巫女姫シェール・7
部屋に戻ると、サリサは蝋燭に火をつけた。
病で飛ぶのではない。自分の意思で飛ぶ。
エリザの故郷には、実は足を運んだことがない。だから、『光の目』を使うのはかなり無理がある。誰か媒体になる人を探しながら……だ。目の前にいる人とではないのだから、これはかなり至難の業だった。
しかし、サリサに迷いはなかった。
意識を集中……。飛ぶ。
サリサは、上手く馬車に揺られる灯篭の光に同調した。
余りにも揺れるので、視点がぶれて気持ちが悪くなる。道が整備されていないのだ。
エリザが長旅で具合が悪くなっても、これでは仕方があるまい。
馬車に揺られている家族は、小さな子供を抱いていた。悪い流行病にかかっている。あのマリと同じ病だ。
そういえば、エリザの故郷には癒しの技を使えるものがいないと言っていた。彼らは、遠い道を癒し手を捜して旅に出たのだろう。その結果は……芳しくなかったようだ。
おそらく、子供は明日にも死ぬだろう。
エリザが知ったら……泣くに違いない。
あの人は、優しい人だから。
ゆらゆらと揺れる木の葉の向うに、大きな建物の明かりが見える。
やや明確でない絵ではあったが、その屋敷に飛ぶ。
見知らぬ地に飛ぶことは不可能に近い離れ技だが、心病がそれを可能にしたのかもしれない。サリサは、部屋に吊るされた灯りと同調した。
そこはとても田舎の家とは思えない豪華さがあった。ムテらしくないともいえる。建ったばかりらしく、木の香りまで漂っている。
しかし、とても癒される空間とは思えなかった。
ガラス瓶が割れる音がした。
かなり高価な瓶とそれよりも高価な飲み物が床に広がっていた。
「お義父様!」
悲鳴にも近い女性の声。
男がツカツカと返事もせずに歩いてゆく。しかし、その前にその男にも似た別の男が立っていた。
「いい加減にしてください! 私の妻にあたるのは!」
ムテ人に似合わない刺々しい空気だ。
「ふん、財産目当てで来た女だ!」
床に倒れて、泣き出す女。
一瞬、言葉に詰まる夫。
「やっと、おまえも目が覚めてきたか?」
狂気の男に対して、女の夫は怒りに震えて怒鳴りだした。
「母さんが死んでから、あなたは気が狂っている! 財産? そんなもの、どこにあるんですか? すべてあなたが使い果たして明日の食事にだって困っているのが我が家ですよ!」
怒鳴られた男はにやりと笑った。
「巫女姫がいるだろう? あれが帰ってくれば、何も困らん」
胸が痛んだ。
八つ当たりで硝子を女にぶつけようとした男は、エリザの父。それをたしなめたのは、エリザの兄だった。
どうやら……。
エリザがもたらした富は、この家族を不幸にしたようだ。
水面に映っている月の光に同化して、サリサはゆらゆらと揺れていた。
エリザを故郷に帰さなかったのは……確かに正解だったかもしれない。
エリザは悲しむだろう。でも、彼女はあの父親にでも尽くすだろう。身を粉にして働いて……。
――あぁ、それでも幸せというかもしれない。彼女なら。
そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。
サリサは、マール・ヴェールでの最後の会話を思い出した。
あの時、もしもエリザと逃げていたとしたら? 幸せになれただろうか?
きっとしばらくは幸せに浸る生活があったかもしれない。でも、きっとエリザは家族のことを心配して、日々過ごすことになるだろう。
マサ・メルがサリサを家族から引き離したように、サリサはエリザを家族から引き離す。
結局は、二人で自由になったつもりで、引き返すことのできない束縛を科すこととなっただろう。
それを決心したのも、止めてしまったのも、サリサである。
サリサの選択次第で、エリザの未来は大きく変わってしまう。
いや、もう変わってしまったのだ。
平和で幸せだったエリザの家庭は、メチャクチャになってしまったのだから。
もう二度と、元のエリザには戻れない。
巫女姫として選んだ瞬間から、サリサはエリザの運命に大きく関与している。
それなのに、サリサは今まで何も知ろうとしなかった。
何がエリザの身に起きるのか? なんて。
そう、サリサはあまりに無知だった。
最高神官は忙しく祈り続けていたが、民が何をしているか? など、知ろうともしなかったのだから。
そう、しようと思えば、力さえ使えば、いくらでも知りえることを。
目が覚めた。
朝になっていた。
祈りの準備のために、もうすでに仕え人が控えている。
つまり……少し寝過ごしたのだ。
「起こしてくれても構わなかったのに」
「いえ……」
彼は、胸に手を当て、敬意を示すだけだ。その手がかすかに震えていて、弱々しくも見える。
――よほど、苦しそうに寝ていたのか……も……。
最高神官の仕え人にあって、仕事の遂行を躊躇するほどに。
「おかげでよく眠れました。急ぎましょう。日が昇ってしまうまえに、祠に行かねばなりません」
サリサは自ら立ち上がり、最高神官の衣装に手をのばした。
誰でもない。
自らこの仕事を選んだのだ。
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