祈りの夜・8


 夕方が近づいてくる。

 もう火を熾して死ぬ事はできない。

 エリザは、ぼうっと考えていた。

 食欲も起きないから、このまま何も食べなければいいのだ。

 そうしたら、ゆっくりと死んでゆける……と。


 誰かが来る。

 一瞬どきりとしたが、朝に話をした管理人だった。

 エリザは未練がましく幻を待っている自分に腹がたった。こんな情けない自分だから、妄想につけこまれ、思い込みで気が狂うのだ。

 妄想癖は、今までも他人に迷惑をかけてきたではないか? もう、止めなくちゃ……。

 そう思ってエリザはおかしくなってしまった。

 もう、妄想で誰かに迷惑をかけることなどないのだ。死ぬのだから。

 うつむいているエリザの前に、管理人はひょこひょこしながら、椀を差し出した。

 中には、見たこともないような料理が入っていた。

「な、なんですか? これ?」

「うーん、わからんがね、巡礼者からの差し入れだねぇ」

 黒っぽい豆がいっぱい入っていた。柔らかく煮ているせいか、あまり形をとどめていない。匙でつついてみたら、白い柔らかな物体がその豆の中に沈んでいた。

「ごめんなさい、私、食欲がなくて食べられない……」

 エリザは、わけのわからない食べ物を、そのまま管理人につき返した。

 飢えて死のうと、決心したばかりだった。

 しかし、管理人はちょこんと首をかしげた。

「だがねぇ。これは、エリザさんに食べてもらわんと、あかんっすよねぇ」

「……ど、毒味ですかぁ?」

「いや、その、あの、これを持ってきたお嬢ちゃんがねぇ、エリザさんは絶対にここにいるはずだから、これを食べて元気出してもらうんだからって、駄々こねてねぇ……」

 エリザは目を丸くした。

 自分がここにいることを知っている人なんて、誰もいないはずなのだ。それに、そんなお嬢さんなんて知らない。

「決まりもあるしねぇ、受け取れネェ! ってがんばったんだけどもよ、そのお嬢ちゃん、強くってねぇ。最後に最高神官がその様子を見かねてねぇ、とにかく受け取ってわしらで食べろってねぇ……」

 エリザは、再び椀を受け取った。湯気が上がっていて温かそうだ。

「はぁ、何でもその子の故郷の名産品の菓子らしいっす。祈り所に来る人を相手に一商売しているらしいんですが、何でもここの祈り所には、命助けられているからって言って……」

 エリザの脳裏に、ふと少女の姿が浮かんだ。

「マリ……?」

 エリザが呟くと、管理人はポンと手を打った。

「ああ、そんな名前のお嬢ちゃんだったわさー。最高神官を呼び捨てにして、巫女姫様に睨まれていたわさー」


 椀の中にマリのかわいい顔が浮かんだ。

 あれから三年もたった。もう、お母さんの手伝いをして、そんな仕事ができるようになったのだ。


 あんな小さな子だったのに……。


 ぽたり、と、椀の中に涙がこぼれた。

 霊山の生活は辛かったけれど、悪いことばかりじゃなかった。巫女姫に選ばれたことは、苦しい思いに繋がったけれど、妄想だけじゃなかった。

 だって……マリの命は、確かに救えたのだから。


 エリザは匙で豆を一すくいし、口に運んだ。甘い味が広がった。

 戻した杏や蜂蜜飴を思い出す。甘い食べ物なんて、何年も口にしていなかったのだ。白いものは米をつぶしてふわふわにしたものらしい。体が温まる。

 また、ぽたりぽたりと涙が落ちた。

 エリザは、この差し入れの場面を想像してみた。マリが、サリサに生意気な口を聞いている姿が、簡単に空想できる。

 霊山での日々が思い出された。マリと過ごした時間が、エリザには一番幸せだったかもしれない。

 三人が家族であったのは、偽りに違いない。でも、間違いなくいい時間を分け合ったのだ。三人で……。


 死ぬわけにはいかない。

 だって、マリに夢を見て生きようって言ったのだもの。

 ――その私が死んじゃったら……だめ。


 エリザは椀を抱きしめて泣いた。管理人がおどおどして声をかけた。

「おやおや、そんなにひどい味かねぇ?」

 エリザは返事と共に椀を突き出した。

「……ぐしゅん。おかわり……」




 夜が来ると、青い顔の女が現れた。

 ちょうど、エリザが今まで書いた日記を破って捨てているときだった。

 サリサにあてた手紙。手にとるだけで、辛くなる。

 妄想で埋まった日記なんて、エリザはもう二度と見たくはないし、書くこともないだろう。書いて日々を過ごしたことも、もう忘れてしまいたい。

 やっとわかったでしょう? と、女は笑った。ねぇ、お友だち、早くこっちへいらっしゃいよ……と、女の声は続く。

「私、そっちへは行けないの。まだまだやらなくちゃいけないことがあるし……」

 ああ、でもあの男はあなたなんか愛してはいないよ、信じて待っても悲しいだけだよ、早く楽になるべきだよ、ねぇお友だち。

 女はいつにもまして饒舌だった。

 びりり……と音を立てて『サリサ様へ』と書いた文字が半分になった。

「確かに、愛は妄想だった。でもね、なしえたこともあったってわかったの」

 日記をバラバラにしながら、エリザは言った。

 紙が破れるような悲鳴とともに、女は叫んだ。

 あぁ、妄想からなんか、何も生まれるものなんてないよ、あなたは傷ついて泣くだけで、絶対に幸せになんかなれないんだ……。

「あの人と幸せになれないのはわかった。でもね、きっとあの人の子供を産む。そして、巫女姫としての使命を果たして、この想いとは決別するの」

 ちくりと胸が痛む。でも、妄想なんていらない。

「決別して、私はもう一度、新しい私として生きるの。そして、妄想なんかじゃない本当の恋をして、ごく普通の結婚をして、ごく普通に幸せになるの」

 それは、エリザの母が夢見ていた、エリザ本来の運命だった。

 多少寄り道はしてしまったけれど、人生がすべてだめになったわけではない。

 今はこんなにボロボロで辛いけれど、巫女姫としての責務を全うしたら、また、新しいエリザとして蘇ることができるに違いない。

 しかし、女は忌々しそうに反論した。

 何を愚かなことを言っているのよ、あなた、よく自分の顔を見てごらんよ、あなたは私、私はあなた、私たち、同じ顔をしているの、同じ服を着ているの、すべては一緒よ、よくごらん!

 闇の中、漆黒の服に身を包んだ女は、首だけの存在に見える。しかも、その顔は頬がこけ、目が落ち込んでいる。

 エリザははっとした。

 自分の着ている服を、どこかで見たことがあると思っていたが、それは、この女の服と同じだったのだ。しかも、確かに顔も似ている。

 水鏡でみた自分の顔は、まさにこの女にそっくりだった。

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