祈りの夜・7


 ずきずきと頭が痛む。

「ううう……」

 うめき声を上げると、ひょこひょこと歩み寄った老人が顔を覗き込んだ。管理人の一人である。声は大きいが口が回らず、元気はいいが足が悪い。

「あうあう、火鉢を部屋で焚いてはいかんちゅったのに。もう少しで、息が詰まって死んじまうところだったよ……」

 そういいながら、管理人は水を差し出した。

 エリザはそれを受け取ると一気に飲み干した。体を急に起こしたせいか、めまいがする。

 体の節々が痛い。足をくじいているのか、動かすとものすごく痛んだ。

「椅子から落ちて、体を打ちなすったんだ」

 あぁ……と、エリザは息をついた。


 昨日あった儀式は、本当だったのだ。

 夢であったらよかったのに……と思ったが、現実は現実だった。

 布団が外された窓からは、ざわざわと人の気配が伝わってくる。

 何があるのか、エリザはもう足が痛くて覗くことができない。でも、だいたい見当はついている。

 今日は、祈りの儀式の最終日だ。霊山で焼いたパンを、人々に配っているのだろう。

 エリザは、窓を見つめた。格子の間から光が漏れている。

 久々に見る太陽の光だ。

 祈り所の壁と屋根が外されているので、この地下にもかすかに窓から光が見えているのである。

 しかし、部屋までは差し込まない。空間に光の帯を作り、高みの壁に白い格子を浮き上がらせているだけだ。

 その向うで、最高神官と巫女姫は仲良く並んで人々に恩恵を与えているのだ。

 その恩恵は……エリザには届かない。

 ぶるっと震えて肩を抱いた。

 ふっと、昨夜のサリサの腕の感触を思い出し、エリザはドキドキした。



 痛いほどに抱きしめられた。

 そして、何度も何度も、謝られた。

 彼は何度も口づけし、何度も髪を撫でてくれた。

 そして、何度も愛を口にして……でも、エリザは突き放したのだ。

「止めて! もうこれ以上、私を追い詰めないで!」

 愛されているなんて信じてしまったら、エリザは生きてはいられない。

 他の巫女姫の存在を、甘んじて流すなんてできない。

「サリサ様を愛しているって思ったこともあります。愛されているとも思いました。でも、それは妄想なんです!」

「違う! エリザ! 私は本当に……」

「いえ! これは私の幻聴で、私の幻覚なの! お願いだから消えて!」

 そう怒鳴ったのに幻は消えず、逆に温かい感触となってエリザを包み込んでいた。

 信じられないけれど、その幻は涙を流した。涙を流して訴えた。

「あなたが一番大切なのです」

 甘い言葉は耳から毒のように胸にしみ、打ちひしがれた美しい姿は目から胸を突き刺した。

 エリザは、幻にじわりと殺されてゆくのを感じた。

「ではなぜ? なぜこんな目にあわせるの? どうして自由にしてくれないの……」

 この腕に甘んじて抱かれたら、二度と穏やかな眠りはこない。祈り所の闇に横たわる孤独が待つだけだ。

 なのに妄想はどうしてこうも残酷で甘いのだろう。

 美しい形をしているが、銀の刃のようにエリザを刺す。刺し殺されて……。そして生き返ると、再び刺すのだ。

「どうして……私を傷つけるの?」

 死んで涙も出ないはずの目から、じわりと熱いものが流れた。

 それをぬぐおうとする手も、唇も、身をよじって避けようとするが、絡み付いて逃れられない。死んだ体が自由に動かない。

「お願いだから……消えてください……」

 抱き合って泣いた。幻も泣いた……。



 泣いたのは、本当らしい。目がはれているようだ。

 震える指先で、唇に触れてみた。夢の中で押しつけられた別の唇の感触を思い出してしまう。

 ぬくもりはまるで現実のように、生々しかった。


「あの……」

 エリザは、勇気を出して聞いてみた。

「あの、誰か夕べはここに来ましたか?」

 ひょこひょこしながら、管理人は言った。

「はぁ? 誰も来るわけないっすよ? わしゃ、入り口当番じゃったけれど、まあ、静かないい夜でしたな」

 エリザはうつむいた。

 そう、誰も来るはずはない。

 それは、来て欲しい、会いたくてたまらないと願った、自分の弱さが生み出した幻なのだ。

 彼は、今日も巫女姫と共に、人々に奉仕しているのだから。

「今日は、ゆっくり休んでいてくださいよ。足は動かさないほうがよろしいっす。後で湿布を持ってきますっからね」

 よたよたと管理人が出て行った。

 一人になって、エリザはため息をついた。窓辺からは相変わらず人のざわめきが聞こえる。これは夕方まで続くだろう。

「私……」

 エリザはまた窓辺を見つめた。


 ――私、昨夜は死のうとしたんだわ……。 


 混乱していてよくわからなかったけれど、結局、死ぬ気になっていたらしい。

 今は光があるせいか、青い顔の女は現れない。エリザは女の言葉を思い出していた。

 お友だち。そうそう、私もそれを選んだよ。

 それを選んだよ……。

 急にまた涙が出てきた。

 エリザは顔を両手で覆って泣き出した。


 これからも、毎夜毎夜、エリザは妄想を抱くのだ。

 それは、エリザの心の傷が癒えたころを見計らって、甘い思い出となって訪れる。そして、傷を再び開いて苦しめる。

 思い出が甘く幸せな分だけ、よりそれは毒となるのだ。


 忘れなくちゃ……。忘れられない。

 あの人の目も手も髪も、優しい声も、ぬくもりも……。


 すべては毒。

 まるで毒に冒されて麻痺した羽虫のように、朦朧と夢みて――殺される。

「私……死にたい!」

 やはり堪えられない。生きていたくない。

 こんなに辛い気持ちで日々過ごすなんて……もう駄目。

 

 忘れたい。


 ――忘れられないならば、そのまま死なせて……。

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