祈りの夜・9


 ぞくり……とした。

 これはまるで……死人の顔だ。


 女の手が、エリザの首にかかる。息ができない。

「や、やめて……」

 嫌だよ、あなたと私は一緒なんだから、あなただけが幸せになるなんて、ゆるせない! 女はキリキリと叫んだ。

 憎悪の強い念。

 この女は、何か強い気だけを残して死んだ女だったのだ。

 おそらく、エリザと気の似ているところがあって、波長があってしまったのだろう。

 私はあなたと同じことをしたんだよ、と女は笑った。

 マサ・メル様を愛していたのに、あの方を愛していたのに……。

 彼は全然私を愛してはくれなかった、だから、復讐してやるのだ、死んでやる、死んで私の思いを見せつけてやるのだ、でも、あの男は私を物のように扱って、死んだって気にも留めてくれなかった、だから、私は寂しくて、いつも寒いんだ。

 でも、あなたなら大丈夫、あの男、あなたを愛してはいないけれど、きっとあなたが死んだら、一生覚えていてくれるよ、あなたは、死んであの男を支配できるんだ。

 一生、あの男は苦しみとともに、あなたのことを思い出すよ。

「あ、う……私、そんなこと、望んでいな……」

 エリザの意識は遠のいた。

 いいや、わかるよ、あなたと私は同じだから。あなたはあの男を独り占めしたい、その方法はこれしかないんだよ。女は笑った。

 この女は、確かに一途なところでエリザとは似ている。

 けれど、出した結論は違いすぎた。叶わぬ恋を憎しみに変えて死んでしまったのだ。

 憎しみの念は、かすかな希望にすがって生きようとするエリザの気持ちよりもはるかに強い。


 だめ……。死んじゃうかもしれない……。


 かすむ目に幻がちらついた。

 美しき銀の影――


 エリザは手を伸ばした。ただ、虚しく空気を切るだけである。

 確かにその存在を、自分だけのものにしたかったのだ。ムテのためにある尊き存在であるその人を。

 そして、エリザは最高神官の愛を信じた。女として。

 なんと愚かな勘違いだろう。

 その慈愛に満ちたすべてを、自分のような情けない少女だけに注がれていたと思い込むなんて。恐れ多いにもほどがある。

 そう、あの美しい姿も微笑みも幻。

 エリザの描いた甘ったるい恋は、夢。

 思い違いは毒となり、切ない思いは刃物となる。

 エリザを苦しめる凶器なのだ。


 でも、毒でも刃物でも何でもいいから、消えないでほしい。

 ――お願い。私を支えて! 

 エリザの口から、もう二度と出てこないはずの言葉が漏れた。

「……助けて! サリサ様!」



 信じられないことが起きた。

 突然、青い顔の女は悲鳴をあげ、白い煙となって消えてしまったのだ。


 一体何が起きたのか――


 エリザは、首筋に手を当て、はぁはぁと息を整えた。

 薄暗い闇の中、散らばった妄想日記に囲まれて、狭い部屋の真ん中でへたり込んでいた。

 朝は死にたいと思っていたくせに、やはり、死にたくはなかったのだ。

 とても、怖かった。

 思わず、名前を呼んでしまった。

 さすが、最高神官の御名だけある……と、エリザは一瞬思ったが、いくらなんでもそんなはずはないと思いなおした。


 やはり忘れられない。

 いや、きっと忘れる。それじゃないと、生きていけない。

 私は数多くいる巫女姫の一人――あの人はムテの珠玉、最高神官なのだから。

 変な思い込みをしないように、もっと大人にならなくちゃ……。


 破った日記を捨てようとして、エリザはあるものを見つけた。

 ――白い小さな花。


 これは、別に珍しい花ではない。あの苔の洞窟にも初冬に咲きはじめる花だ。香りはかすかだし、薬効も低い。

 でも、少しだけ清浄効果があるのだ。邪心を払う効果もある。

 窓辺にあったものが何かの勢いで女の上に落ち、それで彼女は退散したのだ。

「いったい、どうしてこの花が?」

 エリザは首をかしげた。

 布団を窓に押し込めたときにはなかった。とすれば、今日祈り所にきた人の誰かが、たまたま持ってきたものかも知れない。それとも、どこかから風に乗って飛んできて、たまたま窓の格子に絡まったのかもしれない。

 エリザは救世主の姿を知って、ひそかに抱いてしまった少女っぽい妄想をあざ笑った。

「まさか、サリサ様が私の声を聞いて駆けつけてくれた……なんて思わなかったけれど……」

 どこかで、そうだったらいいのになぁ……と思ってしまったのだ。

 全然、気持ちが整理されていない。

 どこかで、あの『祈りの儀式』がすべて幻で、最高神官の愛が自分だけのものだったら……なんて、いまだに考えてしまうのだ。


 なんて少女趣味な甘ったるい妄想……。

 ぽっかりと空いてしまった胸の穴は、そう簡単にはふさがらない。でも、その痛みに泣いてばかりじゃ生きてはいけない。


 エリザは、花を持ってきてくれた誰か知らない人に感謝した。そっと香りをかいでみると、かすかだけど匂いがする。

 子供ができたら……なんて妄想話をした洞窟には、この花が咲いていた。


 あの時、どんな話をしていたのだろう?


『私、ここがいいです。この洞窟の片隅に部屋が欲しい……でも、そうしたら、香り苔も竜花香も怒って咲かなくなってしまうかしら?』

『大丈夫。きっと、仲良くできますよ』

 そう言って、最高神官は微笑んだのだ。


 でも、それはエリザだけに微笑んだのではない。歴代の巫女姫にも同じように微笑んだことだろう。

 エリザの元に現実は訪れなかった。

 別の巫女が叶えたのだ。

 エリザの場合は妄想で終わった。

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