冬恋・13
サリサは丸一日休養して目を覚ました。
ちゃんとお願いしたとおり、マリは湯たんぽを作ってくれたらしい。回復が早かった。
しかし、湯たんぽにした薬草は、サリサが今回の旅の目的で、一番役に立つのでは? と考えて用意したものだった。マリは見事に使いきってくれた。
こんな状態で蜜の村に行って、いったい何ができるというのだろう? 何もできないかもしれない。サリサは憂鬱になった。だが、もう行くしかない。
小春日和のいい日になりそうだ。
旅立ちにちょうどいい。リューマの女たちはサリサのために食料を用意してくれているし、マリとリリィは馬車の準備をしている。
どうやら……。
期待したような進展はなく、リリィとカシュは別れてしまうのだ。少し寂しいが、それが二人の決断なのだから仕方がない。
お別れの挨拶にカシュの部屋に向かったら、どっと笑い声が響いていた。
「さっすが、親方ですぜ! 素手で竜をぶち殺せる男は、世界広しと言えど、カシュしかいねえ!」
がはははは……とカシュの笑い声が響き、その後でイテテ……と悲鳴が聞こえた。
まだ傷が癒えていない。笑えばお腹の辺りが痛むはずだ。内臓が飛び出す寸前の大けがだったのに、たいした男である。
リリィにふられて落ち込んでいるのか? と思えばそうでもなさそうだ。いや、部下たちは皆、リリィの旅立ちを知っている。きっと、その手前やせ我慢をして、わざと明るく振舞っているのだ。
リリィの話には触れないでおこう……と、サリサは思った。
「やぁ、世話になったな!」
扉を開けたら、片手を挙げ、奇妙なくらいに明るい声で、カシュは言った。
「こちらこそ、お世話になりました」
サリサは頭を下げた。そしてふと、ベッドの下にある物を見つけて顔をしかめた。
「カシュさん、あなたはまだ回復しきっていないんです。抜糸するまでにあと五日は必要です。無理は禁物です」
「心配するなって! 俺は竜を素手で倒す男だぞ!」
「そうですよ! 親方はすごい人ですから」
「土竜の肉を十日は食べられまっせ!」
「ついでに蝋燭も作ったし!」
「へへへ、椅子に皮を張ったしよ!」
「骨は土産物のお守りにするんでさぁ!」
……さすが、無駄のないリューマ族である。
しかし、誰もカシュの体のことを気にしないのは困る。このままでは無理をしてとんでもないことになってしまいそうだ。
「だからと言って、酒盛りはいけません」
ベッドの下には酒瓶が転がっていた。
扉がそっと開く。誰もが急に静まりかえった。
リリィが別れの挨拶に来たのだった。
「あ、じゃあ、俺は……」
などと言って、一人二人と部下たちが退席した。
「あ、サリサ様?」
「私も荷物をまとめなくてはいけないので……」
そして、誰もいなくなった。
明るい日差しが差し込む部屋で、リリィとカシュは二人きりになったのだ。
だが、それは部屋の中の話である。
部下たちは外へ出ると、皆一斉に壁に耳を当て、話に聞き入った。まったく、品がないことである。
呆れながらも……サリサもついつい真似をした。
もどかしい二人のすれ違いは、誰だって気になるだろう。
「もう行くのか?」
「……ええ、本当にお世話になりました」
「気ぃつけていけよ」
「はい」
何ともありきたりな会話で、誰もががっかりしている。
「親方、竜には勝てても女に弱すぎ!」
「ばか、静かに……」
「あぁ、リリィさん」
「はい?」
「何か困ったことがあったら、いつでも尋ねてこいよ」
「ありがとうございます」
一瞬聞き耳が大きくなったが、再び意気消沈。
誰もがこの二人を応援しているのに、本当に恋愛事というものは上手く行かない。
たった、あと、一言なのに。一押しで上手くいくのに。
「あ、カシュさん」
「うっ、な、何?」
「あ、あの……せめてけがが治るまで、お酒は止めてくださいね」
「う、わ、わかった。そうする」
「では、これで……」
じれじれした部下たち。
「そんなに心配なら、残って看病しろっていうの! 親方が酒を断てるわけないだろ!」
「あ、リリィさん」
……もう誰も期待していない。
呼び止められて、リリィは振り返った。
カシュはなぜか腕を曲げ伸ばししていた。
「リリィさん。ちょっと来てくれないか?」
少し沈んだ低い声。リリィは恐る恐るカシュに近づいた。
「ちょっと手を出してくれ」
リリィはきょとんとしながらも手を出した。
すると、突然、カシュはその手をしっかりと掴んだ。
「きゃ!」
悲鳴を上げて、リリィがベッドに倒れこむ。
カシュは、リリィの手を自分の腕の上においた。
太くて浅黒い色の腕と華奢で真白な手。まるで正反対だった。
「リューマ族はムテよりずっと強い」
手を押さえ込まれて、リリィは真っ赤になってしまった。
力の差は歴然としている。何をされても抵抗できない。ムテの女など、片手でひねりつぶされる。
だが、カシュはただ、リリィを引き寄せただけなのだ。リリィがか細いので、このようなことになっただけで。
「俺はな、この腕で竜さえも倒した男だ」
リリィの添えた手の下には、強くて逞しい腕があった。その下でドクドクと打つ脈の速さに、リリィの鼓動も忙しくなる。
「俺はリリィさんのお願いを聞いてくたばるような、軟な男じゃないんだ。殺されても死なねぇ。だから、何の心配もしないで、俺を頼れ」
「カ、カシュさん……」
しばらく二人は見つめあった。だが……。やがてカシュはリリィの手を放した。
「だからな、あの、その……困ることがあったら、いつでも俺を頼ってこい。いいな?」
そういうと、カシュは寝込んで布団を被ってしまった。
振り絞った勇気がつきて、耐え切れなくなってしまったのだ。
リリィは、しばらくカシュの様子を見ていたが、頭を上げないのを見てうつむいた。ぬくもりの残る手を押さえて……。
「さようなら、カシュさん」
バタバタバタ……と走り去る音。
激しく開かれた扉に鼻をぶつけたリューマたちにも気がつくことなく、リリィは去っていったのだ。
ベッドの上では、布団に包まったカシュが男泣きしていた。
風もなく穏やかだった。
放牧場の防風林も枝を一揺らしもさせない。
サリサはリリィを追いかけた。そして、後ろから言葉をかけた。
「リリィ、本当にいいのですか?」
「本当にいいんです!」
泣きそうな声が返ってきた。いや、泣いているのかもしれない。
「ごめんなさい。遅くなっちゃいますね」
リリィは涙を拭いたようだった。
二人はそういう結末を選んだのだ――
――だから、それでいい……。
避けることができる苦労ならば、抱え込まないほうがいい。
お互いを不幸にしてしまいそうならば、最初からあきらめたほうがいい。
夢物語なんかじゃない。現実なのだから。
サリサは馬車に乗り込んだ。
リリィも馬車に乗ろうとした。が……。
「だめ! お母さんは乗っちゃだめ!」
御者台の上から、マリの声が響いた。
「え?」
リリィは驚いて幼い娘の顔を見た。マリのほうはというと、つんと上を向いてすましている。
見ると、積み込んだはずのリリィの荷物が、近くの台座の上に下ろされている。
「本当にお母さんは嘘つきなんだから! お母さんは、いつも『恩を仇で返しちゃダメ』って言っていたじゃない! このままカシュさんを見捨てて行ったら、嘘つきになるよ!」
「え? だって……マリ……」
「カシュさんには厳しく看病してくれる人が必要なの! 放っておくとあの人、酒は飲むし無理するし、死んでしまうかもしれないよ!」
リリィの顔が青ざめた。
「あぁ、そうかも知れませんね。酒瓶が三本も転がっていましたし……」
本当は一本だが、ここは大げさに言って援護射撃してもいいだろう。
「でも……でも……マリ」
「お母さんは一人じゃないんだよ! マリもいるんだよ! お母さんがカシュさんに無理を言ったときは、マリが止めてあげるから」
「マリ……」
「いつも二人でがんばってきたんだもん! 当然だよ!」
リリィはぽろぽろ泣き出した。
「……本当にいいの?」
「もー! しつこいなぁ! お母さんの問題でしょ! いい? サリサとあたしが戻ってくるまでに、ちゃんと気持ちをカシュさんに伝えておくんだよ! あたしもその間にカシュさんのこと、お父さんって呼ぶかどうか、決めておくから!」
マリは子供だ。
これから生じる事態なんて、想像もつかない。
だが、経験をつんで賢くなってしまった大人たちは、訪れるだろう困難を考えて、時として臆病になりがちだ。
不幸を知っているから。辛いことを知っているから。もう、傷つけ傷つきたくはないから。
一番大事なことに目をつぶり、幸せになる希望よりも不幸になる絶望を恐れる。
だから、たまにマリのような子供になって、自分の気持ちに素直になって走ることもいい。
これから訪れるだろう、苦労なんか考えず。慎重になりすぎず。
すべて、困ったときに考えればいい。
サリサは、それでもウロウロしているリリィの背をくるりと反対向きにした。そして馬車に乗りこんだ。
「では、行ってきます。あなたはあちらに行くんです」
リリィが向いた方向には、リューマの人たちが喜び勇んで手を振っている。
誰もが、リリィとカシュを応援している。
たとえどのような困難があろうと、きっと誰もが力を貸してくれるだろう。
しかし、リリィはその方向には向かわなかった。御者台に駆け上がり、マリの顔にキスをする。
「マリ、ありがとう! 気をつけて行ってらっしゃい!」
そういうと、リリィは馬車を飛び降りる。そして手を振る。
マリはもう何も言わず、馬に鞭を当てる。思わずよろけるひどい発車だ。気を取り直して振り返ると……。
一目散に屋敷に向かって走り出すリリィの姿が見えた。
……春の香りがする。
まだ、いくらなんでも早いかな?
つい、歌でも歌いたくなる気分……。
「もう、本当にお母さんったら」
マリは、どっちが親なのかわからないこましゃくれた口をきく。サリサはクスクスと笑った。
「マリはえらいね」
そういって頭を撫でると、マリは嫌がった。
「よしてよ、あたし、もう子供じゃないもん!」
充分に子供であるが、少しはお姉さんになったかもしれない。お母さんに一番いいことをしてあげた。
「お父さん、お父さん……うーん、だめだ! あんなヤツをお父さんなんて呼べないや!」
マリはブツブツ独り言。だが、突然ひらめいたらしい。
「! オヤジ! これだ!」
……ダメである。
美形揃いのムテの中でも美しい女性になりそうなマリだが、サリサにはその生い先が怖い。
「ところでサリサ、どうしてサリサは蜜の村に行くの?」
サリサは、ふっと空を見た。
「蜜の村ってね……。エリザのふるさとなんだよ」
「ふーん」
マリはしばらく黙りこんだ。
「やっぱり、この間の変な女よりも、サリサにはエリザがいいと思うよ」
サリサは再びくすくすと笑う。だが、すぐに真顔になってしまった。
エリザに何をしてあげられる?
何ができる?
今、ムテの最高神官である自分にできることは、何もない。
できることといったら、エリザの家族を癒して、少しでも幸せだった昔に戻してあげること。
彼女に自由を与え、故郷に帰してあげること。
自分のわがままで振りまいた不幸を、少しでも取り除いてあげることしか。
……手放してあげるしか、できることは何もない。
そう思うと……好きな人にあれだけつくせるリューマ族のカシュの、自由な立場が羨ましい。
=冬恋/終わり=
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