巫女姫シェール・3
「お疲れ……なのではありませんか?」
珍しく仕え人に言われた。昼の行をこなすための着替えの時である。
最高神官を心より信じている彼にしては、珍しいほどに不安げな顔だった。
「気のせいです」
サリサは微笑んだが、間違いなく疲れていた。それは、深く眠ることができないからだった。
昼の行をほどほどにして昼寝をする日課は相変わらずだった。
しかし、エリザとの思い出がある洞窟は、なんとも寝心地が悪かった。
暗示を掛けてはいないのに、髪に触れようとするエリザの幻に目を覚ましてしまうのだ。
光が差し込む岩の上で、かつて、二人で愛し合おうとした。
見事フィニエルに邪魔をされてしまったことも、今から思えば懐かしい。
あの時のエリザの姿が目に浮かぶ。
触れた胸のふくらみにときめく。そこに刻まれた赤い印は、サリサが前夜に刻印したもの。
ただひたすらに、わがままに、エリザを自分のものとした。
今まで壊れてしまいそうで触れられなかったものに、すべてを忘れて、ただ、自分の思うがままに。
そして……彼女も受け入れてくれた。
その証ともいえる印は、エリザのすべてを手に入れたという、サリサの署名のようなものでもあった。
「私のもの……」
と、サリサは思わず呟いていた。
それはもちろん叶わない夢であり、いつかは手放す運命ではあった。
しかし、あの時あの瞬間、あの印が残る限り、エリザはサリサのものだった。
……なのに、腕からすべてがこぼれてゆく……。
抜け殻を抱きしめながらも、サリサはエリザのあとを追って、空中に身を躍らせた。
その身は、真直ぐに落ちてゆく。地表を越えて、さらに下まで、深く深く、エリザを追って。行き着いたところは、祈りも光も届かない闇の世界だった。
湿った空気と、かすかにカビの臭いがする。
乾いた地面の上を、ゆっくりとサリサは歩いた。時に、水溜りにはまりながらも……。
細い通路を抜けると、やや開けた場所にたどり着いた。
そこで、サリサはおもわず鼻に手を当てた。
別に強烈な臭いがあったわけではない。だが、明らかに嫌な臭いだった。その臭いに名をつけるとすれば『死臭』というのが一番ふさわしい。
ムテは本来、埋葬のない種族だ。
なぜなら、死期を迎えた者たちは、その姿を人にさらすのを嫌い、旅立ってしまうからだ。
メル・ロイ――時に惑う人々と呼ばれ、隠者のような生活をし、死を迎えると、あっという間に骨となる。中には、そのまま灰になってしまうものもいる。
いずれにしても、銀のムテ人は長らくその死後の姿を人前にさらすことはないのだ。ただ、老いた人々を除いては……。
サリサは、今いる場所を知っていた。
ここは祈り所のさらに地下に設けられた墓所である。
ムテには、時に『老いた人』が現れる。
長命のムテにありながら、徐々に年老いて死に至る突然変異の人々だ。彼らは、その徴候が現れると、聖職者として祈り所に入る。
ムテに力を与えるという光を避けることによって、急激な老化を抑えることができるからだ。
彼らは、望む・望まないに関わらず、祈り所での生活を余儀なくされる。しかも、死して灰になることのない彼らは、祈り所のさらに下にある墓所に埋葬される。
ムテの人々が生きて百年・二百年と残す姿を、彼らは死して百年・二百年とさらす。それも、けして美しい姿ではなく、屍としてである。
誰もが入りたがらない、いや、黙されて語られることもない墓所に、サリサはいた。
木で作られた箱が並んでいた。時にその箱は古すぎて朽ちているものもあり、茶色の骨が地面に直接横たわっていたりもする。
ふと、中の屍の窪んだ目のあたりに視線が留まって、サリサは吐き気をもよおしそうになった。カビのような嫌な臭いが、ますます鼻をつく。
限りなく続く棺と死者。願わくは、ムテ人としてあるべき形で散ってくれ……と、不可能な願いを呟きながら、サリサは先を急いだ。
だが、その中の真新しい棺に、サリサの足は止まった。
祈り所に篭るための黒い衣装に身を包んだ、銀の髪の女性。
エリザがそこに眠っていた。
死の色を称えた頬は、肉が落ちている。
力なく開かれた瞳は、どこも見ていない。
……これは、夢だ! とサリサは思った。夢ならば醒めろと。
でも……エリザは死んでそこにいた。
サリサは、震える手を伸ばして、冷たくて硬い頬に触れた。氷のような感覚だった。さらにかつてはふっくらとしていた唇に触れる。
すると……。
「これは……夢ですか?」
そう言葉を漏らしたのは、エリザのほうだった。
土色に変わった唇がかすかに震え、かき消えそうな空気の振動となった。
戦慄するほどに痛々しい。恐ろしさにサリサは震えた。
夢です……と言ったら、彼女は深い永久の眠りに落ちるだろう。
「これは……夢…なんかじゃない! 目を覚ましなさい!」
棺の中からエリザを抱き上げると、サリサは強く抱きしめた。
「いえ……夢ですわ」
耳元で、絶望した声がこだました。
「夢じゃありません。私はここにいる。あなたの前にいるのです! しっかり私を見なさい!」
ふわりと視線がサリサに合った。
見つめあうと、エリザの瞳の中にかすかに光が宿り、かつてのように大きく見開かれた。
が、それが最後だった。
目の輝きは、ただ……憎しみと絶望を伝えるためだけの生気だった。
「夢です……。すべては……私の妄想です」
エリザは、低く小さな声でそう言い残すと、サリサの腕の中であっという間に音を立てて灰になった。
慌てて飛び起きた。
絶叫がこだまし、悪夢の余韻となって耳に響いた。
何も変わらぬ光あふれる苔の洞窟の中。
柔らかな日差しが、サリサの眠っていた岩の上も明るく照らし、安らかな香りが立っている。
祈り所でも、その地下にある墓所でもない、エリザと過ごした思い出の場所だ。
「また……夢か……」
サリサは両手で顔を覆った。
その手に残った灰の感覚は、かつてマサ・メルの灰に触れた感覚にも似ていて、実に現実的だった。
あたりは明るく、冬の白い花がいい香りを漂わせているというのに。
エリザとの幸せな思い出が詰まったこの場所においても、サリサの安眠は訪れない。
「あなたに会えないと……不安でたまらない」
情けない独り言をもらして、再び祠へと向かうしかない。
休んで悪夢を繰り返すよりも、まだ、祈るほうがましだった。
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