巫女姫シェール・5

 黒い八角の部屋の扉の前で、サリサは自らに暗示を掛けた。

 それは……この中で待っている女性はエリザである……という思い込みの暗示である。そうでもしなければ、やっていられない。

 エリザの時以来、仕え人たちは外で控えることになっている。かしこまる彼らの間を、何の問題もなく通り過ぎる。そして、彼らは部屋を出てゆく。

 ここまでは、暗示がよく効いていた。サリサは、甘美な夢の中に自分を半分置いていた。だが、夢に食いつぶされた最高神官の暗示など、自分を騙すには弱すぎたらしい。

 シェールの姿を見たとたん、あっという間に正気に返ってしまった。


 エリザよりもずっと体格の良いシェールは微笑んでいた。いつまでたっても緊張をほどかなかったエリザとは大違いである。

 サリサは、エリザと一緒に勉強したり癒しの練習をしたりした夜を思い出していた。

 狂おしいほどに愛しいのに、触れるのが怖くて……。自分を半分罵りながらも、エリザの勉強に付き合っていた日々。

 それに比べると、目の前の女性はあまりにも大人だ。すでに、ローブを下ろしている。

 蝋燭に照らし出された胸はふくよかで、やや下を向いている。エリザのような小さいながらも形の良いものではない。すでに、何度も違う男性の手にあった存在なのだ。その白い胸には、サリサが残すべき刻印は似合わない。

 この人は、もうすでに三人も子供を産んでいるのだ。

 エリザのような『初めての女』ではない。彼女のような清らかさを求めるのは、失礼というものだろう。だが、サリサはそれだけでも気が引けてしまった。

 手を差し伸べて頬に触れる。その頬はややこけていて、サリサが知っているふっくらしたものではなかった。

 目をつぶり、唇を重ねる。その唇も……知っているものではない。

 首に絡みつく腕はまったりしていて、二度と離れないかと思うほどだった。そして、口の中に侵入してくる舌の感覚が蛇のようにぬめっている。

 エリザと分け合った蜂蜜飴の思い出さえ、すべて絡みとられるような恐怖を感じて、サリサは思わずシェールを突き飛ばしてしまった。

  

 だめだ! できない。

 この人を愛するなんて、できない!


「サリサ様?」

 やや不思議そうな声が、薄闇の中に響く。

 サリサはうつむきながらも何度か大きく呼吸した。

 そう――彼女には罪はない。

 このような態度は、巫女姫に対して失礼だ。

「すいません。少し……時間をください」

 やっと、言葉が出てきた。

 最高神官としてなすべきことは、なすべきなのだ。逃げるわけにはいかない。

 サリサは再び顔を上げた。

 しかし、巫女姫のほうはすでにローブを身に羽織り、何か物思いに沈んでいるかのようにぼんやりとしていた。

 やはり、傷つけてしまったのだろう。サリサは後悔した。

 すでに充分な地位を得ていながら、巫女姫としての使命を果たすべく、この地に戻ってきた彼女である。

 ムテの血を残すために、我が身を捨てる決心をして、この場に挑んでいる彼女である。その厳しさを知っている身でありながら。

 自分に足りない立派な決意。

 それを、受け入れないのは最高神官として失格であろう。

 今度こそは……と、巫女姫の頬に手を触れた。

 シェールは、サリサの目を見つめた。思わず目をそらしてしまう。

 エリザのあの大きな瞳を思い出すと、シェールのムテ人らしい切れ上がった目は耐え切れない。

 シェールはそっと、頬に置かれたサリサの手に手を重ねた。


「サリサ様は……心病ではありませんか?」


 その言葉に、サリサはビクッとした。

 最高神官が心病であるとは、事実であったとしても、誰もが口にすることをはばかることだ。

「何を無礼なことを……!」

 慌てて否定するのは、認めたことと一緒である。

 サリサは立ち上がり、出口に向かった。

 本当に頭に血が上ってしまったのだ。

 しかし、シェールはささっと立ち上がると、すすす……と走り、サリサよりも先に扉の前に立ちふさがってしまった。

「あまりにも無礼が過ぎますと、巫女姫解任にしますよ」

 これは脅し文句であるが、しかし、サリサにとっては嫌なことを先送りするいい手段でもあったかもしれない。

 巫女姫適任者がいないとなれば、エリザに後ろめたい自分である必要もなくなるのだから。

 しかし、シェールはその場を引くことはなかった。

「サリサ様、なぜ、隠そうとなさるのですか? 病は隠して治すものではありません」

「私が心病であるなどと!」

 サリサは否定しながらも、焦っていた。

 たったこれだけしか会っていない巫女姫にさえ見破られているのだから、他の仕え人たちにも気がつかれているに違いない。

 最高神官として……このままでは……。


「無理しないで。嫌だったら、逃げればいいじゃない。サリサ」


 一瞬、耳を疑った。

 サリサは驚いて巫女姫の顔を見つめた。

 その言葉は、過去にも聞いたことがあったのだ。


 サリサがマサ・メルの厳しい指導に泣いて過ごした日、当時巫女姫だったシェールは、たまたまその場に居合わせた。

 巫女姫としては明るくて規則破りの彼女は、サリサに逃げる方法のあれこれを指導してくれたものだった。

「無理していいことなんか、全然この世にはないのよ。嫌だったら、逃げればいいのよ。サリサ」

 信じられないようなことを、彼女はへっちゃらな顔をしていったものだ。

 結局は、最高神官という地位からは逃げきれなかったサリサだが、彼女のおかげで雲隠れは上手くなり、したたかな少年へと成長した。


 サリサが呆然としている間、シェールはふっと寂しげに笑った。

「あなたが心病だってわかるのは、きっと私だけだから安心して」

 そのようなはずはない。

 巫女姫にばれているのであれば、きっと状況は最悪に違いない。身近な者たちにもばれているだろう。

 そして誰もが不安になる。悪い連鎖が起こり、気が乱れ、祈りに影響を及ぼすことになる。

 だから……病気になど、なってはいけないのだ。

「なぜ? なぜ、私が病んでいると?」

 サリサは聞き返した。

 シェールはうつむき……そして頭を上げた。

「だって……私も病んでいるから……」

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