祈りの夜・2
寒さが過ぎ、逆に蒸し暑さを感じる頃だった。
エリザは、祈り所の広間から激しく泣き叫ぶ赤子の声を聞いた。
部屋の窓は広間に通じているので、泣き声はよく響いた。祈り言葉の厳かな響きを時々聞くだけのエリザにとって、それは久しぶりに心を動かされるものだった。
だが、あの悲鳴にも似た声はいったいどうしたことだろう?
その赤子のことが心配で、エリザは部屋を飛び出した。
そして、階段を駆け上がり、広間に通じる扉のかんぬきを必死で壊そうとした。
たちまち現れた管理人たちに押さえ込まれ、無理やり部屋に連れ戻される。
「嫌! 止めてください。誰か! 誰か! 子供が!」
散々叫んだエリザの口元にかすかな香りを含んだ布が当てられ、頭がぼうっとしてしまった。
少し効果を和らげているとはいえ、バナの葉だろう。
「エリザ様、子供など泣いておりませんよ」
しわがれた声で、管理人が言う。
「……でも。確か……に」
意識を失いかけながら、エリザは呟いた。
皺だらけの骨ばった手で、布をあてがいながら管理人は言った。
「それは、幻聴というものです」
……幻聴?
薬が効いたのか、そこでエリザの意識は飛んでいってしまった。
枕元に女が立った。
幻聴を聞くなんて、私たちはもう仲間ね……と、女が微笑んだので、エリザは少し首をひねった。
「お友だちになれるのはうれしいのだけれど……幻聴は困ります」
くくく……と女は笑って、私もうれしいわ、お友だちね、と言って、エリザの額に口づけをした。
その部分が、じんと冷たく感じた。
サリサ様。
私は、よく夢見がちだと言われます。
とはいえ、幻聴とか、幻覚とか、そのようなものを見るとは思えません。思えないのですが……。
でも、確かに赤ちゃんがすごい声で泣いていたんです。その夜は、暗いところに押し込められた赤ちゃんの夢を見てしまいました。
光なんかないところで、泣いても誰も気がついてくれない。泣くしかないけれど、そこは狭くて暗くて、声なんか届かないところなんです。
それは、幻なのでしょうか?
幻聴を聞いてしまった日から、一人で部屋を出ることを禁じられてしまいました。
幻聴や幻覚は、暑さが原因かもしれません。ひどくなると、心を病むそうです。
少し自信がないです。それだけ、最近は蒸し暑い日が続きます。
サリサ様は、体調など崩されてはいませんか?
病になんか、なっていませんよね?
私は……心配です。
エリザは本を読んでいた。
幻聴を聞き出してから、監視のために老婆が側にいるようになった。
本は何度も同じところばかりを読んでしまい、全く読み進まない。
「あなたは、このようなところに篭っていて、不幸ではないの?」
エリザは聞いてみた。
老婆が不思議そうにエリザを見た。
「エリザさん、不幸っていうのは幸福を知っている人だけがわかることだ。わしらは誰も幸せだったことがない。だから、不幸でもない」
誰も話などはしないが、彼女だけは時々口を利いてくれる。ここで『さん』付けで名を呼ぶのも彼女ともう一人――口の動きが悪く、言葉がややなまった男だけだった。
話をするようになったきっかけは……そう、彼女はフィニエルを知っていたからである。
「あぁ、あの人は常に言っていたよ」
「なんて?」
「愛なんて妄想だと」
なんだか懐かしかった。
フィニエルは、確かにそういっていた。でも、エリザにはそうは思えない。
「妄想じゃない愛だって、あると思います」
エリザがそういうと、老婆は笑い声を上げた。それは、まるで息が詰まったような声で、苦しそうに思われた。
その老婆は、暑いある日に亡くなった。
老婆が「くぅ」と声を漏らしたのを最後に動かなくなると、管理人たちは皆、胸に手を当てて祈り言葉を囁いた。エリザも一緒に祈った。
だが、すぐにそれが死だとはわからなかった。
一般のムテ人は、死んだら一気に骨になり、時に灰と化す。しかも、死期を悟るとメル・ロイとして旅立ってしまうので、滅多に死を誰かに見せることがない。
しかし、老いた者たちの死は、ムテ人というよりは、むしろ通常の魔族や人間に近いのだという。じっくりと時間を掛けて死んでゆき、死んだ後に灰になることもない。
時は常にゆっくりと、しかし確実に彼らの上にのしかかる。
灰にならない老婆の死体は、祈り所のさらに地下に埋葬されるのだ。
埋葬するまでの一日を、エリザは老婆の側についていた。骨になることも灰になることもなかった。だから、死を信じられなかった。
まったく死を知らないわけではなかったが、エリザの知っている死とは、違いすぎたのだ。
だが、これが死なのだと、認めざるを得なくなった。
木の箱に入れられた老婆は、エリザが一生懸命閉じても目が開いてしまう。光のない目で見られているような気がして、エリザは怖くなってしまった。
「お願いですから、目を閉じて……」
と、懇願するのだが、死人に心はない。何もないのだ。まるで闇のようである。
これが、死なのだ。
老婆の死を悼んで泣いたエリザであるが、その後、別な意味で泣いた。
命の輝きを失った体というものは、なんとも醜い。
このような死を目にしたことのないエリザには、かさかさになった老婆の姿が、耐え切れないほどに恐ろしかった。
管理人たちが棺桶を地下まで運んでいく。祈り言葉が闇に響き、エリザもそれに従った。
震える声で老婆の死後を祈ったが、あまりの怖さに悲しみを忘れた。
多くの死者がいる――地下には死臭が漂っていた。
その後、エリザは、生きている者たちの悲痛な祈りを頭上から受け続け、地下から湧き上がってくる死の恐怖にも震えるようになった。
そして、時々、あの真っ青な顔の女がやってきては、エリザを慰めるのだ。
別に、死なんて怖いことじゃないよ……ちょっと冷たいだけだから、そういって頬を優しく撫でてくれるのだ。
「でも、怖いし、冷たいのは嫌い」
女の指先は、本当に冷たかった。女は小首をかしげて、不安そうなエリザの顔を見つめた。
そこにいるよりも、いいかもしれないよ? 私は寂しいんだ、お友だちならば、一緒にいかない? ねぇ……と、女は誘った。
「……私も寂しいから、そっちに行ってあげたいけれど、でも、サリサ様と約束しているから、行けないの」
ああ、ばかだねぇ、あなたは。男の約束なんか信じちゃダメ……そう呟くと女は消えていった。
ただ、泣きをみるだけさ……と、言葉がこだました。
この頃から、エリザは全く眠ることも出来ず、食事もあまり食べられず、日々やつれてしまった。
笑顔をどのように作るのかも忘れてしまった。
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