冬恋・8
食堂に甲高い平手打ちの音が響いた。
「マリ! なんてことをいうの! 私たちはカシュさんのおかげでこうして生活できているのよ! 私は、あなたをそんな恩知らずに育てた覚えはないわ!」
母親に叩かれて、マリは頬に手を当てたままだった。
じんじんと頬が熱くなる。そこに熱い涙が一筋、二筋と流れ落ちた。
「ちが……」
リリィは肩で息をしていた。顔は真っ赤に怒りで染まっていた。
ムテには珍しい大喧嘩に、酒を飲んでいたリューマの者たちも、しずしずと食堂を後にした。
が……その半分は、壁に耳を当て、親子喧嘩の様子を探っていたのだが。
「ちがう……」
マリは小さな声で呟いた。
「違う? 何が違うって言うのよ!」
口元をわなわなと震わせて、マリはリリィを睨みつけた。
その反抗的な目に、リリィは少しだけたじろいだ。
「違うんだ! お母さんは、恩だとかなんだとか言うけれど、全然違うんだ!」
「な、何を言うのよ!」
リリィの声も高くなる。
マリは、今までたまりに溜まっていたものを全部吐き出した。
「お母さんは、あたしなんかより、アイツのことが好きだから! だから、恩だとかなんだとか言って、ここにいるんだ!」
わーん! と大きな声を上げて、マリは食堂を飛び出してしまった。
戸口に潜んでいたリューマの男たちは唖然として、見送った。
中には口笛を吹いているヤツもいた。
「あーあ、言っちゃったよ」
「あーあ、本当に……」
「そりゃ、本当のことだとしても」
「そりゃ、色々と難しいよなぁ」
そんな群衆の野次馬話など耳に入らず、リリィは呆然として立つすくんでいた。
「あの子が帰ってこないんです! すぐに追いかけるべきだったのに、私ったら、動揺しちゃって……私ったらぁ……わぁぁぁ!」
……本当に泣き声の大きな親子である。
ドカァァンと響いた雷の音にも負けないほどである。
サリサは親指の爪をかみながら考えた。
これは、彼が考え事をするときの癖である。しかも、その癖が出るときは、けっこうさえているときである。
「リリィ、この雨の中です。外にいるとは思えません。この建物のどこかに潜んでいるのでは?」
カシュの腕の中で、震えながらリリィが言った。
「でも……雨の中、蝋燭を持って歩いていくあの子を見たっていう者がいて……」
「それが本当ならば、危険だ!」
カシュが叫んだ。
すぐに捜索隊が結成された。
リューマ族の妻たちも、不安げに男たちの出発を見送っている。
このあたり独特の一時的な嵐なのだが、雨風が強くて大人でも歩くのが危険だ。
しかも、このあたりには土竜が生息している。普段は全く危険性のない愛嬌のある竜なのだが、巣の中に水や火が入ったりすると興奮し、手がつけられなくなるのだ。
それでも巣穴に近づかなければ問題はないのだが……。
「その土手を降りていったっていうのが本当なら、早く連れ戻さないと」
カシュがマントを羽織ながら、男たちを急かす。
リリィも自分も行くのだと言い張るので、サリサも付き添いで行くことにした。
でも、どうしてもマリのようなしっかりした子供が、いくらショックを受けたからといって、このような無謀な行為に出るとは思えないのだ。
見た者が何人もいるのだから、間違いなく外に出たのだろうが……。
「あの、念のため、建物中を探してみてくださいね」
リューマの女たちにサリサは耳打ちした。
歩くのがやっとの風である。
男たちはよろよろと歩く。土手から足を滑らす者がいて、救助に時間をとられてしまった。
ごおおお……と大きな音がする。風の音だ。
「気をつけろ!」
カシュの声に一斉に男たちが身をかがめる。木の枝が頭の上を通り過ぎた。
嵐は時間を追うごとにひどくなるようである。
しかし、サリサとリリィはこの嵐の中でも平気だった。それは、サリサの結界の中にいたからである。
ぴったりと寄り添えば、リリィは守られるのである。あれだけサリサに嫉妬心をあらわにしたカシュであったが、リリィが行くことになったとき、すぐにサリサに彼女をゆだねたのだ。
だが、本心は嫌だろうなぁ……とサリサは思った。
たとえエリザのためであっても、彼女が他の男に抱かれているなんて想像したら、サリサはそれだけで腹が立つのだから。
だが、カシュは何も言わず、ただ仲間を励ましながら、自ら先頭を歩いていた。
リューマ族ではあるけれど……ガサツな男ではあるけれど……いい人である。マリも認めてあげればいいのに、などと、サリサは考えた。
我慢を重ねる恋愛は、どうも辛くてたまらない。
心の命ずるままに、何の気兼ねもなく愛しあえたら……。
しかし、それにしても。
嵐がここまでひどくなる前だとしても、子供の足で歩くには、遠くに行き過ぎているのではないか?
そう思ったときだ。
「いた! あそこだ!」
リューマの一人が指を差した。
崖を下った向う、明かりがチラチラと見えた。
「マリ!」
サリサの腕から飛び出してリリィが叫んだ。せっかく雨風から守ってあげたのに、あっという間に意味がなくなっている。
たしかに、真直ぐに歩いてゆくマリの姿があった。
しかも、そこは……土竜の巣のすぐ側である。
「おーい! 危ないぞ! 戻ってくるんだぁ!」
カシュが大きな声で叫ぶ。
嵐と雷で聞こえないのか? それとも、わざと無視しているのか?
マリは振り向く様子もない。
崖は下るには危険すぎる。迂回するしかない。
「よし、回るぞ!」
カシュは仲間に命令した。
「……カシュさん……ごめんなさい」
嵐の中でぐしゃぐしゃになったリリィが声を掛けたが、カシュはポンと突き飛ばした。リリィの体はすっぽりと後ろにいたサリサの腕の中――結界の中に納まった。
「あんたはそこにいろ!」
ぶっきらぼうにカシュは言った。
サリサが声をかける。
「カシュさん、あの……」
「あんたはその人を守っていてくれ!」
突き放すようにカシュは命令した。
――子供の足で崖を下ったはずがない。迂回したにしてはおかしくはないか? そう言おうとしたのに。
サリサはマリの姿をよく見た。
そして、確信した。
「カシュさん! まって!」
サリサが声をかけたと同時に、リリィが甲高い悲鳴を上げた。
マリが歩いていくその向うに、たくさんの青白い光が揺れている。
それを見つけてカシュたちの足も止まった。
土竜たちの気の狂った眼光だった。
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