しい建物なのに悲鳴のように軋む音がする。この家自体が泣き叫んでいるようだった。

 行き着いた小さな部屋。どうやらエオル自身の部屋らしい。

 この家には似合わない質素な部屋だった。灯りを灯すと、木の壁にいくつかかかった小さめの肖像画が目に入った。

 そのうちのひとつに目が留まってしまった。


 ――エリザだ。


 まだ子供の頃に描かれた物なのだろう。ちょっぴり取り澄ました顔がなんともいえない。

「それは、私の妹です。霊山に巫女としてあがったので、ご存知かも知れませんが……」

 ご存知も何もない。この少女がサリサに蜂蜜飴をくれたから、サリサは今、ここにいる。

「お願いというのは……。妹に父の病をどうしても知られたくはない。それで、ここで見たことは忘れてほしいということなのです」

 エオルは頭を垂れる。


 忘れるも何も、知られる知られないも。

 今のエリザは外部からの情報を完全に遮断されていて、最高神官といえども会うことができない。


 霊山から離れているこの地では、巫女制度の厳しさをあまり知られていないらしい。おそらく夢の中の姫君か神の使いのように、まさに巫女とでも思われているのだろう。

 実際は生け贄のようなものだ。霊山は、巫女を神官の子を宿す器としか扱わない。生活は質素倹約、朝夕の厳しい祈りと勉学の日々である。

 エリザも、おそらく少女っぽいあこがれだけを抱いて、霊山に来たことだろう。

 それを……。

 もう二度と、エリザはこの肖像画の少女には戻れないのだ。


 痛む胸をサリサは押さえ、平然を装った。

「なぜです?」

 サリサはとぼけた。エオルの話を、いや、エリザのことをもっと知りたかった。

「恥ずかしながら、妹はさほど能力があるわけでもなく、そのうえ弱虫でして……。私には、なぜ妹が巫女姫として選ばれたのかが不思議なほどなのです。いえ、選ばれたことは名誉なことなのですが……」

 ギクリとした。

 少し魔力に長けた者ならば当然持つ疑問だが、さすが兄だけあって、妹の能力をよく知っている。

「選ばれたからには、当然使命を果たして帰ってきてもらいたいと思っています。でも、あの子は優しいし、親思いのところがあります。父がこのような状態であることを知ったら、きっと自分の仕事を捨てて戻ってきてしまいます」

「でも、お見かけしたところ、あなたのお父様には癒しの巫女の力が必要に思えますが? 妹君が戻られたほうが、あなたたちは楽になれるのではないですか?」

 エオルは小さなため息を漏らし、天井を仰いだ。

「それは、もちろんです。まさに、私とヴィラにとっては、エリザが癒しの巫女として戻ってきてくれると助かります。でも、私たちは多くの期待とともに、富を与えられました。これは、妹が成しえる使命への支払いであり、本来は私のものではありません。その期待を果たさずして私のわがままで妹を望むのは、皆さんへの裏切り行為です」

 なんとも立派で生真面目な性格。ゆえに、苦悩も深そうだ。

 エリザ兄妹の両親は、もともとは素晴らしい人たちだったのだろう。でなければ、子供たちがこのようには育たない。

 ゆえに、今の父親の状態が悲しすぎる。

「でも、もしも村人たちが妹君の帰還を望んだとしたら?」

「望みません。シェール様がいます。父も、素直にあの方の癒しの力に頼ってみてくれれば、すこしはいいのでしょうが、逆に反抗していて……恥ずかしながら、色々ありまして。今、我々は肩身が狭いのです」

 でも、そのシェールは、今、二の村に帰ろうとしている……と、サリサは言えなかった。

 言えば、もしかしたらエオルの顔に喜びの色が浮かんでしまうかもしれない。この自己制御の利いた男でさえ、エリザを返して欲しいという顔を見せるかもしれない。

 帰したくない。

「……妹君には、このことをお知らせしません」

 サリサは、たったそれだけしか言えなかった。

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