誘惑は蜜の味・5


 今日は泊まっていけばいい……というシェールにマリだけ預けて、サリサは祈り所に向かった。

 一人になって考えたかった。

 一大決心をしてここまで来たのに、すべては無駄になりそうである。

 エリザの父に効くものはないか? と思って持ってきた薬草はなくなってしまったし、何よりもエリザを祈り所から出すという目的が、シェールの言葉で揺らいでいた。

 エリザがいると思うから、最高神官としての重圧に耐えられる。

 見かけによらず気が弱いサリサは、どうしてもそう思えてならない。彼女を失ったあとは、どうも自分に自信が持てそうにない。

 最高神官にとって必要であれば、どうにでもしてエリザを霊山に留めておくべきなのだ……などと思い、すぐに、あの人は所有物ではあるまいに……と反省する。

 さらに、一緒にリューに逃げようとしたことを思いだし、しばらく二人で暮らしているところを想像してみたりもするが、告白することもできずにふられたことを思い出し、苦笑した。

 あの時、エリザは満面の微笑みで、サリサにこう告げた。


 ――私、郷に帰れる日を、とても楽しみにしていたんです。

 

 夕暮れが近づく。

 冬だというのに、木の香りなのか、花のような甘い香りが風に乗ってくる。

 祈り所は祈るだけではなく、巡礼の旅をしている者に無料の宿を提供する場所でもある。とはいえ、ただ屋根があって水があるところがあるというだけなのだが。

 サリサが知っている中で、蜜の村の祈り所はもっとも小さなところだった。この村は、霊山から離れすぎている。


 祈り所の前に立つ人影があった。

 ヴィラである。まるで百合の花のようにしおらしい立ち姿だった。

 乱暴された衝撃からかなり立ち直っている。

 よほど、優しく癒されたに違いない。

 あのようなことがあったと察している夫ならば、うっかり詰ったり、責めたりしそうなものなのに……。

 エリザの兄は、優しくて心の広い男なのだろう。

「あの……お礼をしたくて……お待ちしておりました。夫が、一緒に夕食をと申しておりまして」 



 マリをシェールに預けてきてよかった。

 この豪邸に足を踏み入れたら、興奮して騒ぐにちがいない。

 ムテの家には極めて珍しい二階建であり、天井も高い。そこから豪華なシャンデリアが下がっていて、灯りが煌々と灯っている。維持費も高そうである。

 光の目で見たときの印象から、これはお客が来たときにだけ点けられるのだろう。この家には、あまりゆとりはないはずだ。

 ヴィラに導かれて奥に入ると、階段から二人の人影が降りてきた。

「ようこそいらっしゃいました」

 にこやかな微笑みをたたえたエリザの兄エオルである。その後ろに、無言で会釈だけする男……問題のエリザの父だ。

 ムテ人であるので、同じ年頃に見えるが、父親ははるかに年をとっている。寿命は、さほど残されていないと見た。

「こちらは、父のファヴィルです」

 そう紹介するのもエオルであり、父は口を開かない。眼光鋭くサリサを見つめるだけだ。

 精神を患っているのが明らかだ。だが、実に大人しかった。シェールの報告とは、やや感じが違う。

 ヴィラはややおどおどしながら、二人に混じる。ファヴィルには、日々暴力を振るわれているはずなので、怯えているのだろう。

 案内に従いながら廊下を歩いているうちに、サリサは気がついた。

 ファヴィルが大人しいのは、エオルの暗示のせいだ。客に無駄口を叩かぬよう、彼が暗示で押さえ込んでいる。

 心病で魔力が強まっているものを押さえ込むのは至難の業だ。よほど、このエオルという男は精神力があるらしい。

 魔力も強いが、それを制御する力も強い。自分の力に振り回されていたエリザとは、まさに対照的だった。


 振舞われるヴィラの料理は美味しかった。

 もちろん、霊山の食べ物と比べれば何でも美味しいのだが、それにしても美味しい。清楚で美しいうえに料理が上手となれば、本当に夫はうれしいだろう。問題の人がいなければ。

 その問題の人は大人しく食事をしている。もしもシェールの話を聞いていなければ、サリサも騙されたことだろう。

 妻の嘘を見抜いたはずのエオルは、微笑みをたたえたまま、サリサに何度もお礼をいう。妻を責めた形跡もない。よほど心が広い紳士だと見える。

 このままならば、楽しく美味しい夕食をご馳走になった……で済んだだろう。


 ところが……。

 ファヴィルがテーブルマットを持ち上げた。これは、皿の下に敷いていた紙製のもので、何の変哲もないものだった。

 貴重な紙ではあるが、この辺りは木材の繊維を叩いて作った手すきの紙も特産となっている。職人技が光る一品だ。

「見事な紙ですね。綺麗な模様が……」

 だが、サリサの言葉はそこで止まってしまった。テーブルの上の蝋燭の光にあぶられて、紙に文字が浮かび上がったのだ。

【その女はリューマの男と密通している】

 サリサは目を丸くした。

 ガシャンと、ヴィラがフォークを落とした。

「お父さん!」

 エオルが叫んで立ち上がった。

 そこで、エオルの暗示は解けてしまった。

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