誘惑は蜜の味

誘惑は蜜の味・1


 私なら、大丈夫……。

 ちょっぴり辛いけれど、がんばれるから。サリサ様。


「でも……」


 あと一年とちょっとしたら、ちゃんとあなたの元に帰るから。


「でも、あなたは……」


 あの時は、ただ少し落ち込んでいただけ。そういう日もあるものでしょう?


「でも、私は……」


 ここまでがんばってきたんじゃない。もう少しで会えるのよ?

 だから、私を村に戻すなんていわないで……。


 つぶらな瞳が真直ぐにサリサを見ている。

 変わらない笑顔……いや、これほど明るく笑うところはみたことがないほどだ。

 すっと伸ばしてサリサの手に重ねた手の積極さも、不思議なくらい。逆にこちらが戸惑ってしまうほど。

 その手の感覚は柔らかい。思わず、指を絡ませて引き寄せてしまう。

 甘ったるい言葉を吐く唇は、ふっくらと艶っぽい。それがどんな味なのか、サリサはよく知っている。

 さらに言葉を続けようとするサリサの唇を、そっと指で抑える。


 でも……は、なし。

 唇が揺れた。


 そう、目の前にいるのは、サリサがよく知っている少女だ。

 そう、彼女は戻ってくる。彼女もそれを望んでいる。


 ――手放そうなんて今更思うのは、かえって裏切り行為だろう。


 でも……はない。

 ただ、その名を呼べばいい。


「エリザ……」




「バカヤロー!」


 がすんっと頭を殴られた。一気に目が覚めてしまった。

「ひどいなぁ、もう! 女と寝ているときに、別の女の名を呼ぶなんて最低!」

「は、はぁ?」

 サリサはよろよろと起き上がり、隣に毛布をすべて奪い取って寝転がっているマリの顔を見た。

「な、何? 今の台詞せりふ……」

「こういう場合は、そうだろ! リューマの奥さん連中が、ダンナさんを追い回して怒鳴っていたものさ」

 マリは不機嫌に寝返りをうつ。毛布が体に巻きついた。すっかり蓑虫状態である。

 馬車の中は狭く、幌越しに月明かりが射してほの明るい。

 目が覚めたら急に寒くなった。久しぶりの旅だということもあって疲れているから、この寒さでも目を覚まさなかったのだ。

 結界の力が弱かったなら、朝までに凍死していたかもしれない。

「悪いけれど……。一緒に包まってもいいかなぁ?」

「女の扱いには気をつけろよ。一緒に寝てもらいたいならな!」

「それは誰が?」

「オヤジが部下によく言っている」

 はぁ……と、サリサはため息をついた。



 椎の村を出てその日のうちにエリザの故郷に着くはずだった。

 しかし、マリはやはり子供で、しかもムテである。口ばかりは勇ましいけれど、馬車の扱いはまだまだ未熟だったのだ。

 三度の暴走で百年も寿命が縮まった気がする。しかも、道が違う。どうにか街道に戻れたものの、とっぷりと日が暮れてしまい、馬車中で一夜を明かすことになってしまったのだ。

 これでは、帰りも少しゆとりを持たなければなるまい。


 しかし、それにしても……。

 マリの教育に、リリィは苦労しそうだ。

 言葉や言い回しをしっかりと覚える成長期に、リューマ族と過ごしてきたため、ムテらしからぬことを話す。今後もそうなってゆくだろう。

 でも、馬車が上手く扱えないことひとつ見ても、マリはムテ人なのだ。リューマにはなれない。

 ムテのか弱さとリューマのガサツさを持った娘になってしまったら? と思うと、リリィとカシュの苦労が思いやられる。

 ため息が出てしまう。

 マリはまだまだ恋愛にほど遠い年齢だから、自分が発した言葉の意味を知らないのだ。

 今のような下品な話は、ムテでは意味が通じない。

 ムテ人は、心が満たされなければ、通常、性的な興奮は起きない。

 だから、リューマ族のように、性的欲求を満たすために女を買う、なんてこともないし、むらむらっときて、つい……なんてことも、聞いたことがない。

 もちろん、恋愛事の争いはある。横恋慕や片思いは、恋愛につきものだ。だが、心というものは、複数の相手とは共用できないものである。

 ムテ人が相手に求めるのは、肉だけではありえず、常に心を伴ったものなのだ。

 ゆえにもしかしたら、恋愛事の確執は他の種族よりも激しいかもしれないが、比較対照するほどにサリサは他の種族を知らない。


 ムテに浮気はない。

 あるとすれば、本気である。


 このようなムテ人の性質が、巫女制度成立の背景にあるのだ。

 ただ一人の相手としか許さないのが当然であるゆえに。愛に誠実であるゆえに。

 皮肉と言えば、皮肉である。

 貴重な血は途絶えようとしている。選ばれた者だけは、血を残すための行為を神聖化する必要があった。もしも自然に従えば、今頃ムテに神官はいないだろう。

 マサ・メルは正しかった。

 彼は、巫女姫に心を許さなかった。

 その点でも正しかった。

 巫女姫の多くは、彼の美しい容貌にも関わらず恋に落ちることもなく、巫女姫を終えた後、生涯の伴侶を見つけてひとつの心を捧げた。

 誰もが、神官との関係は愛とは別のものと、割り切れる。

 ムテ人の性質を考えると、限りなく正しい。

 自身がおかれている立場と責任を考えれば、そして相手を思いやる気持ちがあるのならば。

 サリサは間違えたのだ。

 けして選んではいけない人を選んだ。

 愛しあう喜びを知ってしまったがゆえに、愛のない行為は余計に味気ない。


 夢に出てきたエリザの姿は、サリサには甘ったるい誘惑だ。

 揺るぎかける決断を自分の都合のいいほうに向けようとする、甘美な夢。

 そして、明日はきっと苦く重たい夢を見る。祈り所で苦しんで死にかけているエリザの夢だ。

 だから……。

 せめて、今夜は甘い夢を見せて欲しい。

 夢の少女を抱きしめて、温かい感触に浸りたい。

「マリ、お願いですから……毛布を分けてください」

 蓑虫の皮を剥ぐように毛布を引っ張り、無理やり体を押し込める。

 そして願う。

 一緒に毛布に包まりながらエリザの名を呼んでしまっても、許してほしいと。

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