誘惑は蜜の味・4


 蜜の村は、一の村などの霊山のふもととはまた違った雰囲気だった。

 石があまりなく、陶器を焼く窯もなく、森に囲まれているこの村では、当然のごとくに家は木で作られている。

 木々に囲まれた中、かわいらしい木造の家が点在している様子は、いかにもエリザが育ってきたところらしい感じがして、サリサは微笑んでしまった。

 今にも木々の陰から、小さな頃のエリザが飛び出してきそうな気がする。同時に、高度が高くて木々が少ない霊山は、エリザにとっては本当に異世界だったのだろうと思うと、少し心苦しかった。

 このようにのどかな田舎で、エリザと二人で暮らせたら……とも思って悲しくもなった。



 馬車はこの村の建物とは思えない立派な屋敷の前に着いた。

 銀色の髪をなびかせて、やや神経質そうな顔をした男が飛び出してきた。ムテにしては目の大きな、そう、エリザに似ている。

「ヴィラ! いったい何処に行っていたんだ!」

 男はそう叫んだが、すぐに客人に気がついて押し黙った。

 脹れた顔を冷やしたまま、ヴィラがおどおどと説明する。

「あの……蜜を探しているうちに、崖から転げ落ちてしまって……この方に助けていただいて……」

 明らかな嘘だ。しかし、それに合わせてサリサも胸に手を当て、お辞儀をした。

 男の目は、妻の嘘を見抜いてる。さすがに、エリザの兄だけあって、磨かれてはいないが魔の力は強いようだ。

 だが、真実を問いただそうという早急さはなかった。

「それは……ありがとうございます。何かお礼をしたく思います。あなたのお名前は……」

「名乗るほどの者ではありません。でも、しばらくはこの村の祈り所に滞在する者です」

 ムテだけに限らず、魔族の中で偽名を語るのは許されない。サリサという名前だけで正体がばれるとは限らないが、名乗らぬほうが無難だろう。 

 名乗れないときは名乗らないのが礼儀なので、相手もそれ以上聞かないのが常識である。

「では……後ほどお礼にうかがわせていただきます。私の名は、エオルと申します」

 男は、今にも倒れそうなヴィラの肩を抱くと、失礼、と軽く会釈し、家の中へと消えていった。


「何? あれ?」

 まだまだ子供のマリだけが、ぴんとこないようだった。あまりにそっけないお礼に、首をかしげていた。

「それだけ、妻が大事……ってことですよ」

 ほんの少しほのぼのとした気分で、サリサはつぶやいた。

 ヴィラは見かけ以上に傷ついている。特に心が、だ。サリサやマリに迷惑を掛けてはいけないと思い、気力で意識を繋いでいた。

 早く休ませてあげたいと思えば、どんなに礼儀正しい人であっても、その場をさっさと切りあげるだろう。




 サリサが向かう先は、祈り所の近くに住むシェールの家。そして、この村の神官のもとである。

 前もって連絡してあるので、シェールは馬車の音を聞きつけて家を飛び出し、大きな声でサリサを迎えた。

「待っていたわよ! 遅かったわネェ! サリーちゃん!」

「……サリーちゃん?」

 ニコニコしているシェールの前で、サリサは固まってしまった。

「あら? だって、霊山の使者が最高神官と同じ名前じゃ、おかしいでしょ? それに、サリーちゃんなら偽名にならないでしょ?」

 確かに、サリーという呼び方は、まだ口が回らない赤子がサリサの名を呼ぶ言い方だ。

「サリーちゃん?」

 案の定、おかしそうにマリが反復した。


 ……三年前のマリだって、もうサリサと名を呼べたのに。


 納得がいかないサリサを無視して、シェールはマリに挨拶し、これからはサリサをサリーと呼ぶのよ、なんて吹き込んでいる。

 心病が治ったシェールは、霊山にいたときよりもさらに元気度が増している。マリがシェールの意見を聞き入れると、豊かな銀の髪を片手で払い上げながら豪快に笑ってみせた。

「まぁ、とりあえずあがってちょうだい。蜂蜜菓子があるわよ」

「サリーは……ちょっと」

 と、ブツブツいいながら、サリサはマリに続いてシェールの家に入った。



 椎の村からここまで来るのに一日余計に時間がかかったせいもあり、マリはおなかがすいていたらしい。黙々と蜂蜜入りの焼き菓子を食べている。

 しかし、サリサは好物の甘い物にも目をくれず、シェールと真剣な話をしていた。

 サリサの持ってきた手紙に目を通し、シェールは本気なの? という顔をした。

「私は、あなたが駆け落ちしたっていいと思っていたんだけど……これ、本気なの? 本気でエリザを諦めちゃうの?」

 そう念を押されてしまうと、せっかくの決意が揺らぎそうになる。

「私は利用されるのもかまわないですけれどもね、もしかしたら、エリザだって、巫女姫をやり遂げたいと願っているかも知れないじゃない?」

 そうだとうれしいのだけれど、ありえない。

 あの祈りの夜以来、サリサは常にエリザの悲痛な声を思い出しては、苛まれている。

「村から嘆願書が届いて、しかも最高神官も認めたとなると……やり遂げたいと願っても、私ならば諦めて村に帰るわよ?」

「やり遂げたいと思う気持ちよりも、あの人は帰りたがっているのです。それを自分からは言い出せない立場に置かれていて苦しんでいるのですから……」

 シェールは、ふと空を見つめるように目を泳がせ、一瞬目を曇らせた。が、すぐにサリサのほうに向き直り、はっきりと言った。

「ねぇ、サリサ。祈り所は確かに嫌なところではあるけれど、そこに篭ったほとんどの巫女姫が、ちゃんと乗り越えてきた試練でもあるのよ? エリザだってきっと乗り越えることができるわ」

 私がそうよ……と胸を張らんばかりのシェールの自信に満ちた顔を見つめていると、思わず、そうだね……と言ってしまいそうになる。

 エリザにだって、使命に立ち向かい勝つ力がある。そう思えないだろうか?

 シェールの言葉は甘い蜜のように、サリサの耳から侵入し、惑わせるのだった。

「でも……。途中で乗り越えられなかった者もいます。エリザがその一人になってからでは、遅すぎる。それに、あの人が苦しんでいると思うと……」

 サリサは堪えられない。

 絶望したエリザの顔が忘れられない。ただ、憎しみだけでこの世に生を保っているような、壮絶な瞳。

 もしかしたら、乗り越えられるかも? では、甘すぎる。

 もしかしたら、乗り越えられないかも? という疑念を払拭できない。

「この手紙……。神官の元に届けられたら、もう後戻りはできないわよ。いいのね?」

 シェールは指先で手紙を挟んでかざしてみた。

 エリザを永遠に失うこと。

 決心はしていたはずなのに、なぜかすぐに返事ができなかった。


 その時、マリの声がした。

「きゃー! かわいい!」

 何事かと思えば、マリは部屋の奥にあったベビーベッドの中を覗き込んでいた。

 そこには、もう少しで二歳を迎えるシェールの子供が眠っていた。最高神官の子供シェルである。

 サリサは思わず立ち上がった。

 シェルは、サリサの初めての子供でもある。親子として扱われないせいもあり、普段は思い出すことも少ないのだが、まったく忘れているわけでもない。霊山にいた頃は、当時はまだお堅い仕え人たちの目を盗み、こっそり抱いたりしたものだ。

 シェールとの間には、仲間意識以外の愛情はなかったが、生まれた子供には父としての愛があった。

 だが、シェールはサリサの腕を掴んた。

「だめです! サリサ。あの子を見ないで!」

「え?」

 思いのほか厳しい拒絶。シェールの顔は、今まで見たことのないほどきつかった。

「あの子は、もう魔の力を持っている。あなたが抱けば、父親だとわかるから」

 サリサは苦笑した。

「だって……私は父親ですよ?」

「神官の子供に、父親は不要。家族は不要です」

 まさか、シェールのような自由な気質の女が、そんなことを言い出すとは思わなかった。

 それでも子供の顔を見たいと歩を進めたサリサを、体を張って止めさせる。

「学び舎に入った時、苦労するのはあの子なのよ? 父親の存在を知り、家族の愛を知っている者は、それだけで足枷あしかせになるわ」


 シェールの言葉は本当だった。

 サリサがそういう子供だったのだから。


 朝から晩までの勉学と祈りの日々。

 親の愛を知らない神官の子供たちは、苦しみながらも日々励んでいた。ところが、サリサときたら……。

 朝に夜に、家族の肖像を引っ張り出しては、涙に暮れる毎日だったのだ。

「このようなものを持っているから、おまえは大人になれないのです」

 そういって目の前で破り捨てられた肖像画を、サリサはどれだけ愛していたことか。

 もう、母の顔も姉の顔も兄の顔も弟の顔も、そして父も思い出せない。

 あの頃の自分の悲しみだけが思い出される。


 いっそ、何も知らなければ……どんなに楽でいられるか……。


 じわりと涙が出てくるのを耐え切ることができなかった。

「やあだー! サリサったら、いや、サリーちゃん! 何泣いているのさー!」

 マリのバカにした声が響いた。

 さすがのシェールも驚いている。

 でも、サリサは涙を押さえることができない。涙を拭きながら笑って見せたが、涙のほうは止まらない。

 強がってみても、唇が震えてしまう。

「……いや、ごめん。恥ずかしいなぁ……」

 霊山を離れてほっとしてしまい気が緩んでいるのか、子供返りしてしまったようだ。

 何も言わずに、シェールが歩み寄り、そっとサリサの肩に手を回し、抱きしめた。

 抱擁。そして、柔らかな感覚。まるで……母親。

 シェールの温かさが心地よくなってしまい、ますます泣けてくる。

 これがムテの珠玉・尊き人と言われる最高神官なのだから、我ながら情けない。

 こんな恥ずかしい姿は、エリザには絶対に見せられない。

 シェールはサリサの耳元で囁いた。

「サリサ。あなたはエリザのことばかり心配しているけれど。あの人のいない霊山に、あなたは堪えられるの? 最高神官であるあなたには、癒し手は必要ないの?」

 必要だ。

 銀のムテ人は、本来添い遂げる一人の相手を持つことで、精神的に安定する。巫女制度というものは、ムテ人にとっては必要な制度ではあるが、かなり不自然なことなのである。

「ねぇ、サリサ。急いているのはわかるけれど、もう少し考えたら? マサ様はマサ様にやりやすいように制度を変えていったんですもの。あなたにだって、そうすることは可能だと思う」

 それは言い換えれば、エリザという一人の女性を側に置きたいばかりに、わがまま勝手放題を尽くせ……と言っているに等しい。ひとたびわがままを言ってしまえば、間違いなくムテのことを無視して、エリザと添い遂げることだけを考えてしまう。

 サリサの迷いを全く理解していないマリが、横でブツブツ言っている。

「んもー! 何いちゃついてんの! ばーか!」

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