誘惑は蜜の味・2

 

 素晴しい天気の朝を迎える。しかし、晴れ渡った分、空気がより冷たい。

 まだ薄暗い中、サリサは地に膝をつき、祈る準備を始めた。

 二日間も祈らなかったせいで、ムテの結界は薄れている。元々この辺りは、霊山からの祈りが届きにくい地域なのだ。それを骨身に感じて、サリサは少しだけ焦っていた。

「この冬は光が弱いようです」

 などと、もっともらしいことを言って、マール・ヴェールの祠で三十日間の苦行に挑むことにした。わずかな乾パンのみの食事で、誰とも言葉を交わさない。祈りだけの日々である。

 しかし、まともに祈っていたのは三日間、サリサはお忍びでこの旅に出たのだ。


 かつて、そのような苦行を三十年間も続けた最高神官がいた。

 マール・ヴェール。祠の名の由来になった人物だ。

 その頃のムテは、危機的な時代だった。平和を愛するエーデムさえ軍隊があったというのに、ムテにはない。

 多くのムテ人がウーレンに連れ去られたのは、この頃である。

 ムテは実に能力の高い種族である。しかも、権力欲が乏しく従順。心が弱いので大事にしないと死に至るが、上手く順応させたらウーレン族の三倍は長生きする。しかも、観賞にふさわしい美貌の種族である。

今でも、ウーレンの王宮には、その子孫や当人が楽師や薬師、医師として働いているのだ。

 ムテの結界は穏やかなものであり、物理的な防御や敵に対する攻撃とはならない。ただ、ムテ人たちの精神的な防御と、他の種族の侵入を惑わす程度に妨害するだけなのである。

 不穏な時代に、民に精神的な安らぎを……。

 それが、マール・ヴェールの三十年間に渡る祈りの日々だった。


 が。

 サリサの時代、ムテはすでにウーレンの保護下にある。ムテの貴重な血を絶やさないことは、ウーレン族にとっても大事なことであるらしく、彼らはムテを守ってくれるのだ。

 三十年どころか、三十日祈るのでさえ不要だ。これが、霊山の仕え人たちと巫女姫を納得させるギリギリの線である。

 ついでに言ってしまうと、サリサの能力の限界でもある。

 サリサは、まだムテ人としては成長期にある。力を発散するにあたり、まだまだ無駄も多い。今、浪費しすぎるのは、あまりいいことではない。

 やれ、光の目だ、暗示だ、なんだといって、このところものすごい勢いで寿命を消費しているサリサだ。さらに、心病の時は今の比ではない。仕え人たちの大げさといえるほどの今までの苦労は、すっかり水の泡となったことだろう。

 サリサはぶるりと震えた。

 寒さのせいではない。口に出しては言えないが、サリサの寿命は仕え人たちが想像しているよりも、遥かに短くなっている。無駄な力を使って消耗するたびに、どれだけ死が近づいてくるのかわかるだけに、恐ろしいのだ。

 霊山の祠で祈る限りは祈りには問題がないが、このような場所では霊山の気を受けることができないので、非常に消耗してしまう。自分が望んで旅立ったとはいえ、力を出すには勇気がいる。

 祈りの時間は霊山の三倍である。集中して祈り続けなければ効果がない。

 陽の光は恩恵だ。今日が晴れていてよかった……。

 昇りはじめた太陽の光が地面を赤く染め始めた。小石一つ、野草一つさえ金に輝き、自らの影を黒く長く地に落とすころ、サリサの手の中に小さな太陽にもにた宝玉が生まれる……。


「ちょっと! 急いでるんでしょ? 何そんなところに座り込んでいるのよ!」


 ――あ……。途切れた……。


 祈り言葉の完結に失敗して、サリサは眉をひそめた。

 マリはもう馬の準備を終えたらしい。昨日の遅れを取り戻そうと苛々している。サリサも苛々としながら立ち上がった。一度切れた集中力を取り戻すのは、再び恐怖との戦いから始まる。

「マリも祈らなくちゃダメだよ」

 朝の祈りは、ムテならば日課のはずだ。

「だって、お母さんぐらいしかやってないよ? そんなこと」

 ケロリと言ってのけた。そりゃあ、リューマ族が祈ったところで何もないだろう。

 祈りは、ムテにとっては暗示力の鍛錬にもなるのに。マリの素質も育たぬうちに尽きてしまいそうだ。

 カシュとリリィは、本当に苦労するだろう。


 サリサの心配をものともせず、マリは馬車を進めていた。

いや、それどころかサリサが祈りに費やした時間を取り戻そうと急いている。時々鼻を鳴らず馬の様子が、イラついているようにも感じて不安だ。

 景色はやがて木々が豊かな森となった。

 晴れてはいるがすこし暗いのは、葉を落としたとはいえ、木々の枝が入り組んでいて空を覆っていたからである。

 夏になったら薄暗いくらいだろう。この森のいたるところに蜂が巣を作る。だから、この辺りは蜂蜜がたくさん取れる。そして、蜂蜜飴などのお菓子が作られているのだ。

 なぜか、風の香りがほの甘い。

 荷物の中から封書を出す。そこには、まだ封がなされていない。サリサは封書の中の便箋を取り出し、そっと目を落とした。

 内容は完璧。しかし、サリサの気分は晴れない。


 エリザはこの地で育ち、そして、この地に帰る。

 サリサは霊山で祈り、霊山ですべてを終える。


 不幸なエリザを近くで見るよりも、幸せなエリザが遠くにいると思えた方が、そして祈りがそのために役立つのなら……。霊山の日々はけして辛くはない。

 そう決心して旅立ったはすなのに、心のどこかが納得できないでいる。


「ぎゃー! こらこら、ぎゃー!」


 サリサの物思いを吹っ飛ばすかのような、突然のマリの悲鳴。何を? と聞くまでもなく、馬車が激しく揺れた。

 サリサの手から、便箋が離れた。

「ごめーん! 脱輪しちゃった。サリサ、大丈夫?」

「う……。手紙が……」

 頭をぶつけてしまい、大丈夫ではない。少し朦朧とする。でも、あの手紙は人に見られては困るものだ。何処へいったのやら。

 マリは、傾いた馬車から飛び降りると、サリサが落としてしまった便箋を拾った。乾いた枯葉の上に落ちたせいで、汚れてはいなかった。

 マリはその手紙をじっと見つめた。

 馬車の中からヨロヨロと顔を出し、手紙を見ているマリの姿を見て、サリサは真っ青になった。この内容は、マリにだって……いや、マリのように事の重大さがわかっていない者に知らせてはならない。

 慌てて馬車から飛び降りると、マリから便箋を奪い取った。

 そのせわしい態度に、マリは目を丸くした。

「サリサ?」

「その手紙を読んではいけません!」

「……あたし、字が読めない」

「はい?」

 ムテだけではなく、魔族の多くが密書に古代ムテ文字を使う。それはそれは大変複雑で難しい文字である。

 だが、この密書は、誰でも読める一般文字で書かれているのだ。マリが読めないのは大問題である。

 サリサは大きなため息をついて、手紙を封書に入れた。サリサにとっては助かったが、同時に困ったことである。

 ムテであれば、ただで教育が受けられるのだ。学校にいけないはずはない。

「なぜ? 仕事のせいで学校に行けないのですか?」

 マリは、てへへ……と笑った。

「だってさ、学校に行っても皆ヘンな目で見るしさぁ……。嫌になっちゃったんだもん!」

 つまり、行ったふりのサボりである。

 リリィとカシュの苦労が……ああ、もう何も言えない。

 おそらく、ムテ人の学校で『リューマ族に世話になっている子』ということで、冷たい扱いを受けたのだろう。

 マリがカシュを罵っていた言葉――あれこそ、学校で習った唯一のことかも知れない。

「えへへ、もういいんだ。あたしは、ムテよりもリューマっぽく生きるから」

 確かにリューマ族のほとんどは文盲である。彼らには教育を受ける権利がない。

 でも、カシュたちは、マリが学校で受けたような罵りや冷たい視線を浴びてきただけではない。実際に厳しい差別を受けてきている。彼らはマリのひどい罵倒でさえ笑って相手にしていないではないか? それは、たいしたことではないからである。

 そう、ヘンな目で見られただけで逃げ出していては、リューマ族はムテで生きられないのだ。

 罵りに耐えきれないマリは、ムテらしく教育を受け、ムテらしく振る舞うべきだ。

 サリサは顔をしかめた。

「よくありません。学校に行かなくては……」

「サリサって、けっこううるさいんだなぁ……」

 ブツブツふくれながら、マリは馬車の様子を確認しだした。

 道横の小さな水の流れに片輪が完全に落ちている。馬一頭だけで戻せるものなのか、少し不安な状態だ。

「うるさいのは、マリのことが心配だからですよ」

「だいたい……。サリサって話し方が固くてつまんない!」

「別に受けようとして話しているわけではありませんから」

 ついつい口げんかである。

 子供相手に……とは思うのだが、急ごうとする気持ちがさらに苛々を募らせた。



 馬車をどうにかしなければ、先に進めない。

 川にはまってベショベショになってサリサが馬車を押し、マリが必死に馬を動かしても……馬車はピクリともしなかった。

 誰かに助けてもらうしかない。あまり通らないだろう別の馬車を待つしかない。

 虚しく道端に座り込み、お昼を食べることになる。

 リューマの女たちが持たせてくれた食料だ。しかし、旅は余計に時間がかかっている。さすがの上等なライ麦パンも少し硬くなっていて、歯が立たない。

 サリサは、はぁ……と、ため息をついた。

 隣でマリもため息をついた。さすがに、自分が悪いと反省したのだろう。

「サリサ、ごめん」

「いいんです。もう……。私も言い過ぎました」

 と言って、サリサはふと思った。

 普段から最高神官らしくあれ……と思っているから、話し方が説教臭くなるのかも知れない。カシュにも「どこか神々しい」とか言われてしまったし、一般人っぽくないのかも知れない。

 霊山から離れたのだから、最高神官の肩書きを外して気さくに話さないと、正体がばれてしまうかも? などと、マリの言葉にも納得できないでもない。

 サリサは、子供時代を思い出してみた。

 もっと素直に本音を言ってみよう……。

「学校は確かに嫌だ。うんざりだ。『僕』は五十年間も学び舎に入れられたんだから……」

 なぜか、妙に開放感を感じた。


 最高神官であるということがどれだけ負担になっていたのか、霊山を離れてみてはじめてわかったような気がする。同時に百年も子供をやっていたのに、大人になってしまったら、その頃を忘れていることにも驚いた。

 旅の目的も何もかも忘れて、子供の頃に戻れたら……などと、一瞬の夢に浸ってしまった。


 その時、馬車の音がした。

 サリサとマリは耳をそばだて、木立の向うから馬車が姿を現すのを待ち続けた。

 が、いくら待っても現れない。そのかわり……。

「きゃーーーーーー! やめてください! 誰かアアアア!」

 けたたましい女性の悲鳴。

 二人は顔を見合わせた。

「たすけてーーーーーー!」

 サリサとマリは、慌てて声のほうに走り出した。

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