冬恋・10
馬小屋の隅に潜んでいたところを、マリはリューマの女たちに発見された。
「こら! このいたずらっ子め!」
と、頭をこつんと叩かれて、ペロッと舌をだして笑っていた。
「えへへ……」
しかし、そのいたずらが笑い事ではないと知るまでに、たいした時間はかからなかった。
雨も風もずいぶんと大人しくなっていた。
だが、まるで嵐のように、どやどやと泥だらけの男達が戻ってきたのである。
何人かは足をくじいたらしく、仲間に肩を借りて歩いていた。
「いったいどうしたんだい!」
悲鳴のような声を上げる女たちに、男が短く指示を与える。
「お湯! 水! 薬! 火鉢!」
マリは、ばたばたと目の前を通りすぎる大人たちを、あっけに取られてぽかんとして見送った。
そして最後に……急ごしらえの担架に乗せられて運び込まれたカシュの姿を見て、ひっ、と小さな声を上げた。
カシュは死んだように見えた。
倒木にマントを広げて作った担架からは、ぽたぽたと、泥と血が混じったような雫が落ちていた。
体格がいいカシュだ。担架は四人で運ばれていて、横にサリサとリリィが付き添っていた。その隙間から見えるカシュの顔は、土色だった。
サリサが止血のために布と手を当て、反対側でリリィがカシュの手を握りしめ、必死に何か話しかけている。
リリィは確かにマリの横を通った。
担架越しに、正面に、マリは母親の顔を見た。
だが、リリィはマリに気がつかなかった。全く気がつく様子はなかった。
その視線は、ただ真直ぐにカシュに注がれていた。心もすべて、担架の上の生死も定かではない男に向かっていた。
蒼白な顔をして、涙を浮かべて……。
そのどれもこれもが、マリには向けられてはいなかった。
そこにいるのは母ではない。愛しい男にすがる女の姿だ。
「お……母さん……」
マリは呆然として担架と母親を見送った。
マリのいたずらを小突いて怒ってくれたリューマの女たちも姿を消していた。水やらお湯やらを用意するため、慌てて行ってしまったのである。
マリはたった一人、残された。
サリサは、深い後悔に襲われていた。
嵐のために惑わされてしまった。
いや、嵐だからこそ冷静でありさえすれば、ムテでなくても、リューマ族でも、あんな簡単なマリのいたずらには引っかからないはずだった。
あの嵐の中、小さな子供がすたすたと歩けるはずがない。
持っている蝋燭の火が、風にも雨にも負けずについていることはありえない。
崖を迂回しないで降りられるはずがない。
竜を恐れずに歩いてゆけるはずがない。
考えれば考えるだけ、結論はたった一つしかなかった。
ムテの子供だましに引っかかった――
おそらく。
マリは、母親の注意を引きたかったのだ。
カシュよりも自分を見ていて欲しかっただけなのだ。
だから、馬小屋の隅で泣いているうちに、とんでもないいたずらを思いついた。
自分の幻を作り出し、遠くへ行かせたら……。
きっと、母は心配してくれて、マリをどれだけ大切に思っているか……を思い出す。
そんな、些細ないたずら心だったのだ。
おそらく、最初に幻を見たのがサリサだったならば、小さな子供の作り出した幻影など、すぐに見抜いただろう。だが、リューマの単純な男達は、見事に引っかかってしまった。
自分がいながら……と、悔やまれてならない。
嵐にまどわされながらも、ムテの最高神官ゆえに真っ先にマリの子供騙しの幻を見抜いた。しかし、伝えようとしたときには、もう誰もが動揺していて、上手く伝えられなかった。
だいたい、リューマ族にはムテにこんな能力があるとは、想像もつかなかっただろうし、知っているリリィは完全に正気を失っていた。
すべてが終わってしまったならば、あの時こうすればよかった、ああすればよかったと思うもの。
そう……さっさとリリィに暗示をかければよかった。いや、リリィが一緒に行く! と言ったときに止めていればよかったのだ。
だが、もう元には戻れない。
できることは、今できることに力を注ぐことだけだ。
目の前にいる男は、間違いなく死にかけている。だが、絶対に死なせるわけにはいかない。
サリサの目の前で、カシュは土竜の爪で裂かれた。しかし、この男、さすがに屈強だけあって、胸から血を流しながらも倒れなかった。
竜の腹の下に潜り込んだかと思うと、皮の柔らかい部分に短剣を突き刺した。それでも、土竜の皮膚は硬い。短剣の刃はボロボロになり、使い物にならなくなった。
もう竜を倒す武器はない。カシュに勝ち目はなかった。
サリサは必死に神経を集中し、再び竜に暗示をかけようとした。先ほどの放出で、もう竜を押さえることはできないかもしれない。
もともと、ムテにはエーデム族の結界のような戦闘に対応する力はないのだ。子守唄で寝かしつけるような、そんなことしかできない。
興奮している竜がそんなもので寝るものか? でも、それしかカシュを助ける方法はないのだ。
ところが、信じられないことが起きた。
カシュはボロボロになった短剣を捨てると、大きな雄叫びを上げながら、土竜に掴みかかっていったのである。
そして、サリサが唖然としている目の前で、なんと、殴る・蹴る・最後は投げるで、竜をやっつけてしまったのだ。
これは、火事場のバカ力というヤツに違いない。
でも……。
この男と喧嘩にならないで本当によかった。
運び込まれた部屋で、サリサは青くなりながらもカシュの傷を縫っていた。
余りにもむごいカシュの姿を見て、部下が大の男のくせに泣き出してしまった。
「ううう、コイツは駄目だ。親方は助からねぇ……」
情けない声を上げないで欲しい。気が散って倒れそうである。
「ここを何処だと思っているのです? 癒しの技と妙薬で知られるムテの地なんですよ」
その上、私は最高神官なのだ……という言葉を、サリサは飲み込んだ。全くの役立たずの肩書きなど、意味もない。
確かにこの傷でよくあれだけのことができたものだ……と感心する。と同時に、これだけ丈夫なのだから死ぬはずはないとも思う。
サリサは汗を拭いた。
まさか、蜜の村で使おうと思っていた薬草のほとんどが、ここで消費されることになろうとは……。サリサの予定は大きく狂っていた。
でも、仕方がない。
きっとエリザが側にいたとしても、そうして欲しいと言うだろう。
お湯でカシュの体を拭いていたリリィだったが、リューマの女が耳元で何かを話して……その場を離れた。
「お嬢さん、馬小屋にいたみたいです」
リリィは部屋を出ると、食堂の片隅でひとりぽつんと座り込んでいるマリを見つけた。
「お母さん……」
マリは情けない声を出した。
母は、常に「人様に迷惑を掛けてはいけない」とか「恩を仇で返してはいけない」とか、そういうことをマリに言ってきた。
それ以外のいたずらならば、多少目に余ることでも優しく許してくれていたのだ。
だが、今回は怒鳴られるだろう。罵られるだろう。
カシュはマリのせいで死にかけている。他にも何人かが足をくじいた。
リューマの人たちは何も言わないが、たぶんマリに腹を立てているに違いない。
そして、母も。リューマの人たちに、カシュに、恩を仇で返してしまったのだ。
「お、お母さん、ごめんなさい。あ、あたし……」
しかし、リリィはマリに走りよると力いっぱい抱きしめた。
それは、本当に痛いくらいで息も止まるくらい。か細い母親のどこにそのような力があるのだ? と思えるほどに。
「……よかった」
涙ぐんだ声で母は呟いた。
「……本当に無事で……よかった……」
母は心からそう言ってくれたのだ。
うんと悪いことをして、死にかけている人さえいるのに。その人はお母さんの大事な人だったのに。
でも、母はマリが無事なことに、その事実に一番感謝しているのだ。
「お母さん、ごめんなさい!」
マリは泣いた。
母の言葉は、マリのいたずらの目的どおりの言葉だった。欲しくて欲しくてたまらない言葉だった。
だが、マリは悲しかった。
そんな言葉を得ようとしていた自分が虚しかった。
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