冬恋・9


 激しく雨に煙ながらも闇に浮かぶ不気味な光。

 邪悪な色をたたえている――しかし、どういうわけか、マリの足取りは恐れることもなく、その群れに向かって進んでゆくようだ。

「キャー! キャー! キャー!」

 リリィはすっかり気が動転し、サリサの腕を飛び出してそのまま崖から飛び降りるところだった。

 ほんのわずかな差で取り押さえることができた。

 さすがのカシュたちも足が前に動かない。マリは全く止まろうとはしない。

「放して! 放してください! サリサ様! あの子が! マリが!」

「落ち着いて! 落ち着いて、リリィ!」

 子供が目の前で竜の餌食になるまで、あとわずか……それで落ち着ける親がいるだろうか? いるはずがない。

 ましてや、マリとリリィは二人でがんばって生きてきたのだ。普通の親子よりも、ずっと絆が深い。

「いやあああ! 誰かぁ! マリを助けて!」

「落ち着いて! リリィ、あれはマリじゃない! 幻です!」

 サリサは叫んだが、錯乱したリリィの耳には入らない。風の唸る音のせいで、誰の耳にも届かない。

 リリィの声は、サリサの声よりもはるかに甲高かった。

 いけない! と思ったときには、もう遅かった。


 カシュの頭の中は、真白になっていたのだ。

 ただ、リリィの声だけが響いて……。


「うおおおおおおおーーーーー!」


 雷にも負けない雄叫びを上げると、カシュは腰から短剣を引き抜いた。

 そして、あっという間に崖を飛び降りた。崖下でしりもちをつき、一瞬ひるんだが、すぐに立ち上がると再び雄叫びを上げて、竜の群れに突っ込んでいった。

「駄目! いけない!」

 サリサは叫んだ。

 今度はカシュの耳にも入ったはずだ。しかし、彼は止まらなかった。

「親方ぁあああ!」

 リューマの仲間たちも叫んだ。

 竜の群れに恐れをなしていた彼らだが、親方の一大事である。

 皆、それそれに短剣を引き抜くと、カシュと同じように叫び声を上げて崖を下っていった。

「ああああ! 駄目です! 駄目ですってば!」

 さらに後を追おうとするリリィを押さえ込みながら、サリサは叫んだ。が、もう駄目だ。

 崖下には何人か足をくじいたのか、倒れこんでいるものがいる。

「私も! 私も行きます!」

 泣き叫ぶリリィに、サリサは怒鳴った。

「あなたはそこにいなさい!」

「はい」


 これは、リリィの意思ではない。

 サリサの暗示である。

 もう寿命がどうの、明日がどうのなどと言って、力の出し惜しみはできない。


 サリサも崖をすべり降りた。そして、リューマ族たちに暗示を掛けた。

 あなたたちの足は折れている……と。

 前を走っていたリューマの仲間たちは、皆一斉にもんどりうってひっくり返った。もちろん、折れてなどいない。彼らがそう思い込んでしまっただけだ。

 ぬかった地面なので、派手に転んでいるが、たいしたけがはないだろう。


 だが、カシュは止まらない。

 カシュに届くだけ、効果があるだけの、いや、ムテ人だって掛かるほどの力を、サリサは使ったはずなのに。 

 通常、暗示に何の抵抗力もないはずのリューマ族である。サリサが本気を出せば、暗示に掛からないはずはないのだ。

 しかし、彼は暗示を受け入れるよりも強く、リリィの言葉を受けていたのだ。

 リリィは銀のムテ人である。

 最高神官ほどの力はないが、暗示の力は持っている。

 マリを助けたい一心になって叫んだので、自然と暗示の力が働いてしまったのだ。

 そして、カシュ。彼のリリィを思う気持ちが、その暗示を強めてしまった。

 カシュは今、何も言葉を受け取れる状態にない。


「うわっ! これってすごくまずいかも!」

 サリサは必死になって走った。

 カシュが、竜に向かって短剣を振り上げたのが見えた。


「駄目です! カシュ!」


 叫んだとたん、泥に足をとられて転んでしまった。これ以上、先に行くことは無理だ。

 充分に力は溜め込んだ。

 もう自分に対しての結界も外している。すっかり泥まみれである。


 ――すべてをこの祈りに集中させて。


 問題はこの距離で届くかどうかだが、もう体力の限界で走れない。

 もとより体力なんてないムテ人だ。しかも霊山に篭って祈ってばかりの最高神官に、リューマ族並の体力を期待してはいけない。

 サリサは意識を集中させた。


「土竜たちよ! 家に帰って眠りなさい!」


 サリサのいる場所から、泥の上を白い波が渡っていった。

 竜たちに当たって白い煙のようにかすんで見える。

 これは単なる物理的に派生した余波というもので、本来の力はそれよりも先に竜に達しているはずだ。

 気狂いに暗示はたいした効果はない。だいたい、動物が暗示に掛かるものだろうか?

 だが、何もしないよりはましだろう。少なくても、カシュが竜から逃げだすだけの隙はできるはずだ。

 ところが。

 サリサの予想以上に、暗示は効いた。

 一瞬ほっとする。

 巣穴に水が入っていたわけではないのだ。ただ、雨で興奮していただけで。竜たちはほわんとした顔をして、巣穴の中に戻ってゆく。

 ただ一頭、カシュが短剣を突き立てて興奮させてしまったヤツを除いて……。

 サリサの血は凍りついた。


「カシュさん!」


 竜とカシュは、もうすでに戦闘状態に入っていたのだ。

 こうなってしまっては、ムテにできることはほとんどない。

 竜の爪がカシュの体を切り裂く瞬間、サリサは思わず目をつぶった。

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