祈りの夜・6


 いったいどれくらい時間がたったのだろう。

 空気は重たい。

 エリザの頭は朦朧としていた。


 もう寒くもないし、苦しくもない。

 何も感じない。

 何も辛いこともないし、痛みもない。

 目に映るものもないし、臭いもしない。

 何も聞こえない。

 無の境地。死の感覚。


 でも……。


 何か触れている。女の手にしては、温かい。

 その感覚だけが、エリザに生を感じさせるものだが、もはやエリザにはわずらわしい。

 安眠を妨げる目覚しにも似て、エリザは目をうっすらと開けた。

 ぼんやりと霞む中に見えるのは、漆黒のマントをすっぽりと被った人物だった。

 顔はほとんど影になって見えないが、フードの中から銀の髪がこぼれていて、しかも銀の粒子で輝いていた。

 その美しい光を、エリザはよく知っていた。


 ――夢みたい。


 邪魔くさそうに一度髪をかき上げた瞬間に、黒いフードも外れる。

 かすかな蝋燭の光と自らの放つ銀の光の中で、美しい顔が幻想的に浮かび上がる。

 闇に透けてしまいそう。幻かと思ったその時。

 その人の手が、エリザの頬に触れ、そして唇をなぞったのだ。

 やや震えた指先。

 その手に、エリザは今までどれだけ熱い眼差しを向けたことか。

 薬草を仕分ける時、苔と草の違いの見分け方を説明し、指し示す指先。

 白く細く長く形がよいうえに、あまりに優雅に動くので、常に目がいったものだった。

 そして……時々、エリザの頬に触れ、唇に触れたもの。

 懐かしい感覚。


 サリサだった。


「これは……夢ですか?」

 会いたくてたまらなかった人の姿が目の前に浮かび上がり、しかも、エリザに触れている。

 なんて素敵な甘美な夢。

 エリザは満足だった。これで、永久に眠れる。

 幸せな夢に浸っていけるなら、もう思い残すことはない。

 しかし、サリサのほうはそれを許さなかった。

 彼は見たこともないような表情を見せた。

 美しい眉間に皺がよる。そこまで眉をひそめた顔など知らないのに夢で見るとは。

「これは……夢…なんかじゃない! 目を覚ましなさい!」

 気持ちのいい夢ですべてを終わりにしたいのに。

 サリサは、エリザの体を持ち上げてきつく抱きしめた。

 硬直しかけた体に、まったくそぐわない痛みが伴った。


 エリザはもう面倒くさかった。

 目を覚まして、また傷つくのは嫌。このまま、いい思い出と共に眠ってしまいたい。

 幸せな夢は幸せなまま、妄想は妄想のまま、それで去らせてもらいたい。もう、辛い思いは嫌だ。

 それなのに、何で私を再び起こして、苦しめるのか? もう起こさないで欲しいのに。


「いえ……夢ですわ」

 そう呟いたとたん、サリサは乱暴にエリザを揺さぶった。

「夢じゃありません。私はここにいる。あなたの前にいるのです! しっかり私を見なさい!」

 ふわりと視線がサリサにあった。

 揺れた水面の波紋が静まるように、一瞬、目の焦点があった。

 はっきりとサリサの顔が見えた。


 うれしかった。

 もう言葉を交わせないと思っていたのに。この最後の時にあって望みが叶った。

 でも、一気に脳裏に先ほどの光景が思い出された。

 本当の世界では、サリサは、もう別の巫女姫のものなのだ。

 ここに現れた幻は、ただ、エリザにその苦しみを思い出させ、絶望を与えるものだった。


 エリザの大好きな手は、別の女の手をとる。

 カサカサなエリザの手など、とらない。

 せっかく死によって忘れさったのに、苦しい感覚が蘇る。

 苦い思い。痛む胸。

 

 ――ちがう。

 ――そうじゃない。


 この苦しみは……仕事ができなかったからだ。

 子供を産めなかったからだ。


 エリザは、サリサを憎んだ。

 甘い口づけで毒を口移しする幻――幸せな思い出も、すべて苦しいものに変えてしまう、目の前の男が憎かった。

 死により吐き出せないはずの言葉を、エリザはただ憎しみのみで絞り出した。


「夢です……。すべては……私の妄想です……」

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